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2013年12月22日 (日)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(6)

第3節 第一作用者と第二作用者の関係の分析

 

トマスによると、神は、それぞれのはたらくものにおいて、三つの仕方で働いている。すなわち、まず第一に、目的という特質に基づいてはたらいている。というのも、すべてのはたらきは何らかの善を目的として目指しているが、何らかのものが善であるのは最高善である神の何らかの類似性に分け与っていることによる。それゆえ、神は、目的という仕方でそれぞれのはたらきの原因となっているのであり、そのような意味ですべてのはたらくもののうちに働いている。 

第二に、作用者同士の依存関係という点において、第一作用者である神は、第二次作用者のうちにはたらいている。その理由は、秩序付けられた多数の作用者が存在している場合には、常に、第二次作用者は第一次作用者の力においてはたらいている。なぜならば、「第一作用者は第二次作用者を作用することへと動かす」からである。第一原因である神はあらゆる作用者のはたらきの原因なのであり、そのような仕方ですべてのものは神の力においてはたらきを為している。

第三に、神は、創造者として、「被造物に形相を与え、それらを存在のうちに保っている」。そして、形相は「はたらきの原理」であり、また、神は「存在」というそれぞれの事物の最内奥の原因なのであるから、神はすべてのものにおいてその内奥においてはたらいているということが帰結する。 

それゆえ神は、事物に形相を与え、それらの事物を存在のうちに保ち、また、それらをはたらくことへと作用因的に動かし、また、それらすべてのはたらきの目的としてもそれらのもののうちにはたらいているということが帰結する。 

 

 

第4節 「原因性」と自己根源性の相違 

トマスは、人間が「神の似姿」であることの根拠を、「自らのはたらきの根源であること」─すなわち自己根源性─に求めている。だが、すべての被造物がそれぞれに固有の「原因性」を有しているのであれば、人間が「自らのはたらきの根源である」ということは、他の被造物に比べて特に特権的な立場にあることの根拠だとは言えなくなってくるのではないだろうか。もしも「神の似姿」としての「人間」が特権的な立場にあるのであれば、「自らのはたらきの根源である」ということの内実の中に、単なる「原因性」に還元され得ない特質が見出されなければならない。

 『神学大全』第Ⅱ部の序文において、トマスは、人間の自己根源性の根拠として、「自由意志」と「自らのはたらきに対する支配力」という密接に結び付いた二つの特質をあげている。それゆえ、これらの特質の内実を明らかにすることを通して、「神の似姿」としての人間の自己根源性と他の被造物の原因性との相違がより明確になると思われる。その内実は次のとおりである。

すなわち、被造物において、はたらきの起源・根源は、「作用者自身のうちに」あることもあれば、「外に」あることもある。また、「自らが自らを動かす」という構造を有している存在者においても、そのような運動のうちの或るものは「理性的な判断から」生ずるが、他のものは「本性的な判断から」生ずる。というのも人間以外の諸動物は、判断に基づいて運動するが、その判断は自由な判断ではない。それらは、「自らの判断について判断することがなく、神によって自らに植え付けられた判断に従うのみである」。それゆえ、それらのものは、「自らの決断の原因」ではなく、それゆえ「決定の自由」を有していない。それに対して、「自由な判断」を下すことのできる人間は、「理性の力によって、為すべきことについて判断しつつ、自らの決断についても判断することができるのであり、そのことは目的、および目的へと向けられたものの特質を、さらに後者の前者に対する関係・秩序づけを認識しているかぎり可能となる。」 

ここで、人間以外の諸動物に対する人間の卓越性として語られているのは、人間精神の自己還帰性についてである。すなわち、諸動物においては、たとえ「判断」ということが語りうるにしても、その「判断」は特定の目的─手段連関に完全に服しているために、種的に規定された特定の環境世界への埋没から自らを引き離すことができない。それに対して人間は、具体的な「決断・判断」に基づいて特定の目的─手段連関に自らの身を能動的に置くことができるばかりではなく、そのような特定の目的─手段連関自体を吟味して相対化することができる。こうして、「人間は運動することにおいてのみではなく、判断することにおいても、自分自身の原因である」。それゆえ、このような意味で、人間は「自由意志」を持っていることになる。 

このような仕方で、人間は、その他の被造物も有している「原因性」を超えた仕方で、自己根源性を有していると言えるのである。そして、そのような自己根源性が人間のもう一つの根源である神との関係の中ではじめて可能になっているというのがトマスの人間論の特徴なのである。

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