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2013年12月23日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(7)

結論 意志的能力の二重構造の示唆している人間の関係的な自立性

人間の意志の自己原因性を基礎づけるより高次の原因として「神」を理解しているトマスの人間論の構造を、自由論の観点より詳細に明らかにしている。

トマスの自由論は、「自由意志」と「意志」という二つの概念を中心に構築されている。トマスは、まず自由意志を次のように定義している。「我々が自由意志を有する者であると言われるのは、一方を退けて他の一方を受け入れる─つまり選択する─ことができるというまさしくこのことに基づいている。…選択に固有な対象は目的へと向けられたものに他ならない」。自由意志が直接的に関わるのが「目的へと向けられたもの」であるならば、目的自体へと関わる欲求的なはたらきを「意志」と呼んで、自由意志と区別している。しかし、「意志」と「自由意志」とは全く別な能力ではなく、根源的には同一の能力だとされている。なぜなら、目的への欲求である「意志」は、目的へと向けられたものに関わる「自由意志」の可能根拠として、「自由意志」を包含している。

このような意志の特徴を明らかにするためには、それが人間に与えられている「自然本性的な傾向性」だということを理解する必要がある。トマスは、それぞれの存在者におけるはたらきの原理を、「自然本性的な傾向性」とか「自然本性的な欲求」と呼んでいる。それらの概念は、認識を持たない存在者を含めたあらゆる存在者が善へと向かう存在活動の原理を意味している。

こうしても人間の意志と神との関係は以下のようになっている。すなわち、「究極目的(である神)は必然的に意志を動かす。というのもそれは完全な善だからである」。意志は、神から与えられた自然本性的傾向性として、究極目的へと必然的に動かされているのである。それゆえ、このような捉え方においては、人間の意志の神に対する徹底的に受動的な関係が語られている。だが、そのような普遍的善=第一動者=神への人間の秩序づけは、人間の側の措定に基づくのではないかぎりにおいて、確かに受動的なのであるが、人間は理性を有するがゆえに、そのような秩序づけを秩序づけとして内面化することができる。そして、意志のこのような性格に基づいた人間全体の自律的・自立的な在り方は、自発性・意志性と呼ばれていて、それが人間の自由を可能にしている。

こうして、人間が、具体的な場面における具体的な諸対象の現存のなかにおいて、何らかの対象を選択する際に、「自由に」選択するということは、その対象は人間の意志を必然的に引きつけるような力は持っていないということを意味している。換言すれば、人間の意志がそのような個別的な対象を意志するのは、そのものに対する自然本性的な(必然的な)傾向性に基づくのではない。だが、それは意志の自然本性的傾向性に反しているのでもない。というのも、自然本性的傾向性というのは、人間に与えられた根本的な条件のことであって、人間の個別的・具体的な意志の発動がそのような根本的な条件に全く反しているということはありえないからである。

人間がそもそも何らかの具体的な対象を選択するということは、その具体的な対象によって何らかの意味で引きつけられていることを意味する。だが同時に、その選択が自由に行われる限りにおいて、その引きつけは決して強制的な性格のものではないと言わなければならない。つまり、その具体的な対象が有限的なものにすぎないことが何らかの価値で実際に気付いているといえる。そして、何らかの世界内的な有限的善を有限的善として理解する時、実は我々は何らかの非有限的(無限的)な善を暗黙の裡に認識しているのであり、このような意味において、そのような「無限的善」と呼ぶべきものは、経験的対象としてではなく、具体的経験の成立根拠として、『経験』されていると言うことができる。そして、ここで「経験」と言われているものは、実は、「或る意味においてすべてのものである」と言われる人間精神の自己認識に他ならない。むすなわち、個別的な諸対象の持つ魅力が「不完全な善」なすぎないとの判断は、何らかの形における「完全な善」への人間の意志の志向を前提としているのであり、そのような志向を振り返ることを通して、「人間的欲求であるところの意志の対象は、普遍的な善である」というようなことが人間精神の自己認識として自覚されるのである。というのも、そのような普遍的で完全な善に対して開かれた自らの根源的な可能性を何らかの形ですでに自然本性的に認識しているからこそ、個別的な善をいくら獲得しても満たせない空虚を自らのうちに感じ取ってしまうのだからである。

このようにして、感覚的世界の地平には決してそれ自体としては現われることのあり得ない「無限なるもの」の「受容」の器として、我々が自らの精神を自己理解する時、感覚的世界の地平の内にある有限的諸善は、「無限なるもの」との対比の中で、徹底的に「有限なもの」として把握される。そして、そのことによって、「有限なもの」が、幻想的に理想化されることも単なる無価値的な事実性として切り捨てられてしまうこともなく、むしろ有限なあるがままに享受されるような地平が開かれる。というのは、人間精神が自己認識を通して、自らの目的を無限なるものの受容と理解する時、世界内的なすべての事物は、目的へと向けられたものとして相対化されるとともに、時間的・感覚的存在者である人間が直接的に触れるかけがえのない通路─無限なるもの(目的)へと導く─として捉えられるからである。

感覚的な時間的世界と知性によって開かれて来る永遠的世界の中間者として、人間が存在論的に自己理解を遂行するとき、経験的世界は、人間が、自己へと贈られてくる新たな事態の中において、常に新たな目的─手段連関に基づいて構造化することのできるようなものとして現前するとともに、だからといって単に人間の恣意に任されたものとしてではなく、人間の手による目的─手段連関の能動的な構築自体が、「普遍的な善」による「普遍的な動かし」に基づいたものであることが洞察されるのである。こうして、このような仕方で、最初にあげたトマスの定義が理解されるのである。

すなわち、人間が選択の自由を有するということは、個別的な外的対象の強制から自由であるということを意味している。ところが、そのような自由意志は人間の意志行為の第一原因なのではなく、その基盤には根源的所与としての自然本性的(=意志)があり、さらにそのような自然本性的な傾向性としての意志を措定するのは、第一動者である神にほかならない。それゆえ、人間が自己運動する自発的な存在者だということは、人間が自らの行為の最終的な因果関係・支配関係の網の目の中に存立していながら、「存在の普遍的な根源に対して直接的な秩序づけを有する」がゆえに、その「存在の普遍的な根源」を自らの根拠として受け入れることを通して無限への力動性に与り、世界内的な諸関係を自らの行為の対象・条件として受け入れつつも、完全に呑み込まれてしまうことはなしに第二次的因果連関として相対化しつつ、「存在の普遍的な根源」へと秩序づけていくことができる。このように、ペルソナとしての人間は、自立した自由な存在者としての自己根源性を有しつつ、あくまでも、創造者である神との関係性においてその自立性・自己根源性を確保している。

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