無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(2) | トップページ | 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(4) »

2013年12月 1日 (日)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(3)

3根本的な問いを考える

選択の自由を与えられている時、私たちはその事柄の意味について問いかけてみることがあります。「これでよいのだろうか」「もっとよいやり方があるのではないだろうか」というように、より良い可能性を求めて、今の状態を疑ってみることができます。ですから、疑うことができる、問いかけることができるというのは人間の自由の現われでもあります。自由から発せられる問いは、より良い可能性を求める問いですから、きちんと答えが見つかるものではありません。「これでよいのだ」という結論が出ることなく、いつまでも続くことがあります。

このように、「これでよいのだろうか」という問いは、自分の自由からの問いです。自由の問いは、厳しい問いでもあります。「これでよいのだろうか」と問うことで、現実をもう一度根本から問い直してみることです。もし、この問いを真剣に考えるのであれば、現状を変える覚悟が必要となります。「これでよいのだろうか」という問いかけの中で、私たちは自分自身を問い直すという作業を迫られてきます。自分との対決を迫られるのです。ですから、自分の問いの厳しさは、時に、私たちの「回避する」態度を引き起こします。自由の問いは、具体的な問題や強制があって「これでよいのだろうか」と問うのではありません。ですから、そのまま放棄することが可能なのです。答えが見つからないのに、「まあ、よいだろう」と止めてしまうことができます。「これでよいのだ」と答えるというのではなくて、回避してしまうのです。

自由の問いは、二つの点で、「存在」の問題に関わってきます。それは、まず、事柄のギリギリのところを問題にしてきます。「これでよいのだろうか」という問いは、極端な形では、「これは、ある方がよいのか、それともない方がよいのか」になります。現状について、存在すべきなくなってしまうべきかを問題にする。存在の是非に関わる問いです。心の変革とは、そのこと自体の消滅を考慮したところで、「これでよいだろうか」と問うことです。徹底した破壊のないところでは、「これでよいのだろうか」という問いは、真の意味で立てられているとは言えないのです。第二に、自由の問いは、私たちが、自分自身のあり方と対決することを要求します。自分の本来やるべきこと、本来の姿を示してきます。「これでよいのだろうか」と問いを立てることで、私たちは、自分の本来すべきことへの覚悟を試される、本来あるべき姿になる覚悟があるかどうか、問われるわけです。同時に、それができない自分、非本来でしかない自分の姿が炙り出されてきます。「これでよいのだろうか」と問うことは、自分の本来性と非本来性について考えることでもあるのです。

 

私たちは、「これでよいのだろうか」という根本的な問いを発することができます。この問いは、私たちの自由を保障すると同時に、終わりのない問いかけの堂々巡りを引き起こします。そして、究極的には、今の「存在」そのものを疑問視する問いとなります。しかも、この問いを発することで、私たちは、「自分の本来」という問題に直面させられるのです。「これでよいのだろうか」という問いが持つ根本的性格は、この問いの怖さを思い知らせます。けれども、同時に、私たちは、この問いを立てる時、自由な存在の優位をどこかで感じています。ハイデガーのこの考えには、徹底的に問うという作業に対する確信と、生きることへの強い意志が感じられます。私たちは、存在論というかたちで自分の存在を根本から問題にできるからこそ、存在するものとして優位に立っているのです。この時の優位とは、ハイデガーは、「途上にあること」を真に受け止めることだ、と言います。途上というのは、答えのない問いを立てることです。問いに答えを見つけることではなく、自分をオープンにしておくこと、可能であることを忘れないでおくことです。「とじょぅのあること」を開放して、自分を開いたとき、「根本的な疑い」が生じる。正しい生き方という正解を手に入れようとするのではない。とうしても答えが見つからないような疑問に身を晒すことが、存在論を考える私たちの優位なのです。「円環の運動のなかに跳び込むこと」を要求し、その円環にとどまり続けることを「思考の祝祭」と名付けたハイデガーの意図が分かります。ハイデガーは、根本的な疑いのことを「存在的な疑い」とも呼びます。「存在的な疑い」の後に、「気を遣うこと」「不穏」「不安」「時間性」という四つの項目が挙げられています。根本的な疑いが具体的なかたちをとった現象のことです。

 

「これでよいのだろうか」という根本的な問いを回避することは、自分自身から逃げることです。根本的な問いは、私たちを自分のあり方と対決させ、自分の本来を引き受ける覚悟があるかどうかを問いただすものです。この根本的な問いを回避することは、自分の本来ということから逃げることを意味します。

「自分」にはいろいろな姿があります。「本来の自分」や「本来でない自分」がある。また、「本来の自分」を知っているが、そこから逃げている自分があり、さらには、「本来/非本来」の区別すら知らないために、事実上逃避している自分など、「本来の自分」をめぐっていくつかのあり方をすることができます。「本来」という言葉で表現されているのは、「こうあるべきだ」という理想的な人間像のことではありません。私たちが、自分のあり方をどう理解しているか、そこから、自分をどう位置付けているかのことです。ハイデガーは、「本来でない自分」が「本来の自分」へと変わるべきであって、そのために自己逃避をしてはならないという道徳面を展開しているわけではありません。「自分」というものが、「本来でない自分」と「本来の自分」というふたつの極のあいだで揺れ動くさまを分析し、私たちの「自分」がどのような姿を取るのかを見ようとします。世間並のことで済ませようとする自分、現状に甘んじてしまう自分は、まぎれもなく、「自分」を構成する側面です。ただ、そのときには、私たちは「自分」を自分の目の前につきだしていない、自分にめぐり合うことができない。自分でありながら、実は、「自分」ではないのです。むしろ、「本来」と「本来でない」のあいだで揺れ動き、ときにより本来でありえたり、ときに本来でないことになったり、苦しい選択を行っていくのが、「自分」というものなのです。この揺れ動きこそが、私たちが「自分自身」に出会うことができる場なのです。

« 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(2) | トップページ | 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(4) »

ハイデッガー関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(3):

« 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(2) | トップページ | 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(4) »