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2013年12月 2日 (月)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(4)

.「自分存在している」という事実をどう捉えるか

1「自分」というのは何か

「自分」とは何か、この問いについて考えるために、ハイデガーは、まず、本来でない自分のあり方を分析しています。つまり、「自分自身から逃げる」という現象を見るのです。自分から逃げるとは、いったい、どこからどこへ逃げるのでしょうか。生きている限り、この私が消えてなくなるわけではない。それにもかかわらず、私たちは、なぜ、「自分から逃げる」や「自分を見失う」という表現を使うのでしょうか。こうした表現が一般に意味するところを捉えて、比喩的な意味で「自分」という言葉を使っていると説明することができます。「自分」という言葉で実際に言われているのは、自分の義務や自分の理想のことである、と説明できます。

「自分が自分であるときに、あなたは自分とどういう関係にありますか」と聞かれたとします。ハイデガーはこれに対して、「自分をしっかり持っている」と答えます。ハイデガーは、私たちの自分に対する関係は、この「持っている」という関係を基礎としていると指摘します。「自分」とは、私が知らないうちに、「はい、これがあなたですよ」と押し付けられてしまったもの、それにもかかわらず、生きている限り背負い込まされているもののような気がします。取り替えがきかないかたちで持っている、それが「自分」との関係です。ところが、この「自分」を失うことがあるのです。そんな時、どこで自分を失ってしまうのでしょうか。ハイデガー独特の問いの立て方です。「なぜ」ではなくて、「どこで」という点を考えるのです。

私たちか自分を失うのは、「世間並み」というところ(「一般に人は」という主語の支配する領域)においてです。人もこうするから、人がこう言うからというように、誰と特定できるのでもない主語、「人が」というところです。確かめようもない「一般人の意見」というところで、自分を見失ってしまう。このように、自分を失うことは、世間一般という、本来、自分がそこに居続けることができないところへと堕ちていき、自分の居場所を失うことです。

他方で、こうした「本来でない」方への自己喪失と並んで、「本来」の方への自己喪失もあるのです。我を忘れてひとつのことに没頭する。そのようなとき、私たちはどこにいるのでしょうか。やはり、「自分の前」ではありません。けれども、「世間」や「一般人」のところでもありません。そのようなとき、私たちは、自分でありながら、自分を遥かに超える大きな理想や課題や使命と一体となるところまで行こうとしています。つまり、自分が自分でありうる限界のところにいる。自分がありうることの最大の可能性に向かっているのです。

このように、私たちは、意外にも、「自分」に対してルーズな関係を持っています。同じ「自分」の中に、世間並がいて、同時に、理想や使命が存在しています。「自分」の存在論的な構造を見ることで分るのは、実は、どちらもが、私たちの「自分」の姿だということです。

従って、ハイデガーは、自己喪失や自己分裂を病的な現象と捉えることに対して、存在論の立場から警告を発しています。自分を失い、自分とうまくやっていけないことは、人間が、「自分」というものに対して固定できないルーズな関係を持っていることから生じてきます。それは、人間の自由な本質と関わりがある、とハイデガーは言います。自分を失う(ことができる)、自分が見知らぬものとなってしまう(ことができる)─自己喪失や自己分裂が、具体的経験として、現実的には辛いものであり、時に、非常な苦悩となるにしても、ハイデガーはそこに、人間の本質を見てとります。なぜなら、「自分を失う」ことは、人間のギリギリの可能性でもあるからです。ハイデガーは、ここに、私たちが、「自分」でありながら世間並みに堕ちていく動きと同時に、自分でありながら自分を超えていく可能性を見て取るのです。

 

さて、どうして、私たちは自分でありながら「自分を失う」ことがあるのでしょうか。先ほど、それは「人間の自由な本質」と関係があると説明されました。世間並の自分を選ぶか、そうでない自分を選ぶか、選択の自由に対して開かれているのです。自由とは、自分の意思で何かを選び、何かを決定することではなく、「開かれている」ことです。ハイデガーは選択の自由があると言わずに、「選択の自由に対して開かれている」という言い方をしているのは、このためです。

私たちは、自分が何を選択しているのか、その本当のところは、分らないのです。後になって考えた時にはじめて、自分が選択した道が何であったかが納得されるのであって、生きることにおける選択は、ある程度時間が流れ去った後でようやく明確になるのです。自分の選択を理解するための時間は、選択そのものを行った時間とは異なる系列にあります。ハイデガーが言うように、自由とは「開かれた存在」であるということ以上の具体的な規定はできないのです。

 

「自由に対して開かれている存在」である私たちは、素晴らしいこともおぞましいことも含めて、様々な可能性に開かれています。従って、現に存在しているという事実ではあるが、独特な構造をした「事実」であると言えましょう。それは、自分がどうあることができるかという可能性に支えられた事実です。どうあることができるかという可能性がもととなって、こう生きているような事実性です。ハイデガーは、生きることの事実性を、様々な可能性をめぐって生じる正名の運動と捉えてきます。可能性をめぐっての運動とは、実は、理解の運動です。あることが可能性であるためには、それを可能性として理解してくることが必要になるからです。そして、可能性の理解によって、自分の「そうありうること」という事実性に気付くことができます。今、可能性「として」という言い方をしました。可能性を可能性「として」理解する。これは単なる確認です。ハイデガーが注目するのは、「として」という部分です。「として」という言葉には、理解という私たちの行為が持つ構造が潜んでいます。構造と言うより、運動と言った方が適切かもしれません。ハイデガーは、この理解の運動に注目します。あることが何であるか分っていないとき、それを理解しようとして、思考は、予期と検証との間で往復運動を行います。この予期かないところでは、理解と言うものがそもそも始まらない。何が分かって、何が分からない。手が付けられない状態です。ハイデガーは、「として」をめぐる理解のこうした動きを、「投げかけ」と言う言葉で捉えています。こうかもしれないと投げかけてみるわけです。さて、理解の動きは、単に、こちらから投げかけるだけではなく、なげかけたことが対象の方から投げ返される動きをも含んでいます。つまり検証です。そして、今度は、自分の理解を修正する。そこで、新しい理解の可能性を考えだし、予測を再び対象に向かって投げかける、という形で動いていくのです。

このように見てくると、私たちが何かを理解するプロセスは、可能性と現実性という二つの極の関係と密接に結びついていることが分かります。理解は、可能な内容と現実の内容との間で往復運動を行います。従って、「可能性に開かれた存在」は、つねにこうした理解の往復運動を行っている存在です。私たちの「現存在」は、「可能性の方から自分を理解する」のであり、理解することで可能性を生きているのです。つまり、現に生きてあるということは、「投げかけること」で可能性を獲得し、可能性を理解することで「自分」を理解しつつ、この運動の中で生きていることを意味しています。

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コメント

自分と外部との境目は何か。その境目から自分とは何か、と考えようとしてしまいがちですが、そんな境目などないのだということ、そしてそもそもそういう考え方自体が違うらしいことが少しだけ分かりました。少し前にキルケゴールをきっかけにした自己流の「関係」としての自分についての考えを申し上げましたが、CZTさんのおかげで、全く歯がたたずに読めなかったハイデガーがちらりと見えた気がします。これも自己流としての解釈になりそうですが。

OKACHANさん、コメントありがとうございます。短いコメントから仰ることを厳密に理解するのは難しいですが、ハイデガーなら「存在と時間」なんかの著作よりは講義録の方が読み易いかもしれません。後期の一連のニーチェ講義(芸術としての力への意志とか)アリストテレスの形而上学講義とか。私は、もっぱらそっちを読んでます。

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» ハイデガー 存在の謎について考える [投資一族のブログ]
シリーズ・哲学のエッセンス という副題を見るべきでした。著者の方はハイデガーを理解しているのかもしれませんが、あまりにも平易に大衆迎合した書き方をしているので、逆に全然わからないという。 哲学と人生論はどう結びつくか 「存在そのもの」は、長く哲学研究の対象でした。実体、つまり、真に存在するものは何か。ただ偶然に存在するものと、必然的に存在するものとはどのように区別されるだろうか。絶対的な存在とはなんだろうか。神のような絶対的な存在と、存在するもの全体との関係とはどのようであろうか、といった問題が様々... [続きを読む]

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