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2013年12月28日 (土)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(12)

第3節 神の把握可能性と把握不可能性

トマスは、人間の最終的な完全性である至福の内実を、神が把握可能なのか把握不可能なのかという狭義の認識論的な問題設定の枠組みのみで考えてはいなかった。そして、ラーナーの解釈に欠けていたのはまさにこのような視点である。トマスの全体的な問題設定としては、ラーナーのいう光の形而上学の展開において、その一つの派生的問題として、「神の把握不可能性」という問題を導入しているからである。

神認識の場合には、人間が対象である神を自らの見慣れた親しみのある世界の中に位置づけるのではなく、人間の方が徹底的な自己超越をとおして「自存する存在そのもの」である神へと脱自していくということであり、そしてそのようなことが可能になるのは神の側の恩寵による受容に基づいているということである。自らの認識様態に人間が最後まで束縛されつつもその認識が何らかの形で神に届かないわけではないということが肯定されているのは、神の側の受容ということが根拠になっているのである。

その「受容」ということは「恩寵」といった特別な愛に基づくのみではなく、そもそも人間が神を起源とした自然本性的存在を有し、自然的理性によって目的としても神へと向けられているということ自体が、神の受容に基づいている。というのも、トマスは、自然の領域があってその奥に恩寵の領域があるといった二重構造で思索を進めているのではない。知性的被造物がその自然的能力を備えて存在しているということ自体、存在賦与という神の愛に基づいているのであり、それはそれ自体、「恩寵」という神学的概念で呼ばれていないにしても、恵みにほかならないだろうからである。

それゆえ、「恩寵の光」や「栄光の光」による神の側の受容によって可能になる認識は、たしかに人間の自然本性を超えているのではあるが、自然本性に反するどころか、むしろ、自然本性自体に内在している究極的な可能性を初めて現実化するものでもある。それゆえ、被造知性が神の本質を観ることを可能にする根拠として語られている神の「恩寵」というものは、被造知性を自らにとって自然な認識様態への自閉から何らかの形で解放するはたらきとして、しかも、だからといって被造知性の認識様態を排除するのではなくむしろそれをその認識様態に基づいて完成する働きとして、語り出されている。これは言い換えれば、他者である神を親しい他者として受け入れながらしかも私の自分らしさが失われないどころかむしろそれまでにない輝きを帯びて立ち現われるという事態であり、我々は、これと類比的な事態を、神認識とは別の局面においても実際に経験している。それは他者への「愛」という態度にほかならない。

トマスは、「希望」を現実化しつつ克服した至福者について語ることによって、希望の役割に制限が与えられ、それによりかえって、そのような希望を担っている現世の人間と神との関係が、ラーナーにおけるよりも具体化された積極的な方向を持ち得ているといえるだろう。

 

第4節 至福者の認識様態

こうして、神認識においては、「知」の方向性が、他者である神を人間が自己の認識様態へと同化するという方向から、自己自身が神へと類似化しつつそのことによって「神の知」へと参与していくと言う方向へと転換する。そしてそのことは、神の本質を直視している至福者の認識様態を分析することによって、より明らかになる。

神の本質を直視されるということは、神という一対象が認識されることを意味するのではない。そうではなく、「自存する存在そのもの」であり、純粋現実である「神の知」に人間が参与することを通して、この世における通常の人間的認識においては断片的な形で多様性の中に拡散したままに認識されるにとどまっている世界内的な事物の総体を、「被造物全体」として全体的に理解するための道が開かれ、そのような豊かな「存在の充実」に人間が参与していくことができるようになるのである。だが、だからといって、至福者たちは、被造物のすべてを認識できるわけではない。

現世の人間が神を直視することができないのは、結果である可感的被造物が原因である神へと充分に導く力がないからであった。それに対して、至福者においては、原因である神を全体的に把握することができないから、その結果である被造物のすべてを認識することができない。それゆえ、神の本質へと参入した至福者=把握者において初めてありありと露わとなる神の把握不可能性というものがあることになる。そして、その神の把握不可能性は、被造物全体の把握不可能な豊かさの認識へと反照する。

 

第5節 神の把握不可能性の含意するもの

こうして、神の把握不可能性は、神だけの問題にとどまるのではなく、神を「起源と目的」とする被造物の把握不可能性へと反照してくる。すなわち、人間が、根拠である神に対して自己相対化しつつ問いの運動を遂行する時には、我々の周りにすでに存在していた感覚的世界が新たな形で秩序づけられて根源への問いに開かれてきて、そのような根源からの光のなかで考察されるようになる。

例えば、至福者において、認識し尽くすという意味で神を把握することは不可能であるということが、現在の生において認識されることによって、我々は、神の認識不可能性という点において至福者との何らかの共通性を獲得する。そして、そのとき、至福者における神の把握不可能性ということの意味も転換する。すなわち、至福であるにもかかわらず神を完全には把握していないのだという消極的な理解のみではなく、至福直観においてこそ、神の把握不可能性とその神を「起源と目的」とした被造物全体そして我々自身の把握不可能な奥行が初めて完全な意味で露わとなるのであり、そのとき、「把握不可能性」の意味するものは、単なる否定的な認識なのではなく、むしろ、あらゆる肯定的な認識によっても汲み尽くせないほどに神を中心とした実存全体が存在の充満を有しているということがはっきりと露わになる、ということなのである。無限である神が有限である被造知性によっては把握不可能であるということは、現世における自然理性的認識によっても充分に概念的に認識されうることではあるが、それはあくまでも概念的認識である限りにおいて、神の遠さという意識を促し、我々に絶望を与える可能性を有している。だが、神を「かんでいる」「至福者」においては、神の把握不可能性ということが愛を伴った親しさにおいてつかまれることによって、把握不可能なほどの豊かさとして肯定的に受け取られるのである。

 

結論 「把握」の場合分けの持っている意味

トマスは、「把握」を広狭二つの意味内容へと分節化して、「把握者」の存在態様を確固とした仕方で語り出して「旅する者」の希望を基礎づけるとともに、そのことによって、かえって、「認識し尽くす」という意味での「把握」の可能性をはっきりと否定することに成功している。そして、人間の無限の受容可能性と自然本性的能力によるその実現の不可能性とのギャップという形で、「自存する存在そのもの」に与りゆくプロセスが、人間に固有な自然本性の運動自体の力によって実現しつつ、そのような運動の実現に神の側からの働きかけが不即不離の仕方で関与していることを語り出すことを可能にしている。そしてその結果、単純な不可知論と実在全体に関する絶対知の獲得という両局から人間精神を解放して、人間理性の単なる相関者としてではなく、他者である神をまさに他者である神として理解する可能性を根拠づけている。

「存在の充実」を求めて知性認識活動に従事する人間は、「自存する存在そのもの」である神の認識においてこそ、そのような「存在の充実」を究極的に獲得することができるのであるが、そのような神認識は、「存在の充実」を永遠的な仕方で所有している神の側からのはたらきかけが伴って初めて十全な仕方で実現する。そして、そのようなはたらきかけが伴って初めて十全な仕方で実現する。そして、そのような仕方で時間的に「存在の充実」を獲得していく人間は、その極点においても、「存在の充実」そのものである神と融合することはないのであるが、それは単なる否定的な事態なのではなく、むしろ、把握し尽くされないほどに豊かな「存在の充実」によって刻み込まれることによってこそ、神との関係における人間知性の究極的な完成が非融合的・自立的な仕方で遂行される、という構造になっているのである。

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