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2013年12月27日 (金)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(11)

第4章 神認識における人格の自立性と関係性:神の把握不可能性の含意するもの

知性認識における関係性の形成においては、世界内的な諸事物や自己自身の認識のみではなく、世界全体の根源である神の認識が重要な課題となる。だが、トマスは、神は、完全に認識し尽くされるという意味では人間によって把握されることはないとも述べている。しかしながら、このような考え方は、人間の知性のはたらきを最終的に無化してしまうことになってしまうのではないだろうか。

トマスは、人間が神を「把握する」ことができないということを、二つの異なった文脈で語り分けている。第一に、「この世」における人間の神認識の可能性に対してハッキリとした限界を確定する際に、神の把握不可能性ということを語る。すなわち、人間はこの世においては、神の本質を見ることは決してできないのであり、このような事態こそ、人間が神を「把握すること」ができないと言われることの第一の意味にほかならない。この場合の「把握」は「追求」に対立するものとして、つかむこと、すなわち、すでに現前した形で持たれている何らかのもののつかみのことを意味する。そして、天使やキリストなどの「至福者」は、この意味において「把握者」と言われるのであり、それに対して。現世を歩む「旅する者」としての人間は、常に追求者として歩まなければならない。それゆえ、この意味の「把握」は、「希望」の対概念として語られるのであり、「把握」が可能になっている場合には、「希望」という不完全な在り方は存在しない。他方、トマスは、天国における至福直観においては、神の本質が見られるという意味で神が人間によって把握されることをはっきりと肯定している。だが、それは、神が人間によって完全に認識し尽くされるということを意味するのではない。そしてこのような意味において神は至福者によっても把握されることができない。これが神の把握不可能性の第二の意味にほかならない。この場合の「把握」は、ものが認識可能である、そのかぎりを尽くして認識されるとの意味である。そして、このような意味においては、神を完全に把握するのは神自身以外にはないとされる。

 

第1節 カール・ラーナーの解釈への批判

カール・ラーナーの「トマス・アクィナスにおける神の把握不可能性について」という論文の中で、次のような主張が為されている。

「至福直観における神の把握不可能性ということは、被造的な知識の有限性の徴しとして、その到達する限界のようなものとしてのみ理解されてはならない。むしろそれはまさに被造的知識が到達したものなのである。」そして、ラーナーは、把握不可能性の二つの意味を場合分けすることなしに、「認識し尽くす」という意味のみでこの言葉を解釈し、至福直観において、神の把握不可能性が把握不可能性として露わになるとともに、希望も希望としてのその真の姿を現すという観点から、キリスト教の本質を次のように規定する。「キリスト教がどれほど単純なものとなるであろうか。すなわち、それは、把握不可能な神へと、委ねる愛において自らを明け渡そうとする心構えであり、また、このことはせずに、理解可能なことにしがみついて罪を犯しているのではないか、という怖れである」。

このようなラーナーのキリスト教に対する理解は誤りとは言えないが、トマス理解は単純化の誹りは免れ得ない。トマスは、「把握できない」神へと開かれた人間精神の力動性を閉ざす可能性として、ラーナーの指摘している「理解可能なものにしがみつく」という可能性すなわち有限的な被造物を絶対化するという可能性のみではなく、把握することのできない神の把握できなさに絶望するという可能性も指摘しているからである。そして、あらゆる意味での探求の失敗や迂路に晒されざるを得ない神探求において、我々に必要な「希望」とは、神の「把握不可能性」に対する希望ではあり得ず、神の何らかの意味での把握可能性への希望であらざるをえないのであり、トマスは、「把握」の意味の場合分けを通して、神の「把握者」である「至福者」の姿を明らかにし、そのような希望を確実なものとすることに成功している。トマスは把握可能性のただ中でも人間は神と何らかの仕方で結びつくことができるのだという「つかむ」という意味での方向を強調し、理解し尽くすことができないという意味での把握不可能性は、あくまでもその副産物として位置付けていたに過ぎないのではないかと思われる。

 

第2節 自然的理性による神認識の限界

トマスは、人間が神の本質をこの世で観ることができないこと─すなわち神を把握することができないこと─の理由を次のように説明する。すなわち、認識されるものは認識者のうちに、認識者の在り方に従って存在するのであるが、神は認識者である被造物の在り方を無限に超え出ていて対比を絶している。人間の自然本性的な認識は、感覚にその端緒を取るのであり、可感的被造物によって導かれるところまでしか及び得ないゆえに、神の全能力を認識するところまで導かれることは出来ず、それゆえ本質を観ることもできない。

そもそも、認識するということは、認識されるものが何らかの仕方で認識するもののうちに存在することによって実現する。それゆえ、認識するという行為の卓越性は、認識者が、自己に自然本性的に備わっている形相以外の他の事物の形相をも所有し得るというところにある。それゆえ、認識するという行為の卓越性は、認識者が、自己に自然本性的に備わっている形相以外の他の事物の形相をも所有しうるというところにある。しかも、認識されたものは、他の所有物のような失われ得る仕方で所有されるのではなく、認識者の存在に刻まれるような形で所有される。すなわち、感覚を通して人間知性は他の事物の類似性であるところの形象によっていわば刻みつけられる。知性は事物の類似性を自らのうちに引き入れ、自己を現実化するこれは、他者を自己に同化することによって、そのような「存在の充実」を実現する同化の力をもちうる。

だが、神は、どのような被造の形象によっても表現し尽くされることができない。被造物は原因である神を何らかの形で表現しているものの、神の本質を表現するには不完全であるにとどまる。それゆえ、類似性を媒介にして神の本質が観られることは不可能である。だから、人間知性は、神を自らに同化するようなことは決してできない。

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