無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(5) | トップページ | 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(7) »

2013年12月 4日 (水)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(6)

.「世界のうちにいる」とはどのようなことか

「切っ先が自分の世界に向かっている」というかたちで体験される世界が、私たちが生きている世界でした。この世界は、客観的に捉えられた世界とは別の姿をしています。ハイデガーは、存在論的な世界は、「気を遣う」という私たちの態度によって構成されていると言います。「気を遣う」という態度が、「切っ先が自分の世界に向かっている」ように世界を引き寄せるのです。生きるとは「気を遣う」ということだ、とハイデガーは言います。私たちが生きていくことは、いわば、様々な気になることと関わっていくことなのです。これが生きることの本質です。ですから、私たちが関わる世界は、中立的な無色透明の世界ではありません。「気を遣う」という私たちの側の態度に規定された中立の世界であり、さまざまな「意味」を持ち、様々な意味の担い手という姿をした世界なのです。価値や価値判断とは関係のない中立的な事実の世界がまずあって、そりに様々な意味が与えられてくるというふうではない。私たちは、最初から、様々な意味の中で生きています。

ハイデガーは、この「気を遣う」という私たちの態度をもとに、私たちが身を置いている世界がどのような形で現象してくるかを分析しています。「気を遣う」ということは、単なる心理的状態ではありません。気を遣うことで、人は、独特な仕方で、あることを自分の方へと引き寄せます。気遣いとは、ある存在が、その存在なりの姿をとるようにしてあげる、あるいは、その存在なりの姿を保つようにしてあげることを意味します。自分のためではなく、その存在の本来のために心を遣うことです。「世界のうちにいる」とは、「気遣い」によって「自分にとって」引き寄せられた世界のうちにいることなのです。

 

ハイデガーは、「うちに」というドイツ語から連想される一連の言葉が持つ力に依拠して、私たちの「世界のうちにいること」のありようを捉えています。そのことで、「うちに」が部屋に椅子が置いてあるような空間配置ではないことを明らかにします。空間的な<一方が他方の中に>という関係ではないのです。ドイツ語の「うちに」は、何よりも「住まうこと」「滞在すること」と関係がある、その地にとどまり続け、そこを自らの居場所と出来ることが想定されているというわけです。ある場所を開拓し、そこに馴染み、慣れた自分の居場所としてそこにとどまり続けることを意味します。このような「うちにいること」は、私たちにとっては自明のことに思われます。けれども「うちにいること」を存在論的に分析してみると、このごく当たり前のことが、実際は、非常に不安定な構造を持っていることがハッキリします。

例えば、部屋にテーブルがあります。そしてその手へブルの前のソファに、Rさんが座っています。まず、テーブルの場所とは、それが使われる場所のことです。この場所を離れてしまえば、テーブルがテーブルでなくなってしまう可能性があります。戸外では椅子になってしまうかもしれません。テーブルの空間性は、物の配置として捉えなければなりません。部屋の中で、ソファの前で、照明の横で…というように、特定の使用条件や生活の状況によって決まる位置です。それに対してRさんの居場所は、ある場所に「自分」がいるという自己発見的な構造をしています。つまり、「方向付け」を介して、自分の居場所が確認されるのです。「方向づけ」には、少なくともふたつの場所が必要です。自分のいる場所「こちら」と、うでない場所「あちら」です。自分の居場所は、とかく「方向づけ」の起点として、つまり「こちら」を出発点として、周りの「あちら」へ向かうと考えられることが多いのですが、実はそうでないのです。むしろ、自分の居場所とは、周りの「あちら」から自分の「こちら」へと帰ってくる、「あちら」を起点として「こちら」が決まるというかたちで確認されてきます。ですから、自分の居場所があるということは、「自分がここにいる」ということではないのです。そうではなくて、周りに人がいて、物があって、風景が見えということです。そうした様々な「あちら」が、私たちの「こちら」に向かってくる、自分の「こちら」を決めてくれることです。ハイデガーは、こうした空間性を「あたり一帯」という言葉で表現しますが、私たちは、この「あたり一帯」を持つことで、「うちにいる」ことができるのです。自分が「気遣い」によって引き寄せた世界に、とどまり続けることができるのです。これは、慣れた居場所があって、周囲との相互関係の中で生きていく私たちの姿です。

 

ハイデガーは、私たちのあり方を示すのに「下方が開いた弦」を描いて見せました。閉じた円環ではありません。「下方が開いた弦」です。「下方が開いた」というあり方は、たしかに私たちの存在の不安定さを示しています。自分の根っこが開いている。自分の根源が分からないのです。しかし、ハイデガーは、この開放性に対して上へと向かう矢を書き加えています。根源の方から向かってくる矢です。根源が放つ矢の運動の視点で見れば、私たちの存在は受容体というあり方を示します。あちらからやって来るものが、私たちを貫いている。私たちは、あちらからやって来るものの受け取り手にすぎないのです。ではいったい、何がやって来るのでしょうか。

実際、私たちは、あちらからやって来て自分の存在に浸透してくるものがあることを知っています。ハイデガーのいう「根本的な気分」です。何故なのか、何なのか、ハッキリさせることができない。けれども、はっきり感じ取られるという気分です。たとえば、不安がそうです。不安とは、「居られないくらい無気味」という気分であり、「世界のうちにいること」自体を貫く気分です。しかし、不安を抱く私たちは、自分がいったい何によって貫かれているか、実は分らない。ただ、ここに受容体としての自分がいるということだけが強く感じ取れられるだけです。この感覚は、「自分」という存在が、自分に見える層だけで形成されてはいないのを暗示します。まだ、未回収の部分があって、それが絶えずやって来る、けれどもそれは見えない。

« 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(5) | トップページ | 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(7) »

ハイデッガー関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(6):

« 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(5) | トップページ | 北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(7) »