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2013年12月19日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(4)

第2章 ペルソナの自己根源性:被造物としての人間の自立性

自立的な個体であるペルソナとしての人間は、創造者である神に対してはどのような在り方をしているのであろうか。そこにおいても自立性というようなものが考えうるのであろうか。「被造物」として人間を把握し、「創造主」による摂理などということを考えてしまえば、人間の主体性・自発性・自由意志といったものは、つぶれてしまうか、せいぜい二次的なものとして保存されるか、いずれにせよ、根本的には無意味なものとなり、人間の具体的な生活の全体が無価値化されてしまうのではないだろうか。ペルソナとしての人間の自立性・自己目的性は、神に対する依存性とは両立しないのではないだろうか。

このような疑問に対するトマスの解決は、被造物としての人間が自立性という卓越性を有していることこそが、神の創造的な卓越性の何よりの表現だという捉え方だ。

第1節 『神学大全』における人間論の位置づけ

中世スコラ学者は、聖書に啓示された神の言葉を信じ、それをできるかぎり知的に理解していくという「信仰の理解」の立場に立っていた。神の存在はある意味では自明であり、問題はむしろ世界の在り方と神の在り方とをどう位置付けて説明するかということであった。

トマスの『神学大全』の全体構造には、万物を、その起源としての一者からの「発出」、及び終局としての一者への「帰還」として理解する新プラトン主義の原理が適用されている。だが、同時に、以下のような決定的な相違が存在している。すなわち、新プラトン主義においては、一者からの世界の流出と流出した世界の一者への帰還は共に自然必然的な運動であると考えられていたのに対して、トマスは、神と、神から「発出」し「帰還」する人間の双方が自由な働きを有していることを強調している。

トマスは、さらに第Ⅱ部の人間論・倫理学のところで、「人間」が「神の似姿」であることの根拠は、「自らの働きの根源である」ということ、「自己根源性」、に求められている。トマスは、人間は単純に「自らのはたらきの根源である」と言うのではなく、「自らもまたそのはたらきの根源である」という含みを持った言い方をしている。神の本質とはたらきが述べられる第Ⅰ部に続いて展開される第Ⅱ部の人間論においては、神のはたらきから切り離された形での人間論が展開されているではなく、自己根源性を持った神の似姿として自らもまた自己根源性を持っている人間という観点から、すなわち、神のはたらきと人間の働きの協働という複眼的な立場から、論が展開されている。

こうして、神という根源から発出しつつそれ自体が自己根源性を有している人間は、その結果として、静的ではなく力動的な性格を持つこととなる。そのようなトマスの人間観は、「人間は、神の似姿に向けて創られた」という聖書と教父の伝統的な表現に対するトマスの独自の解釈の中に反映している。これは、人間が神へと接近していくべく創られている、という動的な意味に解釈されている、ということである。だが、それは、「人間」という確固とした輪郭を持った一つの存在者が、「神」という全く別の輪郭を持った不可知の存在者ともともとは全く別個に存在していて、それから何らかの二次的な関係を取り結んでいる、ということを意味しているのではない。むしろ、「起源と目的」として自らを超えた「神」と呼ばれる実在に関係づけられていることによって、人間自らが、自分自身に対して他者性を孕んだものとして現存しているということ、「私は何であるか?」という問いは単なる事実記述的な形で答えることはできず、「私はいかなるものとなるべきであるのか?」という課題性を孕んだ問いと不可分の形で存在しているということ、を意味しているのである。

そして、人間本性のこのような動的な構造に関して、トマスは、「人間の自然本性は可変的である」と述べている。人間は、自らの存在論的な位階=アイデンティティを、固定的な形で与えられていない。人間は単純に人間で「ある」のではなく、人間と「なる」ことにおいて初めて本来的な意味で人間で「ある」ことができるようなダイナミックな存在なのである。トマスが「神の似姿」という概念を導入して語り出そうとしているのは、人間の自然本性の自己超越的な構造についてなのであり、自らに固有な在り方を超え出るまでに自己を超えていくことがかえって自己に最も固有な在り方の実現となるという人間本来の力動性がこの概念によって表現されていて、しかも、そのような形での人間の上昇は、あくまでも「起源」である「神」によって支えられて初めて可能になるということが同時に表現されているのである。

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