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2013年12月 3日 (火)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(5)

.自分は「世界のうちにいる存在」である

自分が自分である、自分が自分として生きている、この事実には、可能性に開かれていることが含まれていました。自分の事実性とは、自分の可能性のことです。自分の可能なあり方を模索し、可能性へ向けて自分を投げかけていくこと、それが生きてあることでした。このことは、可能性に対して開かれている形でしか生きていけないということを意味しています。与えられた「自分」をやっていればいいとか、自分の生き方をはじめから自分で選択して決定するということは含まれていないのです。可能性に対して開かれているということは、私たちの「現存在」の事実性です。つまり、厳然たる根本的事実であって、逃れられない事実です。私たちの存在は、可能性の「投げかけ」というかたちで生きることでしか与えられないのです。自分とは、「自分」をめぐって揺れ動く運動です。明確なアイデンティティを持つことでも、自己規定することでもない。したがって、「私は、何者か」や「私はどうあるべきか」という問いに、最終的な答えを見つけようとする試み自体が間違っていることが分かると思います。むしろこうした問いを常に続けることが、自分であることなのです。

私たちは、なぜ、「自分」をめぐって揺れ動くのでしょうか。ハイデガーは、この問題について、私たちの存在を根本から規定している事態を指摘します。つまり、「投げ込まれていること」という事態です。自分の可能性であるということは、この現実の自分であるからこその可能性ということであり、逃れられない自分という認識があってはじめて開かれるのです。

その自分が「なげこまれたこと」をハイデガーは存在論的な基礎概念として捉えるべきだと言います。「誰が」や「どのようにして」というように「投げ込まれた」ことの根拠を明らかにすることは出来ず、私たちは、自分を「投げ込まれた存在」として受け止めるしかないと言います。「投げ込まれた」ということは、「自分がいる」という事実の偶然性を暴露します。偶然性とは
存在論的に考えれば、「ないこともある」という可能性のことです。これに関連して、ハイデガーは「自存」という言葉を持ち出してきます。「自存」つまり、自分の力で存在していることです。そして「自存」という言葉を、「自分」と「存在している」という二つの事態の統合として、「自・存」というように分かち書きにしています。「投げ込まれた存在」としての「自分」の偶然性は、「自」と「存」のふたつの次元で現われるのだ、と言うのです。「自分」でないことがあり、「存在しない」ことがある、というふたつの否定性です。自分が生きてあるということは、明白で肯定的な事実と思われますが、実は、存在論的にいえば、二重の否定性がこの事実の隠された裏の面なのです。「自存」には、「自」の否定である「他のもの」と、「不在」が隠されている。いえ、むしろ、私たちが生きてあることは、この二重の否定性によって支えられていると言った方が適切かもしれません。

 

私たちにとって原初的な自己関係、つまり、「自分が自分を持っている」と言う関係は、「自分を失う」という否定的な側面を見ることで解明されました。この否定性を見つめることで、「自分」の根本が「開示される」、とハイデガーは言うのですが、目に見えてくるようになります。「開示」は、ハイデガー特有の概念ですが、もともと隠れたかたちであったものを目に見えるようにすることを言います。「投げ込まれた存在」としての「自分」を意識することで、隠されていた「自分」が目に見えるようになるのです。眠っていた状態から目覚めるわけです。

たしかに、私たちの日常的な「自分」は眠っている状態にあります。日常の生活の中で存在している時、「自分」はどこにいるでしょうか。私たちは、日常の決まったリズムで生活している時、その時々の状況に気をとられていて、とくに自分を意識することはありません。とりたてて「自分」について考えることはないのです。逆に「自分」が強く意識されるのは、いつもと調子が違う、自分が自分の思うとおりにならない時です。そのような時に、自分が強く意識されるのですが、「自分が遠い」と言う感じがあります。自分自身との距離が感じられるのです。そして、この距離こそが、強い自己意識を成立させています。反対に自分がしっかりと保持されているときには「自分が近い」と感じられるのですが、自分が近い時、自分は前面に出てこない。眠り、隠れている。自分が「自分」のもとにいるとき、「自分」というのは、周囲の状況との滑らかでダイナミックな一体として感じ取られるだけです。ハイデガーは、自分と周囲のそうした一体を、「状況の中で泳いでいる」というような日常的表現で捉えています。その姿を、「世界のうちにいる存在」と名付けています。私たちの「現にあること(現存在)」は、同時に「世界のうちにあること」ということでもあるのです。

哲学は長い間、この考えを否定してきました。回りの世界とは独立している自己意識(「私」という意識)を前提として、私たちと世界との関係を理解してきました。近代の西洋哲学は、主人たる私がいて、それが客体としての世界を見るという二元論のイメージで考えてきたのです。人間を中心とした主客構造は、西洋近代の社会が、自然や非西洋社会、そして近代以前の歴史的世界という問題を何とか処理して、合理化できるために必要とした構図でした。つまり、自分にとっての「他者」の問題を抑圧するための構図です。このように、「私」と世界との関係が、最初から主客ないし主従の関係として想定されることで、自然や非西洋社会を征服し支配することが正当化されてきたのです。ハイデガーは、非常に素朴で現実的な「自分」感覚をもとにすることで、こうした西洋近代の哲学的構図を打ち破ろうとしています。自分とは、世界を征服し支配する存在ではなく、「世界のうちにいる」存在なのです。

 

ハイデガーは、私たちの存在の「状況的性格」を踏まえたうえで、なんとか、「世界のうちにいる」ことを一般的なかたちで分析しようとします。その際に、ポイントは、やはり「自分」ということです。私たちの世界のありようは、それが私たちの世界である限り、「自分」という一点に向かっています。「自分」に絞り込まれた世界です。「自分」に絞り込まれたところから、世界が見えます。まず、「自分の世界」があって、皆と一緒の「共同の世界」があってというように。世界は「自分」を出発点として拡がっています。そうした世界のあり方を、ハイデガーは、「切っ先が自分の世界に向かっていること」と表現します。私たちが生きている世界を体験するのは、自分のその時々の状況においてでしかありません。「状況的性格」です。固定した「自分」はないが、同時に、「客観的な世界」というものが確立しているわけではありません。自分は「世界のうちにいる」状況的存在でしかなく、世界は、「切っ先が自分の世界に向かっている」というかたちでしか現われて来ません。

私たちの世界は、たしかに、「切っ先が自分の世界に向かっている」というかたちで体験されます。自分の周りに世界がある、自分から見た世界であるわけです。他方で、この「自分の世界」以外に、それを超えたより広い「環境」(「周りの世界」)があり、さらには、「自分世界」と他者の世界とが結び付けられた「共同の世界」といったものもあります。「自分の世界」は、「環境」や「共同の世界」とはっきりした境界で区切られているのではなく、すべては、ゆるやかに拡がっていくというかたちで結びついています。ハイデガーの言葉では、「不安定な流動的な成立」ということですが、そのために、「自分の世界」は常に「状況」的な現われ方をします。この「自分の世界」の自分とは、状況的な事態のことであり、主語「私」からでなく、「この自分にとって」という間接的なかたちでしか与えられない。「私が」見るのではなくて、「自分にとって」現われるのが世界である、ハイデガーは言うのです。このように、私たちは、西洋近代の哲学が教えるように、エゴないし「私は」という主語を介して「自分の世界」を持っているわけではありません。「自分の世界」とは、自分から見て近い世界、自分から見て分かる世界のことです。したがって、「自分の世界」とは、「自分にとって」というかたちで自分が引き寄せられる世界であり、「自分にとって」という形で自分に引き寄せられた世界のことです。

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