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2013年12月16日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(1)

序論

人間は、様々な存在者の相互関係によって織りなされているこの世界のただなかに生まれ、その世界に単に受動的に適応するのみではなく、それらのものとの多様で重層的な関係性を能動的に織りなしながら自らの生を築き上げていく。人間は、「善さ」や「完全性」を有している程度に応じて、存在の保持のために種々の関係性を取り結ぶ「必要がある」のであり、また、「善さ」や「完全性」を有している程度に応じて、自在に豊かな関係性を取り結ぶことができる。例えば、「完全性」・「自足性」を欠いている幼児は、自らの存在のために、養育者との関係を取り結ぶ必要がある。それに対して、成熟した親は、自ら何らかの欠如に促されて幼児と関係性を取り結ぶ必要性があるのではなく、無償の愛に基づいて、幼児と自由に豊かな関係性を取り結ぶことができる

人間存在は自己関係的ではなく、他者や他の諸事物との関係形成の中で、自己自身を乗り超えつつ新しい自己を形成していくことができる。そしてそのことによって自らの自立性を失うのではなく、豊かな関係形成の中で自らの自立性を新たなより優れた形で深めながら維持していくことができる。

トマス・アクィナスは、人間存在のこのような力動的な在り方を、「存在」自体の力動性に基づいて哲学的に基礎づけている。トマスは、単に、「存在」という事実に基づいて、「活動」という結果が生じてくる、ということではなく、「存在する」ということがそれ自体、力動的な活動であるということを言明している。「存在する」という事態が含みこんでいる動的な豊かさが、具体的な「活動」という事態へと分節的に展開していくのである。

本書が目指しているのは、人格(ペルソナ)の存在論的な構造を、徹底的に分析することによって、トマスの存在論的な人間論の構造を、「存在の充実」という観点から、「認識論」と「倫理学」の全領域に渡って統一的に把捉しつつ、「人格の存在論」を構築することである。

トマスが「ペルソナ」という言葉を人間に関して使用するのは、人間を生物学的説明したり、その対人的・社会的な側面を意識論的・行為論的に説明する文脈においてではなく、主に、その自立性と一性を存在論的に明らかにする文脈においである。つまり。ペルソナは「全体的で完結したもの」と言われ、また、「完全性と全体性という特質を持っている」というような仕方で存在論的に規定される。そして、このような「完全性と全体性という特質」に基づいて、「ペルソナは、自然全体のなかで最も完全なもの─すなわち理性的な本性において自存するもの─を表示する」と言われる。そのさい、「自存する」とは、「何らかのものが、付帯性のように他のものにおいてではなく、それ自体によって存在するものである」という根源的な自立性を意味している。トマスはペルソナの基本的な特質を次のように規定している。

理性的な諸実体にあっては、個別的・個体的なものが、(他の諸実体よりも)なお一層、特別なそして完全な仕方で見出される。これらの(理想的な)実体は、自らのはたらきに対する支配を有し、他のもののように単に働かされるだけでなく、自らによって働く。ところが、働きは個体においてある。このゆえに、諸々の実体の中でも、理性的な本性を有する個体は、さらに或る特殊な名称を有している。この名称がペルソナに他ならない。

このテキストにおいて、二つのことが注目に値する。第一に注目すべきなのは、ペルソナは、直接的には、倫理的な主体としてでもなく、何よりも、個体の最高段階として捉えられている、ということである。トマスがペルソナという言葉を人間について使用する時には、その理性的性格と個体的性格に基づいた存在論的な完全性の強調に力点がある。そした第二に注目すべきなのは、ペルソナが他の存在者との「関係」に基づいた存在論的な完全性の強調に力点がある。この二つの注目点を考え合わせると、トマスにおいてペルソナということが語られる原初的な局面においては、ペルソナは、他のペルソナや他の存在者との「関係」において捉えられているのではなく、自立的な「実体」として捉えられているように思われてくる。トマスは、相互的な関係性の中からペルソナがペルソナとして現出してくると考えているのではなく、自存的・自立的な「実体」としてペルソナを定義しているように思われるのである。もしも、そうだとするならば、ペルソナは自己自身へと閉ざされたものとなってしまうのではないだろうか。

このような問いを解きほぐしていくうえで第一に注目すべきなのは、「最も完全」と言われるペルソナとしての人間に言及するときに、トマスが「完全性」の意味を密接につながった二つの意味へと分節化していることである。トマスによると、「最も完全なもの」と言われる人間のペルソナには、密接につながりつつ区分された二つの完全性が帰属する。それは、「存在の十全性」と「目的との関係」である。前者が後者を基礎づけている。だから、人間のペルソナが「全体的で完結したもの」と言われるにしても、その意味は、人間が孤立した仕方で最終的な完全性を生まれながらに有していることなのではなく、自らの外にある目的との関係において第二の完全性を目指してくという目的志向的な在り方を各人がしているということなのである。ペルソナである人間は、所与としての完全性に基づいて、目的志向的な在り方を有し、働きを通して、もう一つの完全性─課題としての完全性─へと向かうような力動性を有しているのである。こうして人間存在には、二つの完全性が、密接に結び付いた仕方で存在している。すなわち、人間が人間である限りにおいて常にすでに与えられている基本的な条件(第一の完全性)と、人間にとって本来的であるにもかかわらず未だ十全な形では実現されていない目指されるべき在り方(第二の完全性)とである。一性と全体性という存在論的な完全性を常にすでに有しているペルソナは、はたらきによる関係性の形成を通して、さらに高次の完全性・全体性へと進んでいくことによって、自らの自立性を自他とのより深い関係性を含み込んだより高次の仕方で完成させていくことができるのである。

本書においては、トマスのテキストに見出されるペルソナとしての人間の力動的な特質を、ペルソナの自立性と関係性という問題意識に即して再構成しつつ、「人格の存在論」を構築していく。「人格の存在論」というタイトルによって意図しているのは、倫理学と存在論の相互関連という観点から、他者や世界との関係性のただなかで成立する人格の自立的な構造を存在論的に分析することである。存在論的考察が自ずと倫理学的洞察へと展開し、逆に、倫理学的考察がその基礎づけを求める中で存在論的洞察を深めていくという、倫理学と存在論の自由な相互連関の中で、トマス人間論の全貌を新たな仕方で浮き彫りにしつつ、「人格の存在論」を構築していきたい。

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