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2014年1月

2014年1月30日 (木)

知識と行動の間

私の職場は東京の郊外で、通勤には東京都内でもJRのローカル線に位置づけられている電車に乗っています。その電車は、駅に停車するとドアのボタンを押したものだけが開閉するという半自動システムになっています。今頃の寒い時期は、駅について一斉にドアが開いて外の寒い空気が入ってくるということが少ないので、たいへんありがたい仕組みです。私が通勤で乗っている路線は単線になっているので、駅で上下線のすれ違いを待つために停車時間が長くなるとドアを閉めて、社内が冷えないようにもできるのです。通勤時間は、いつもこの電車に乗っている人が主な乗客なので、慣れた人は降りる人が開けたドアを閉めるのです。これは、一種の暗黙のようなもので、ドアの近くに開閉ボタンが設置してあり、大抵はドア脇に必ず誰か立っているので、その人が気を効かせてドアを閉めています。

ところが、時々、それをしない人がいます。そういう時は、外の冷気が入り込んで社内が一気に寒くなります。その時に、ドアを閉めれば、冷気は入ってこなくなるので、これ以上寒くなることはないのですが、そのドアを閉めるボタンの一番近くにいる人は、それをしようとしません。しかも、その人はドア脇に立っているので、冷気を真っ先に受ける場所にいるのです。その人は寒さを感じないのかというと、コートの襟をたてて寒そうにしているのです。

このとき、この人はなぜドアを閉めるという行動に移ろうとしないのか、いくつか考えられます。

1.この電車が半自動のドアであるということを知らない。

これは、知らなければ仕方のないことですが、この時間に電車に乗っている人はいつも利用している人で、知らないということは、ほとんど考えられません。また、1台の車両にはドアが3つか4つあって、全部開けっ放しということはありません。だから、知らないということはあり得ないのです。

※知っているはずだ、と知っているは必ずしも結びつかないのは、小学校や中学校の教科書で教えられたことを全て覚えているか、問われれば、そうではないというのと、同じです。ただし、この人がもし次の駅で、1人だけ降車するということになれば、自分でドアを開けなければ降りることはできないので、自分でボタンを押してドアを開けるでしょうから、やはり、知っているのです。

2.ドアが半自動であることは知っているけれど、ドアを閉めない。

この理由については、さらに細分化できます。

(1)悪意でみんなに寒い思いをさせようとしている。

これは、どうしようもありません。

(2)知っているけれど、無関心

寒いけれど、ゲームに夢中でとか、ボーっとしていてその状態に気付いていない人、危ない感じがするけれど、こういう人最近多いですよね。

(3)知っているけれど、面倒くさい

知っているけれど、誰かやってくれると思って、自分ではやろうとしない人っていますよね。でも、自分が一番ボタンの近くにいて、誰よりも自分でやるのが一番手っ取り早いのですよね。自分だって寒さに震えているのですから。

(4)知っているけれど、そのことと行動が結びつかない

この場合の知識は中途半端なままです。たまにいるんですよね。理屈だけこねるくせに、自分のことを棚上げにして、いざという時になると頼りにならないっていう人。この場合の知識は、「ボタンを押すとドアが開閉する」という断片だけなのです。「社内が寒い」→「外気が開けたままのドアを通じて入ってくる」→「ドアを閉めれば冷気の流入は止まる」→「冷気の流入を止めるためにドアを閉めるのはボタンを押せばいい」ということに「ボタンを押すとドアが開閉する」が結びつかないのです。このような場合、本当は知っているとは言えないのです。しかし、私も他人事ではなく、こういう中途半端に知っていることはよくあったりします。そして、そのことに当人は気が付いていなくて、知っていると思っているのです。だから、この電車のケースでも、ドアを閉めない人は堂々としているのです。

そして、かなり楽天的な意見ですが、上の(2)と(3)のケースも、実はこのような中途半端な知識ではなくて、十分に知ってるならば、起きないのではないかとおもいます。

多分、こういう人は何かの拍子でボタンを押してドアを閉めるということやってしまう、それに誰かが「寒くなくなって、ありがとう」とでも声をかけてあげれば、次からはドアを閉めてくれることになると思うのですが。

 

何か、針小棒大で、些細なことをかなり大袈裟に書いてしまいました。最近、知ることと行動することの隔たりを考えさせられることが多いので、かなり一面的な議論ですが、あえて書いてみました。

ちょっと説教臭かったですね。

 

また、もう一つ、ここでドアを閉めてあげると、自分以外の社内の人々も喜んでくれる、ということにも気が付いていないのではないかと思います。一種の気働きですが、

2014年1月28日 (火)

ジャズを聴く(1)~アート・ペッパー「モダン・アート」

少し前から、ポツリポツリとジャズを聴き始めています。主に、ロックやクラシック音楽という白人音楽を好んで聴いてきたので、毛色の異なる音楽と言うことになります。多少の勉強がてら、聴いた感想を、これから断続的に書き始めてみたいと思います。

今日は、第一回として、ウエスト・コースト・ジャズのアルト・サックス奏者、アート・ペッパーのアルバム「モダン・アート」の感想です。まずは、アート・ペッパーについての紹介

いわゆるウェストコースト派と呼ばれる。ニューヨークのいかにも薄暗いジャズクラブから聴こえてくるようなヤニっぽいサウンドではなく、あたかもカリフォルニアの青空のような澄み切ったサウンド。ペッパーに代表されるような白人のジャズプレイヤーというものから連想されるイメージは、比較の意味で言う黒人のプレイヤーのイメージとは異質な特徴を持っている。その違いを極端に単純化すれば、「さらっとした感じ/こってりした感じ」「軽やかさ/粘っこさ」「技巧的/個性的」「アンサンブル重視/ソロ重視」。その特徴を一般的には、さらっとした軽やかさが身上の、傾向としてテクニカルでアンサンブルを重視した音楽と言え、それはペッパーのプレイを聴いたイメージに当てはまる。

これだけでは、何か耳当たりが滑らかなだけのBGM的な内容空疎と誤解されてしまいがちだけれど、表面的な軽さの底には、他のプレイヤーには真似のできない独創的な即興演奏を聴くことができる。親しみ易いメロディーのテーマからアドリブに入るや原曲を破壊してしまうほどの凄味のあるプレイが底には隠されている。チャーリー・パーカーとは違った方法論によるもので、ペッパーの特徴は、それだけ凄いプレイを、そうであるかのようには見せないで一見軽やかに演ってしまうことと、メジャー・コードを基本において深刻にならないというところにある。実際に、口当たりの良いメロディをぼんやり聴いているうちに、思いもかけないところに連れて行かれてしまう。まるでハーメルンの笛吹きみたいな恐ろしさを内に秘めていると、私は思う。そして、ペッパーはその豊かな即興フレーズの中のところどころに、スパイスのように、マイナー調のメロディを挿入して、思い入れたっぷりに情緒纏綿と聴かせる、陰影の美を強く感じさせるところがある。いわば、引きの美、なのだ。だから、一度聴いてしまって満腹して、もう沢山というのではなく、何度でも繰り返し聴いても飽きることがない。

活動期間は長いが、1950年代に活躍した後、しばらく麻薬に溺れてブランクがあり、1970年代にカムバックした後は陰影の美は影をひそめパワフルなプレイに変身してしまったと言われる。

 

では、アルバム「モダン・アート」について、曲目と奏者の一覧と、感想を

Jazartpepper_modernart Blues In

Bewitched

When You're Smiling

Cool Bunny

Diannes' Dilemma

Stompin' At The Savoy

What Is This Thing Called Love

Blues Out

 

Art Pepper (as)

Russ Freeman (p)

Ben Tucker (b)

Chuck Flores (ds)

 

アルバムの最初と最後にベースのベンタッカーと二人だけで演奏されるスローブルースを聴いていただきたい。「Blues In」「Blues Out」という曲名が洒落ているけれど、ほとんどテーマらしいテーマもなく、最初から最後まで、徹頭徹尾アドリブで通している。それぞれ、6分と5分をアドリブだけで勝負している。しかも、ベースと二人だけというシンプルすぎる構成で、ほとんどサックスのソロに近い。そこで、ペッパーの吹くサックスは、腹八分目という感じで、目一杯吹くことはなく、軽いタッチの音で、ブロウをかますようなケレンも使わない。メロディを纏綿と唄わせることもない。ないないづくしのように読まれてしまうけれど、それでは “侘び寂び”ではないかと言われそうだが、たしかにそうかもしれない。強いて言えば。尺八の本曲に通じるかもしれない。一見地味だけれど緊張感の漲った奥深い味わいを持っている。その虚飾を削ぎ落としたようなシンプルの極みのような演奏で、ペッパーは彼の真骨頂である繊細で陰影に富んだニュアンスを駆使する。しかも、或る種の“あそび”の要素を残した軽みを帯びたものになっている。決して声高にならず、むしろ抑制された弱音に近い彼のプレイは、様々な音色やタッチでまるで人の肉声を聴いているような錯覚を覚えてしまう。このプレイを聴いてしまうと、他のプレイヤーのサックスはモノトーンに聞こえてしまうほどだ。このほかの曲では、ピアノとドラムスが加わるが全体のトーンは一貫している。

たぶん、ライブの熱い中で聴くというより、静かな自分の部屋で録音を繰り返し聴くということの方が向いている演奏であるだろう。クラシック音楽で言えば、ベートーヴェンの激しい音楽というよりも、ショパンの繊細な音楽に沈潜するのに近い。最初のBlues Inの6分間の息詰まるような即興ソロに続く、Bewitchedのフリーマンの明るいピアノの入りはまるで視界かパッと開けるような軽いカタルシスで続くペッパーのサックスも羽根が生えているかのような軽やかさだ。最初にテーマをワンコーラスを吹くペッパーは、後からあとから、まるで溢れんばかりに閃いたようにアドリブ・フレーズが入ってくる。その閃きが過剰なほどで、メロディを崩しにかかる。それを懸命に抑えているかのようなペッパーだ。どう聴いても「こんな風に崩そう」などという意識的な崩し方ではない。大げさではなく「心を無にして」ヒラメキのままに心のおもむくままに吹いてる・・・しかし、もう一人の醒めたペッパーが「元メロディとのつなぎ」をもコントロールしている・・・そんな感じなのだ。その抑制の息詰まる緊張感。これに続くWhen You're Smilingで少しテンポが上がる。ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の「一晩中踊り明かそう」のメロディによく似た感じのテーマから軽快にペッパーのサックスが走る。次のCool Bunnyでさらにテンポがあがりペッパーが疾り始める。とはいっても、決して吹きすぎない。ピアノで言えば、鍵盤を押し込まないで、浅く押す感じ。人によっては重量感を感じないというのか、あまり芯を感じないというのか、それでも、それなりの激しさはある。それで十分なのである。というのも、弱音気味で繊細なイントネーションの世界に耳をそばだてているところに、少しでも強い音が来れば、その刺激は相対的に強いのだ。それだけ劇的に聴き取られる。それは、いつも静かな人が、突然大きな声で怒り出した時の、普通でない感じ、つまりは対比なのだ。ここでのペッパーの演奏は、そういう全体を見渡したうえで即興的にアドリブを紡いでいると言える。

2014年1月27日 (月)

江戸の狩野派─優美への革新(6)~Ⅴ章 京狩野VS江戸狩野─美の対比、どっちが好み?

出光美術館は古いビルのフロアを使っているため、基本的にはオフィスのスペースを美術館に転用しているような感じで、レイアウトの工夫はいろいろ考えられているのでしょうが、屏風のような展示に広いスペースを要するものには苦労しているのではないかと思います。展示スペースパそれほど広くはないので、余裕を持った展示は難しいのでしょう。どうしても、近くで近視眼的に見てしまいがちなところで、はたして京都と江戸の狩野派の対照まで展示する必要はあったのか。狩野探幽とその周辺に的をしぼって、狩野探幽や狩野常信たちの作品をじっくり見せてくれてもよかったのではないか。また、スペースの空いた所に陶器が展示されていましたが、ハッキリ言って、絵を観るには邪魔にしか感じられず、うっとおしく思いました。これは、私の独断と偏見による個人的な感想です。どうしても、個人のコレクションを展示するような美術館、ほかにも、山種美術館などもそうですが、コレクションを自慢したいという気持ちが露骨に出ていのが感じられて、金を払って見に来る身としては辟易とさせられることが少なからずあります。これは、コレクションなどというものを望むべくもない、庶民の身である私の僻みではあるのでしょうが。

Edokyoto さて、多少、蛇足の感はあるにしても、折角見せてくれるのですから、少しく覘いてみます。説明によると、狩野派は江戸時代に入ると、徳川幕府にくっ付いて行った江戸狩野派と京都に残った京都狩野派に分れたと言います。ここでは、その分かれた狩野派の傾向の違いを対照的に展示している、ということです。まず、京都狩野派の狩野永納の「遊鶴図屏風」の一部です。“松の樹幹にみえる強い輪郭線、芙蓉などの花々の写実的な描写、これらが濃い色彩と相俟って濃密な画趣を生んでいる。また、松の針葉が文様のように同じ調子で整然と描かれるなど、他にも緻密な描写が随所にみられ、装飾的な描写が目を引く。”と解説されています。慥かに、そう言えると思います。

Edoedo そして、隣には江戸狩野派の狩野安信の「松竹に群鶴図屏風」が展示されていました。画像は、その一部です。“大樹や岩石、瀑布や水流などが添景となって画面を構成するこしなく、端に土坡を控えめに配しながら、花木類についても若松や若竹、笹などを描いて楚々とした風情を志向し、モチーフを厳選して余白を大きく取り入れた、すっきりとした画面構成を見せている。”と解説されていました。これも慥に言えてます。

ふたつの作品の違いはそうなのですが、祖先が同じで系統分れしたから、違いをことさらに目立たせているのでしょうが、主役である鶴の描き方に違いはあるかというとそれぞれの作品の中の鶴を相互に取り換えても違和感がないのではないか、と思えます。両者の違いは端的に言えば、画面のレイアウトの違いということができると思います。京都狩野派が装飾的というのも、装飾的な花などを多数配置しているがゆえで、描き方そのものが違うわけではありません。それはそれでいいのですが、そういう画面のレイアウトが違うことが、両者の空間把握の仕方に違いが生まれるのかというと、それはないように感じられます。そして、構成が変わってくれば、その部分である鶴の描き方に違いがフィードバックされて描き方、さらに言えば、鶴の捉え方、見方に違いがでてくるはずですが。しかし、鶴自体に違いが見えず、交換可能なのです。それは、二つの作品の線の扱いに表われています。鶴とか樹とか、それぞれのパーツの描写で引かれている線が連係していないのです。それぞれが別個な感じで、有機的なつながりがないのです。多分、これだけの大作ともなれば、工房で制作されて、個々のパーツは分業で制作されたのではないかと思います。そのとき、狩野永納にしろ狩野安信にしろ、クリエイトというよりはアレンジとかプロデュースの姿勢に近いものになっていたのではないか、と思えて仕方がないのです。

Esosoutatu ちなみに、活躍した時代が重なると思いますが俵屋宗達の描く鶴と比べてみると、鶴自体が大きく異なります。

多分、この京都と江戸の比較展示は、両者ょ対照的に見せて、それぞれの特徴を際立たせるものなのでしょうが、私には、狩野派が後に粉本主義として旧態依然のお手本の丸写しを踏襲していると批判されたものの萌芽を見せられ。それが京都にも江戸にも共通しているところを見せてもらえた、と思いました。

2014年1月26日 (日)

江戸の狩野派─優美への革新(5)~Ⅳ章 写生画と探幽縮図─写しとる喜び、とどまらぬ興味

Edohakkan 「白鷴図」を見ると、その迫真性に驚かされます。これを見ただけで粉本主義という、お手本をなぞるという批判は、狩野探幽に関する限り的外れであることは、火を見るより明らかです。むしろ、これほどの写生を、近代日本画でも、あるいは鳥獣画で人気の若冲でも、やっていたか、問いかけたくなります。画像でみると迫力が半減しますが、実物を見た時の迫力と精緻さには圧倒されてしまいました。つがいであろう2羽のポーズも図式的というよりは、動きを一瞬で切り取ったようなダイナミクスを孕んだ図像です。これに比べると若冲の花鳥画が様式的に見えてしまうほどです。おそらく、実物の白鷴を見て、その場でスケッチしたのではないか、というほどリアルで、狩野探幽のデッサン力はかなりのものだったと思わせるものです。そして、その精緻さ、羽毛の一本一本が細かく描き分けられていて、しかし、それをやりすぎると重くなってしまうところを、透明感をもたせて、鳥の身体の軽さを失わせていない、構成力は凄い。細密に描き込まれているのに、羽根は透き通るように軽いのです。この辺りの技法のことはよく分りませんが、解説での説明を引用します。“雄(白い方)の体毛には胡粉を用いてつね透き通るような白い羽毛が精細に描かれている。特に、首から肩にかけての白毛は、レースのように軽く、柔らかそうな質感を見事に表わしている。近接して見ると、首部分の黒い体毛には、群青が塗り重ねられており、さらに腹部の黒い体毛には、緑青が塗り重ねられている。光の加減によっては微妙に青っぽく、或いは緑っぽく艶光する黒色を捉えようとしているのである。た、雌にも茶と黒線による緻密な体毛表現が同様に見られる”。

Edoturu_3 「白鷴図」のような写生の成果は、模写である「飛鶴図」(左図)にも反映されています。中国の元から明時代にかけて活躍した文正の「鳴鶴図」の羽根の精緻な描き方などは、相通じるところがあると思います。もしかしたら、制作年代は、こちらの「飛鶴図」の方が古いので、模写した文正の作品の技法を習得して、「白鷴図」に用いたのかもしれません。こちらの方は、構図としては多少図式的に見えるのは、模写ということからかもしれません。しかし、これはこれで、十分作品になっていると思います。

面白いのは、後の狩野安信がこの構図をそのまま引用して「松竹に群鶴図屏風」(下図)の中で、様々な鶴のポーズの中の一つとして使っているということです。このように、おそらく、後世の狩野派の絵師たちは引用を繰り返していったのかもしません。その際に、当初の狩野探幽のような精緻で繊細な筆遣いまで真似することは出来ず、徐々に図案のみが独り歩きして、生き生きとしたものを失っていったのが、後に粉本主義と批判されるようになったのかもしれません。これは、何も絵だけに当てはまるものではなく、手順をマニュアル化して明確化する試みをするとマニュアルが独り歩きして、本来は豊富な手順の手がかりであるマニュアルが後の引き継がれた世代ではマニュアルでしか手順を踏襲できなくなってしまうことは、どこにでも見られることです。往々にして、マニュアル通りに手順を踏んだ作業は、やっていて面白くなく、その結果として出来たものには生気がなくなっているものです。

面白いことに、この鶴は後世の伊藤若冲も模写をしていたようです。

Edoturu2_2

2014年1月25日 (土)

江戸の狩野派─優美への革新(4)~Ⅲ章 やまと絵への熱意─広がる探幽の画世界

Esogenji これまで見てきたのは水墨画が主で、線によってかたちづくられる、線が中心の絵でした。ここでは、水墨画に対して鮮やかな彩色が加わり、そちらに中心が置かれるやまと絵が展示されています。ここでも、彩色によって、線が存在を大きく主張は出来なくなっているにもかかわらず、線が生きているということが印象強かったでした。

Esogenji2 「源氏物語 賢木図屏風」(左上図)を画像で見ると分かりませんが、現物では金箔や鮮やかな彩色よりも線の繊細な使い分けに目が行ってしまいました。描かれている人物や建物といったパーツはやまと絵のパターンそのもの(と言っても、やまと絵を詳しく知らないので、歴史の教科書で見たものと同じような、という程度ですが)を忠実に従っているという感じです。ただ、余白を多くとっているという画面全体のレイアウトが見た目の個性を出しているのかもしれません。参考として、江戸初期の住吉如慶(右図)による同じ題材のやまと絵をあげておきますが、余白の取り方が全く違います。

ただ、私には折角の線が隠れてしまうような気がして、やまと絵は、あまり面白く感じませんでした。

Edo36

2014年1月24日 (金)

江戸の狩野派─優美への革新(3)~Ⅱ章 継承者たち─尚信という個性

狩野探幽の弟である狩野尚信、狩野安信の作品の展示です。

Edonao 狩野尚信の『叭々鳥・猿猴図屏風』(左図)です。前に見た狩野探幽の『叭々鳥・小禽図屏風』(左下図)と比べながら見ると、二人に共通しているところと、二人の違いがよく分ると思います。とくに共通している画題である「叭々鳥」を描いた部分で見比べてみましょう。一見した印象は狩野探幽の方が幻想的ともいえるような優美さを湛えているのに対して、狩野尚信の方は、よりシャープで、峻厳さとまでは行かないまでも、研ぎ澄まされたような厳しさを持っているように感じられます。

例えば、樹の描線の違いを見てみましょう。狩野探幽は淡く薄い墨を用いて、かすれ等も多用して、まるで背景である地の紙に融け込んでしまうような、敢えて言えば空白の地と一体化するような描き方をしています。まるで水彩画のような淡い画面です。この結果、描かれた樹の形は朦朧とした曖昧なものになってしまいます。しかし、それを屏風全体の中でみると余白と調和していて、その曖昧さが観る者の想像力を掻き立てるというのか、作品画面に入るように誘い込むようなものになっています。これに対して、狩野尚信の方は、狩野探幽に比べて濃い墨で地の白と強いコントラストを生み出しています。その結果として樹の枝は明確ですっきりしています。しかも、樹を描く筆の勢いまでもが強いほど観る者に迫ってくるような迫力です。筆遣いの大胆さは狩野探幽以上ですし、どこか一筆で樹を描き切ってしまっている迫力を感じます。おそらく、描写の造形力では狩野探幽を凌いでいたのではないかと思います。それゆえに、この描写を屏風全体でやられてしまっては、観る方は疲れてしまいます。そこで、描かれるものを絞り込み、少ないものに描写を集中させる。そのために、描かれない余白が必要になったという感じがします。そして、余白があることで、観る者は描かれたものに集中することができる。余白だけをとりだして、その意味合いを比べてみると、狩野探幽の場合は、画面の中で描かれたものと一体化して意味を持たされていたのに対して、狩野尚信の場合は、無意味な空間として余白をとるいとで一点集中の卓越した造形描写を対比的に引き立たせ、観る者の視線をそこに集める働きをした、というようにことでしょうか。

Edokokin 狩野尚信という画家は、狩野探幽との比較だけで見られるという程度の人ではなく、むしろ狩野探幽と並び立つほどの一個の独立した個性的な画家であると思います。それは、最初のところに線がうるさくないということを述べましたが、狩野尚信の作品を観ていると、狩野探幽以上に線は大胆で力強く、筆で描かれた線が作品画面をリードしているようなのに、その線をうるさく感じないのです。それは、横山大観などの近代日本画に比べて、線を有機的に活かしていることの証左であると思います。何度も繰り返すようですが、樹の枝を描く線は、墨の滲みを枝の影のように見せて、一本の線を一気に引いて表現したり、細い枝は筆をはじくような勢いで、そして鳥の姿は多大なデフォルメを施したような個性的な表現です。

ただ、水墨画を見た限りでは、そういうことが言えます。しかし、狩野派は水墨画だけではないのです。華麗な色彩を施した大和絵も制作しているはずで、そのような場合、狩野尚信のような個性的な線と強烈な白黒のコントラストでかたちづくられた作品世界は、成り立つのか。その場合、画面全体の構成を最優先する狩野探幽の方が融通性は高いかもしれません。

狩野尚信と狩野探幽は兄弟ですから、同時代に並んで活躍したのでしょう。これほどまでに個性的な二人の画家を抱え、狩野派という集団が、よくも分裂しないで結束できたと。感心してしまいます。この二人の画家をお手本にするにしても、異質な個性を一緒くたにすることは困難以上に不可能でしょう。さらに、狩野尚信の筆遣いを見ていると、とうていお手本にして真似ることができるとは思えない。この二人の画家を見る限りでは、狩野派を粉本主義として、前例踏襲の守旧的な権威という風評は信じがたいところがあります。

話は脱線します。狩野探幽が江戸幕府の御用絵師になったというのは、この展示された作品を観ていて、剣術における柳生新陰流を将軍指南としたことと相通じるように思えました。これは、私の妄想です。戦国時代での合戦では短時間に多くの相手と斬り合いをしなければならないため、それに応える意劇必殺の一刀流が重宝されたと思います。先手必勝で一撃で相手を倒せば、すぐに次の相手に対峙することができます。一人の相手で長時間対峙していれば、相手に加勢が加わったり、周囲を敵に囲まれてしまう危険があります。それに応えるのは剣術のニーズがあったと思います。これに対しての、柳生新陰流は、その名前に「陰流」があるように陽に対する陰です。時代劇の殺陣などで真剣白刃取りを柳生流の極意などと喧伝されることがありますが、「陽」というのは戦国時代のようなこちらから一撃必殺で攻撃するという側面で、「陰」というのは、その攻撃を受ける面と単純化します。つまり、新陰流とは受け身であることなのです。これは戦国の合戦では「陽」にニーズがありました。しかし、戦国時代が終わり、幕府によって統一政権が生まれたことにより合戦はなくなったと言えます。そのとき軍隊の武力は戦争から治安に向けられることになる、ということは短時間で敵に立ち向かうのではなくて、無法者を確実に制圧することに主眼が移ります。その時に一撃必殺で切り込むと成功すればいいのですが、いったん躱されれば態勢が崩れて危機的状況に陥ります。つまり、リスクが大きい。この場合には、リスクを抑え、確実に相手を制圧することです。そのときに、相手の出方に応じて防御を固め、徐々に追い込んでいくやり方にニーズが出てきます。新陰流とはそういうニーズ応えるもので、相手の出方を予想、あるいは相手の出方を含めてその場面をコントロールしてしまおうとする方法です。それを最大限効果的に方法化したのが柳生新陰流と言えると思います。

狩野探幽の作品世界も、画家の個性や作品の価値を強くアピールするような、攻めの世界ではなく、作品全体の構成やバランスを考え、余白という受けを大きく導入し、作品の中に攻めと受けを同居させ、誰にでも親しみやすい世界を作っていると思います。

そういえば、柳生新陰流も柳生宗矩や柳生十兵衛といった著名な人々は初期に限られ後には形骸化していったという話で、狩野派と共通しているところがあるかもしれません。

2014年1月23日 (木)

N社の野望、続きの続き

先日、N社の決算説明会を見学してきました。以前に「N社の野望」として投稿した会社です。今回は、その後の経過報告のような感じです。決算数字は増収増益で、今期に入って何度目かの業績予想の上方修正を発表。つまりは、今期の初めに、今期はこれだけの売上や利益を見込んでいるとかこれを目標にして頑張るという数字が、ふたを開けてみたら実績がその見込を上回るペースで、このままいけばその目標を大きく上回ってしまうので、その目標をもっと多い数字に修正する。それ何度も行うということは、実績のペースに加速度がついてどんどん上がっているということです。実際、過去以降の成績になりそうという結果です。

これは、これまで事業改革として、以前のモーターの専業メーカーからモーターをメインとした制御システムの提供者に脱皮し、グループ内の組織や体制を根本的に編成し直し、つまりは、別の会社に変質させてしまうほどの大きな変革を進めて、その成果がようやく現われ始めて好決算となったということでした。

N社長は言います。数年前のアメリカ金融市場での、いわゆるリーマン・ショックに端を発して、日本の輸出を牽引してきた自動車や電機メーカーが急速に業績を落ち込ませ、歴史的な円高が長期間続き、国内はデフレで閉塞的な空気が蔓延し、その隙を突くように中国などの新興国企業の追い上げにあい、日本企業は従来の事業を漫然と続けていくだけではじり貧になった挙句消滅してしまうことが避けられないことが、はっきりした。だから、この数年は、辛抱して、事業変革を進め、将来に向けての成長の種を捲いてきた。それがようやく実を結びつつある。マスコミや政府や学者は円安だのアベノミクスだのと言うけれど、このように数年かけて身を切るような変革を企業がやってきたことが漸く結果となってきたのが、このところの上場企業の業績の回復なのだ、といいます。例えば、業績好調な自動車メーカーを見てみれば、4年前に売っていた車と今売っている車は、全然違うものです。これは、単なるモデルチェンジというのではなくて、ガソリンを燃料とする、より速く、より快適な車から、エコカーをはじめとする安心で、便利な車へと、自動車というものの定義が変わってきている、さらに、日本や北米という先進国相手に専ら販売をしていたのが、新興国にシフトして、販売先も大きく変わり、それに伴い、世界規模で生産や販売の体制が変わってきたのが、ようやく回り始めた。だから、企業が業績回復してきたといっても、企業によってその程度が違うのだ。円安だから業績が回復したのではないのだ。円安は企業の背中を押したことはたしかだけれど、円安だけで業績が回復するような企業は円高が長く続いた中で淘汰されてしまっている。

実際、N社は、もともとはパソコンのハードディスクにセットするファンのモーターの専業メーカーです。しかし、パソコンは、スマートフォンなどに押されて、現在は、それ程成長している業界ではありません。そこでN社はモーターに制御装置をセットして、モーターをメインとした制御装置への転換を進めました。例えば、自動車では、目に付くものだけでも、パワーウィンドやバックミラーなど様々なところでモーターを使っています。見えないところでも、ブレーキの制御や変速機その他、細かいところで無数のモーターを使っています。N社はそこにモーターを納めるというのではなく、そのモーターをメインとしたコントロール部分をユニットで自動車メーカーに納める事業をはじめ、ゆくゆくは自動車のモーターを使う部分を全部まとめてユニットとして売ろうとしています。これが、自動車メーカーが生産する自動車を根本的に変えようとして、生産ライン等の体制を再構築する動きに、うまく乗ることができそうだ。それによって、パソコンのハードディスクに依存していた事業体制が、販売先を広く分散させることができることになった。自動車そのものは新しい市場を開拓するのではなくて、従来の自動車が新しい自動車に買い替えられていくにつれてN社のユニットを必要とする自動車が相対的に増えていくので、確実に売上を伸ばせることになるわけです。これは、自動車だけでなく、家電や産業機械にも入り込めるので、N社は第2の成長ステージに入ったと宣言しました。

長々と書きましたが、私はN社のスポークスマンではありません。しかし、円安とか株高とか、そのような外部事情で業績が良くなったのではなくて、企業が経営者が日夜努力して勝ち取ったのだ、ということを堂々と述べる姿勢には、潔さを感じました。また、元気をもらった気分です。実際、数年前の閉塞的な状況の時に、N社の社長は沈みがちな風潮のなかで、「今が変革のチャンスだ」とばかり、出席しているアナリストや投資家を煽るように力強く語っていました。その時は、数百人を相手に一人で立ち向かって鼓舞する、この人のパワーに圧倒されたものでした。

しかし、今回はそういう煽るような姿勢は薄れ、というよりは影をひそめ、こころもち慎重な姿勢に変化したように感じました。これは、沈みがちな状況では無理してでも人々をリードしていたのが、今はその必要がなくなったということなのか、事業が成果の刈り取りの時期に入りじっくりと成果を見守る段階にはいったということなのか、私は社長さんを個人的に識っているわけではないので、なんとも言えませんが。気になりました。実績というと具体的にユーザーとの関係、例えば自動車にどのように制御システムがあって、そのどこに売れたとかということは自動車メーカーとの関係上機密事項になってしまうので、どうしても歯切れは悪くなってしまうので、そう感じたのかもしれません。

また、ちょっと気になったのは、事業変革というのはいいのですが、それは、端的にいえば、それまでパソコンのハードディスクのファンモーターを生産範囲倍してきた量産品メーカーから、自動車や機械のコントロールユニットという高付加価値製品の開発販売にシフトしていく、というのが基本的な方向性と考えられます。で、この基本方向って、どこかで見たことがあるものです。例えば、落ち込む前の半導体メーカー、あるいは主要な家電メーカーも量産品から高付加価値ということをうたっていました。それにより、無駄なシェア獲得から利益を求める高収益企業に脱皮する、と。その後のこれらの会社の惨状はご存知のことと思います。高付加価値を追求して、基盤が細り、オベリスクのような状態になり、ライバルの新興国メーカーの成長がスビードアップしていく中で追いつかれてしまい、苦労して開拓した高付加価値市場を浸食されてじり貧になってしまった。N社の説明している戦略も、たしかに説得力はあるのですが、突き詰めれば、その二の舞となる危険はあると思います。そういう先行事例とN社の戦略の違いはどこにあるのか、それははっきりしません。もっとも、こういう戦略にはそういうリスクは必ずついてまわるもので、今は、チャレンジすることに全力を傾けるのだ、と言われればそれまでですが。もともと、N社は社長のワンマン体制の企業で、社長の眼の届くところで、細かいところまで直接指示かあって成長してきたと聞いています。単一の量産品の生産販売なら、その眼も届くでしょうが、高付加価値製品ともなれば、製品の種類は格段に増え、ユーザーに合わせた柔軟で臨機応変の対応がより求められてくるでしょうが、その時に社長のワンマン体制で目が届くのか、そうなった場合、社長の経営姿勢にも変換が求められてくるはずです。その辺のことは、説明会に出席していた、企業をみるプロの人たちが質問していなかったので、何かあるとは思うのですが、説明会では説明されていませんでした。逆境であれば、みんなでまとまって一致団結しようということになりますが、反転攻勢となった今、これからは、きっと行き方を変えなければならず、そのことを社長自身が一番よく知っていると思います。それだけに、単純に元気にいこうと言えるものではないのかもしれません。

沢山の元気をもらいましたが、考えさせられることも多い説明会でした。

2014年1月22日 (水)

江戸の狩野派─優美への革新(2)~Ⅰ章 探幽の革新─優美・瀟洒なる絵画

Ed7ken1 最初の展示室で、作品の前に椅子が配されて大きく展示されていたのが、『竹林七賢・香山九老図』という大きな6曲1双の屏風でした。この作品を観てしまったがゆえに、ちょうど時間が空いたから寄って見ようかなどと思っていた私にとって、背筋を伸ばし、襟を正され、ただ者ではないと目を見開かさせられたのでした。

その一番大きな点は、線がうるさくないということです。当たり前のように感じられると思います。西洋絵画では、線は彩色されると隠れてしまいます。また、西洋絵画では、線で輪郭を描いて二次元の平面に変異させるというのではなくて、物体の面を置き換えるとか、三次元の奥行をもった立体を、そう見えるように平面に写すというやり方をすると思います。これに対して、私の見てきた日本画は横山大観のような近代日本画にしろ、今回みた狩野派や谷文晁にしろ(ここでは、これらを総称してあえて「日本画」とさせていただきます)、三次元の物体も一方向から見れば平面であって、その平面を面として捉えれば、その面は線で囲われているので、その囲っている線を描くことで物体を二次元の画面に置き換える。描かれた物体は奥行は直接に描かれることなく、線で囲われた平面として描かれる。そのため、描かれた線を消すということは出来なくなります。輪郭線が絵の中心な要素となっているということです。

Ed7ken2 だから、人物を描くような場合でも、西洋絵画の場合では、立体である人物を作品画面に立体を想像させるような面として置かれて、人物の背景は人物のいる空間の人物の奥として異なった面として描かれ、人物の面と背景の面はそれぞれ別物として、人物と背景を描かれ、作品を観る方も、それぞれを区別して観ることになります。ところが、日本画の場合は人物の輪郭線を引くことで、背景と人物を区別することことなります。線は、人物の形状を決める輪郭であると同時に、人物と背景を区別する境界でもあるわけです。線は、そういう重大な機能を持っています。それと同時に、描かれた人物の画像の構成要素として人物の一部でもあるわけです。だから、線は作品画面の中でその重要な機能を担わなければならないのと同時に、人物の顔の一部だったりするわけです。何か、屁理屈なような、小難しげな説明が長くなりました。そうです、そういう線は、だから、描かれた人物よりも目立って前面にでてはいけないわけです。線があると感じさせないで、自然と見る者が人物が描かれていると見るというのが、理想であるはずです。いうならば、線は存在していなければならないけれど、存在しているのを意識されてしまってはいけないのです。

横山大観や竹内栖鳳といった近代日本画の作品を見た私の率直な感想は、とくに、人物において、その線が存在を意識させてしまうのです。それは、私にはうるさく感じられてしまうのです。例えば、竹内の『絵になる最初』という有名な作品。輪郭の線が存在を主張しすぎてしまっていて、顔の部分が塗り絵になってしまっています。それで、人物が生命をもった人間になっていない。かといって記号化されたアイコンのようなものとして見るには、写生に則ったような輪郭で描かれているため、置き換えることができない。中途半端にリアルなのです。そしてまた、輪郭線は、輪郭線としてしか機能していないので無機的な感じがして、人物の生命感を失わせるようなことになってしまっています。横山の作品の場合もそうで、描かれた人物はリアルでもない、記号化された画面上の機能を担って見る者に想像を働かせるようなものでもない、宙ぶらりんで、何の意味も感じられないものになっているように感じられるのでした。

ところが、この『竹林七賢・香山九老図』では、その線がうるさく感じられないのです。人物そのものの描かれ方は、横山や竹内に比べても、類型的な形をしているのは明らかです。それだけで、解説にあった粉本主義と言いたくなります。しかし、横山や竹内の描く人物と違って自然で画面にハマっているのです。その大きな理由として、線がうるさくない。人物の顔の輪郭を描く線が、存在を感じさせないのです。その一つの理由は、使われている線のバリエィションとその変化です。参考として示した竹内の作品では顔の輪郭線はペンで引かれたような一様の線ですが、こちらの作品では、太さ、濃さが様々です。そして、線自体も途中で変化しています。それが顔の輪郭にアクセントを与えて、顔の一部になっているかのようです。竹内の作品では、線が作品の機能であるとして、できるだけ抽象化させて、存在を消そうとするかのように無機的にしているにもかかわらず、人物の顔と対立してしまって、うるさく感じられてしまっているのです。これに対して、この作品では、線を消そうとするとは反対に、線を生かすことによって人物の顔に表情や、動きを与えて、人物と切り離せないようになって、結果的にうるささを感じさせないようになっているのです。

そして、竹林の七賢という人物たちが竹林の中に埋もれるようにいる、その竹林という背景の描き方では、そのような線の使い方が一層の効果をあげているように見えます。それは、この大きな画面の屏風で、竹林に人物が描かれているということは、それとして線の織りなす光景として、線の絡みや様々な線を見ているだけでも、観る人を飽きさせないものとなっていました。私にとっては、線というものが、これだけ面白いものと、気づかせてくれた作品でした。そして、狩野探幽の描いたものは、この線を切り口に見ていくと、私が即品に実際に触れることなく抱いていたイメージを覆していったのでした。

Edokokin_2 『叭々鳥・小禽図屏風』という6曲1双の屏風。ここでは、線のバイエィションは線という枠を越えて、面に拡がってしまっているかのようです。木の幹は一本の線というよりも、面として描かれているかのようです。ここでの濃淡や墨のかすれを含みながら一気に筆を進めて線を引いてしまうのは、かなり大胆なことではないかと思います。その一気呵成な勢いは、描かれた樹木とは別に、その勢いを感じます。先日見た、竹内栖鳳の『獅子図』で大胆な線の近い方を感じましたが、この作品は、それ以上です。木々の葉は筆遣いで一気に面のようにさっと引かれているようです。だから、この作品では、線がまるで存在しないかのようなのです。数羽いる鳥たちにしても、輪郭を引かず、数本の線で羽根や主要部分をさっと引いて、まるで一つの面のようになっています。これは、前で屁理屈をこねた西洋画の物体の捉え方に、むしろ近代日本画などよりも距離が近いのではないか。この展示コーナーで飾られているのは水墨画が中心なせいかもしれませんが、ここで私は、狩野探幽の線に魅了されました。

さらに進めます。これは、言葉先行で考えを弄ぶことのようになりそうですが、多少の脱線と思って捉えていただきたいと思います。様々な線の、それこそ交響楽とも言えるような世界が展開されているのが、狩野探幽の作品世界と、これまで語ってきました。その線は、時には線という範囲を越えて面に拡がるなど逸脱を辞さないものでした。それなら、逆の方向、つまり、線が縮小していって、つきつまるところ線の消失した何もないところ、つまり余白というのも線の一つの発展形として捉えられないか、ということです。この『叭々鳥・小禽図屏風』を同時に展示されている、前の時代の狩野元信の作品と伝えられる『花鳥図屏風』と比べてみると、同じ鳥と樹木の風景でありながら、狩野探幽の作品が、元信の作品の比べると部分だけをピックアップして、あとは余白にしてしまっているのがよく分ります。それによって画面が軽妙でスッキリとなっていると言えるかもしれません。解説では、狩野探幽の一世代前の長谷川等伯や海北友松等の余白を大きく取った作品が、画面を単純化することによって誇張をすすめ、余白と描かれた部分の対比によって緊迫感を高めたり、モチーフの象徴的表現を可能にしたということが紹介されています。これに対して狩野探幽の場合には、余白と描かれた部分を対立的にあつかうのではなく、余白と描かれた部分が続いているようになっていて、余白自体が絵画表現の一つの要素となっていると説明されています。つまり、線のひとつのバリエィションとなって、余白の部分が何かを観ることができる。作品を観る者は余白に想像力を働かせるようにも作品画面が構成されている、というように考えられるのです。それは、空気感だったり、作品画面の風景画が移ろう際のブリッジだったり、無限の広がりを想像させたりといった具合です。それが作品画面に豊かさを与えて、軽妙でスッキリしていながら、薄浅に終わらない奥行を与えているわけです。

2014年1月21日 (火)

江戸の狩野派─優美への革新(1)

Edo どんよりとした曇天で、傘を持って行こうか迷うような空模様の日でした。美術館に立ち寄るのなら、傘は館外の傘立てに預けねばならず、いつもポロ傘を遣っている身としては、恥ずかしい思いをするので、持って行こうか迷いました。出光美術館は、初めていくところで、不案内ゆえか、東京駅から少し歩くことになり(有楽町が最寄駅で、一駅分歩くことになった)、小雨の中で、結局、傘をさして歩くことになりました。この辺りの地理は、私には不案内で、隣にある帝劇も行ったことがなく、危うく間違えて入ってしまうところでした。上野の美術館のような単独の建物ではなくて、ビルのフロアにある美術館のようなので、勝手がわからなかったです。ビルの玄関のところに、案内の人がいて、美術館専用のエレベータまで案内してくれて、ようやく辿り着けました。多分、あの案内の人は、初老といっていい恰幅のある男性だったので、出光を定年退職になった人とか、そういう人なのではないかと思ったりしました。美術館には専門の学芸員もいるのでしょうけれど。それ以外では、そういう人が結構いそうな感じでした。

平日の午後で、しかも雨模様の天気ということでしょうか、それともこういう展覧会は人気のあるものなのか分かりませんが、館内は混み合うこともなく、静かに落ち着いて見ることができました。美術館の立地のせいなのか、出光美術館の特徴なのか、ビジネススーツの人が結構目立ちました。私も、その一人ではあるのでしたが。出光美術館の館内は、比較的古いビルのワンフロアを占有して展示しているので、美術館というよりは広いロビーという印象で、天井が低く、展示する壁面が少なく、沢山の展示は難しいように見えました。日本画の展示ということだからでしょうか、作品がガラスケースに収められて、あまり近づいて見ることができなかったのと、展示のために壁面をとると、その壁面に囲まれたスペースが生まれ、それを埋めるためなのでしょうか、ケースに入れられた陶磁器が多数展示されていたのが、却って私には、絵を観たいのに、余計なものが視野に入り、邪魔でうるさく感じられました。どうしても、個人コレクションで美術館を作ったというのは、集めたコレクションを他人に見てもらいたい(見せびらかしたい)気持ちが強くなるのでしょう。

ただ、展示された作品は、私にとっては、近来にない発見の場となりました。このところ、近代日本画の展覧会を、分らないながらも見てきて、どこかすっきりしないフラストレーションが溜まっていましたが、今回の展覧会で、それを払拭とはいかないまでも、ある程度解消できたからです。横山大観、竹内栖鳳、速水御舟その他、観てきましたが、今回みた狩野探幽をはじめとした江戸初期の狩野派の絵師たちの作品の方が遥かに面白いし、絵画になっているのをまざまざと見せつけられたからです。横山大観や竹内栖鳳といった近代日本画の展覧会に行くと、狩野派に対しては、創造性を失った守旧派でパターンの繰り返しに堕してしまったというように解説されていたイメージがありました。それは、外れではないのでしょうが、実際に展示された作品を見てみると、その意味合いはニュアンスが異なっているように思いました。それは、様式を作るということと、作られた様式を所与のものとして受け取るかの違いではないか。とくに、近代の画家たちは、批判的に捉えることによって、自己の方法の新しさをアイデンテファイする必要があった。その対象として狩野派は格好だったということだったのではないか。印象派の画家たちがアカデミーの権威を守旧派として批判したのと同じようなことです。それは、作品自体による、ということもあったのでしょうが、政治的な意図(自らのスタンスを確認し、それを対外的にアピール)も多分に含まれていたことによるものではないか、と思います。しかし、実際に作品を観てみると、こんなに面白かったのか、と目から鱗の落ちる思いでした。具体的なことは、この後お話ししたいと思います。

主催者あいさつの中では次のように述べられています。“江戸狩野の祖となったのは、狩野探幽でした。画才豊かであった探幽は、祖父永徳同様に時代に適う新様式を創りました。それは余白を生かした優美・瀟洒な絵画様式であり、限られたモチーフで詩情溢れる豊かな空間をつくることに特徴があります。探幽の画風は、尚信、安信、益信、常信といった、江戸狩野の絵師たちに継承されていきます。探幽の絵画様式を継承した江戸狩野の絵師たちは、“独創=芸術”という概念が一般的となる近代以降に“粉本主義(手本の模写ばかりを重視すること)”という言葉で、厳しく非難されてきた歴史があります。しかし、画派としての“型”の継承を重視しつつも、それぞれに個性的な絵画作品を制作した絵師は少なくありません。本展では、探幽の写生画や模写を含む様々な絵画作品を特集し、新時代を拓いた探幽芸術の革新性や、その旺盛な創造力をご覧いただくとともに、江戸狩野の草創期に活躍した他の重要な絵師たちの作品にも目を向けながら、探幽をはじめとする“江戸狩野”が、本来もっている清新な魅力を再発見いたします。”

なお作品の展示は次のような章立てで為されていました。

Ⅰ章 探幽の革新─優美・瀟洒なる絵画

Ⅱ章 継承者たち─尚信という個性

Ⅲ章 やまと絵への熱意─広がる探幽の画世界

Ⅳ章 写生画と探幽縮図─写しとる喜び、とどまらぬ興味

Ⅴ章 京狩野VS江戸狩野─美の対比、ぢっとが好み?

2014年1月20日 (月)

景気回復のために賃上げを求めるのは本末転倒の議論?

JMケインズへの優しい入門書を読んでみると、かれが経済政策に関与し、経済分析のモデルとして理想としたのが観世雇用経済だったのが分かります。これは、経済学のどんな入門書にも書かれていることで、経済学の目的となっているものと考えることができます。だからこそ、カール・マルクスはケインズの師匠筋にあたるリカードなどを徹底的に読み込んで、それを批判することによって経済学批判を展開し、その集大成として「資本論」を執筆したわけです。そのマルクスの求めたのはプロレタリアートによる革命、労働者の解放です。マルクスが経済学を批判したのは、経済学が完全雇用ということを理想といていたからこそと言えると思います。

ということは、経済学の目的は経済成長ではないのです。目的は失業をなくすことで、経済成長は、それによって企業が雇用を増やすという、失業をなくすための手段なのです。だからこそ、ケインズは経済政策において部分最適と全体最適の違いを考えで、当面の収支では想像することのできない赤字財政政策も辞さないという態度をとることができたのだと思います。それ以降、ケインズの提起した経済政策や、ケインズ学派と呼ばれる彼の主張を継承したといわれる学統は多くの批判を受けてきましたが、基本的な経済学の目標に対しての批判がされたということは聞いたことがありません。そういう議論があれば、経済学という学問の存続にかかわることですから、大議論になるはずですから、私のような疎い人間の耳にも届くことでしょう。

だから、ニュースでアメリカ経済が回復したという報道があったとしても、失業率が改善または改善の可能性が高まらない限り、経済学者は経済が改善したと言うことは出来ないはずです。GNPとか経済成長率とかいった指標が改善したとしても失業率が改善されないのですから。もし、前者の指標と後者の指標が連動しているはずで、前者が改善しているから、後者も改善する筈だ、ということであるなら、現在、両者の動きは連動していないので、その理論的前提が否定されることになるので、経済学の大前提からすれば、GNPとか経済成長率というのは経済学の対象とする経済とは無関係ということを主張しなければならないはずです。

で、議論は飛びますが、このところ国内で首相をはじめとした政府関係者が企業に賃上げをするように言葉を費やしていることや、経済学者が同じようなことを言っていることに対して、上のようなことを前提としたならば、本末転倒ではないか、と私には思えるのです。目標とすべきことを手段にしてしまっている。つまり、失業をなくすためには、企業が労働者に多くの金を払うようにならなくてはならない、労働者に企業が金を払えるためには企業の儲けがふえなければならない。企業の儲けが増えるためには景気がよくならなければならない。そういう筋道で、経済学が経済の分析をし、経済政策が立案されてきたはずです。しかし、政府が企業に労働者にもっと金を払えというということなら、今言った筋道は必要ありません。従って、経済学の必要もなくなるわけです。政府にいる人が政策の目標を変えるなら、それはそれで構わないと思いますが、それならその説明をしなければならないはずです。また、経済学者は上述のように彼らが拠って立つ経済学という学問の目標がかわるということは、学問自体の否定にもなりかねません。それをきちんと説明した上で、そういう主張をしなければならないと思います。だから、経済学者という肩書で、企業に賃上げしなければならないと主張している人がいるならば、その人はそのことによって自身の経済学者であることを自己否定していることと同じに見えます。そのことに無自覚であるとすれば、その人は学者としての適性を欠いていることを公にしていることになります。

最後に、誤解のないように、私は企業が賃上げをしなくてもいいと言っているわけではないということは、ご了解願います。政府や経済学者が、自己批判を覚悟したうえで理論的根拠を説明することなく、企業に賃上げを求めるのは本末転倒だといっているだけです。

 

 

2014年1月19日 (日)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(25)

結語

人間の知性の働きは、魂の外の存在者との関わりへと出ていきつつ再び内面へと立ち帰ることによって自らをより豊かにしていく、という円環的・自己還帰的な構造を持っている。また、人間の意志のはたらきは、対象を肯定するというまさにそのことにおいて、そのような仕方で対象を肯定している自己自身を肯定すると言う自己還帰的な構造を持っている。

すなわち、人間においては、知性のはたらきにおいても意志のはたらきにおいても、対象との新たな関係性の形成は、自己自身との新たな関係性の形成と表裏一体となっている。しかも、そのような形における自己自身との新たな関係性の形成は、理性的実体としての人間にとって、単なる偶然的な付加物に過ぎないようなものなのではなく、理性的実体に本来備わった本質的な在り方を具体的に露わにしていくものなのである。

自己還帰・自己認識のために他の存在者との関係性の形成を必要としない神とは違って、人間は諸々の関係を必要とする。それは、確かに、理性的実体としての完成度の低さに基づくものでもあるが、しかし、そのような関係形成のはたらきは非理性的な諸実体には不可能である限りにおいて、あくまでも、本質的には、理性的実体としてのペルソナの完全性に基づいたはたらきなのである。

このような仕方で、ペルソナとしての人間において、実体的・自立的な性格と関係的な性格とは、あくまでも実体的・自立的な性格に重心を置きながら統合されており、自らの実体により充実させていくという「存在の充実」の運動が、他者との関係性によって養われつつ、逆に、他者をも「存在の充実」の運動へと導き入れていくような広がりを有している。トマスは、このように仕方で、「人間中心的」でもなければ「神中心的」でもない、「存在中心的」ともいうべき独特な次元で捉えられた「人格の存在論」を構築しているのである。

上述のように、人間存在には、二つの完全性がある。すなわち、人間が人間である限りにおいて常にすでに与えられている基本的な条件(第一の完全性)と、人間にとって本来的であるにもかかわらずいまだ十全なかたちでは実現されていない目指されるべき在り方(第二の完全性)とである。一性と全体性という存在論的な完全性を常にすでに有しているペルソナは、はたらきによる関係性の形成を通して、さらに高次の完全性・全体性へと進んでいくことによって、自らの自立性を自他との中心的でもなく他者中心的でもない円環運動のただなかで、「存在の充実」という課題を達成していくことができるのである。

本書において明らかとなった「人格の存在論」は、それ自体が存在論的な人間論として興味深いのみではなく、そのような新たな神学的探求のための橋頭堡という意味をも有している。人間の存在充足の歩みは、個人的な広がりを持っているが、トマスの論の特徴は、人間本性のこのような構造を、単に人間中心的な次元ではなく、かといって単に神中心的な次元でもなく、「存在中心的」とも言うべき独特な次元で把捉している点に見出すことができるのである。

このような根源的な存在論的洞察に基づきつつ、本書においては、倫理学と存在論との接点に焦点を置きながら、「行為」「認識」「愛」「徳」「法」といったトマス人間論の中核的構成要素を存在論的に捉え直した。一見別々の活動に見える知性による認識活動と意志的な行為─「愛」「徳」「法」はそれに関わっている─は、両者とも、「存在の充実」を実現するための活動という観点から、統一的に把捉することができるのである。そのような意味において、狭義の「倫理学」とは一見無縁にも思われる「知性」による「認識活動」もまた、トマスの存在論的な倫理学の不可欠な構成要素といえる。

「存在の充実」を求める人間に対する倫理学的考察がその基礎づけを求める中で存在論的洞察へと自ずと展開し、逆に存在論的考察が自ずと倫理学的洞察へと深まっていくという、倫理学と存在論の自在な相互連関が円環的に遂行されるこのような構造こそ、トマス・アクィナスにおける「人格の存さ正論」に他ならないのである。

2014年1月18日 (土)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(24)

結論

自然法の第一原理によって提示されているのは、「倫理的行為の原点としての理性」とでも呼ぶべき観点である。それは、心理的・社会的条件づけを強調する心理主義的・社会学的立場や情緒主義的立場とは大いに異なっている。だが、理性の役割を強調するという点で共通するにしても、人間の自然本性的な傾向性・欲求の実現ということに固有の場所を与えることをしない義務論的な理論とも異なっている。自然法を基盤にした倫理的・法的体系においては、自然本性的な欲求・傾向性や具体的な慣習・実定法に固有の場所が与えられつつも、あくきでも理性の規範性という観点が保たれているのである。

このような自然法論の現代社会的学的意義としては、善の具体的な内容を細かく記述できる余地を充分に残すような仕方で善き生の大まかな輪郭を描き出すことによって、善の内実について語ることを断念する相対的なリベラリズムと、特定の伝統的・慣習的な善の押し付けとなりがちな共同体主義の二項対立を超えて、価値の相対性自体の相対性を自覚させ、実現すべき基本的な諸価値を、具体的な価値の多元性と矛盾しない形で提示する役割を果たしうる点に見出すことができる。

その際注目すべきことは、自己実現原理とも言うべき自然法の泰一原理(「善は為すべく、追求すべきであり、悪は避けるべきである」)がきわめて幸福論的な原理であるように見える仕方で語られているという事実である。こで「善」と言われているのは、単に道徳的な善に限定されているのではなく、広い意味で、「価値」とも言いかえられうるような広い意味での「善」である。それゆえ、いわば、自然法の第一原理とは、人間は、自らの「存在の充足」─そしてその結果としての「幸福」─を自ずと追い求めるものであり、それゆえ、自らの「存在の充足」を脅かすような否定的な行為や状況は避けるべきである、と言い換えることのできるようなものなのである。

だが、同時に、そのような自然法が、神の永遠法の分有として語られていることに我々は着目しなければならない。トマスによると、自然法は、人間が、相応しい仕方で「摂理の分担者」となって、自己自身を、隣人を、そして社会を形成していくために、その原動力として、そして、道を照らす光として、人間理性に刻印されているものなのである。すなわち、「自己実現原理」とも言うべき「自然法」は、存在の付与者である神から自然本性的に人間に課題として与えられているものなのである。人間は、自らの存在を保持し発展させ、「存在の充実」を他者へと分け与えるという課題を、「自存する存在そのもの」である神から与えられているのである。すなわち、「幸福」を目指すということは、人間にとって、単なる欲望の対象ではなく、いわば、神から分かち与えられた課題であり義務なのである。ここにおいては、幸福論的な人間観と義務論的な人間観との結合─「存在の充実」としての自他の幸福を目指すのが義務であるという仕方での統合─が見出されるのである。

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(23)

第3節 自然法と実定法の二元論の克服

このような自然法論に即した時、ケルゼンの批判に対して、どのような仕方で応答することができるだろうか。ケルゼンは、「『実定法』と『自然法』という根本的な二元論」を、自然法論の根本的な特徴と見なしている。そして、「自然法を演繹してくる人間本性」と「実定法を必要ならしめる人間本性」との矛盾を指摘していた。しかし、ケルゼンの理解とは異なり、人間本性の善性という過度に理想的で非現実的な人間本性観を前提にしている自然法が必然的に孕んでしまう一面性が、不本意ながらも、実定法という強制機構を必要とさせるのではない。実定法は、自然法の第一原理が十分に規定せずにとどめている─そのことによって価値の多様な実現形態をもった諸文化が歴史的に成立し得る─領域に向かっての自然法の拡大であり特殊化なのである。それゆえ、実定法と自然法の背景にある自然本性観が矛盾しているというケルゼンの批判は当たらない。というのも、自然法によって未既定のままに残されている事柄が引き続き規定されているように促し続けるのはまさに自然法自身だからである。トマスによると、その具体的な構造は以下のとおりである。すなわち、「人間によって制定された法はすべて、それが自然法から導出されていればいるほど、それだけ法の本質に与ると言える。これに対して、何らかの点で自然法から外れているならば、もはやそれは法ではなくて、法の歪曲となる」。そして、人定法が自然法から導出される仕方は二つに大別される。その一つは、「原理から結論が導出されるような仕方」であり、もう一つは、「或る共通的・一般的なことが特殊的に確定されるような仕方」である。「原理から結論が導出されるような仕方」で自然法から人定法が導出される仕方は、諸々の学において原理から論証的結論が引き出される仕方に似ている。たとえば、「何人に対しても悪を為してはならない」という原理から、「殺すなかれ」ということが、結論とも言うべきものとして導出されるのがそれにあたる。そして、このような仕方によるものは、単に人為的に法によって定立されたこととして人定法のうちに含まれているのではなく、自然法からもその効力の一部を得てきている。それに対して、「或る共通的・一般的なことが特殊的に確定されるような仕方」で自然法から人定法が導出される仕方は、諸々の技術において一般的な構想が或る特定の形へと特殊化され確定されていく仕方に似ている。例えば、「罪ある者は罰せられるべきである」いうのは自然法に基づくのではあるが、「しかじかの刑罰をもって罰せられるべきである」とするのは、自然法に対して加えられた或る特殊的確定としての人定法なのである。そして、このような仕方による確定は、さきほどのものとは異なり、ただ人定法からのみその効力を得ているのである。

他方、トマスも、ケルゼンと同じように人定法は自然法とは違って強制秩序として現われると理解している。しかし、そのような強制秩序の背後には、人間本性が根源的に善きものであるからこそ、このような強制秩序にも現実的な意味があるという考えがある。というのも、威嚇が意味を持ちうるのは、威嚇される人々がその人なりの幸福な生・善き生へとコミットしていて、その幸福な生・善き生の実現(存在の充実)を妨げる強制秩序を恐れる限りにおいてであり、その意味において、悪しき人々においては、「濃密で曖昧な善の概念」の具体化の次元で何らかの歪みが生じているにしても、根本的な自己実現原理へとコミットしていることにおいては、善き人々と違いはないからである。そもそも、何らかの規範的な原理が提示されるような人も、自らの自己実現へとコミットしていることが前提にされなければならないのであり、もしも根源的な自己実現へとコミットしていないような人がいたとすれば、そのような人に対しては、どのような法的強制もその威嚇力を十全な仕方では持ち得ないのである。そして、自然法に適った実定法的強制秩序が強制秩序として現象するのは、悪しき人々にとってのみであり、有徳な人々や正しい人々の意志は法と合致しているので、「強制さている者が強制する者に対するような仕方で」方の下にあるのではないのである。

 

第4節 人間理性の規範的性格

自然法論においては、あらかじめ確固とした仕方で規定された自然本性を出発点に、演繹的な仕方で、人間的善に対する探究が進められているのではない。そうではなく、善の具体的な内実を細かく記述できる余地を十分に残しつつ善き生の大まかな輪郭を描き出すという仕方で、人間的善に関する探究が進められている。そして、そのことによって、歴史超越的なかたちではなく、歴史的な経験に開かれたかたちで、人間が自らの本性を試行錯誤的に発見し、具体的な状況のなかで具体的に実現していく、という柔軟な構造を可能にしている。人間の行為に方向づけを与えうるのは、自然本性的な傾向性自体でもなければ、自然本性的な傾向性が具体化された諸慣習でもなく、あくまでも、それを善きものと判断する理性なのである。

人間は単に自己保存への傾向性を持つのみではなく、自己保存を善として認識し、変動する状況の中でそれを維持するための方法と手段を具体的に考案する。たしかに、我々の有する諸価値の内実は、特定の社会の伝統・慣習への文化適応によって形成される側面が大きい。だが社会からのこのような影響が可能なのも、他者と共に生活することへの基本的な適性を我々が自然本性的に有し、それを善として理性的に認識し、肯定しているからこそなのである。

一方、人間は諸動物とは違って、具体的な判断に基づいて特定の目的-手段連関に自らの身を能動的に置くことができる─様々な慣習・習慣・法などの価値体系を構築したり適応したりする─ばかりではなく、そのような特定の目的-手段連関自体を吟味し相対化することができるのであるが、そのような根源的な判断が可能となるのは、具体的な判断の能動的な発動の底に、人間の能動的な力によって左右することのできない非恣意的な自然本性的傾向性が存在しているからなのである。換言すれば、自然本性的傾向性が非恣意的な仕方で志向させられている統合的・総合的な人間的善との差異の認識が、具体的・特定的善によって構築された特定の価値体系や論理・法体系の有効性と限界の双方を自覚することへと人間を導くことができるのである。こうして、「自らの判断についての判断」という人間理性固有のはたらきに基づいて、人間は、自己の存在全体を完成させる全体的・統合的な人間的善を、試行錯誤的に具体化しつつ、首尾一貫的な仕方で追求し、「存在の充実」を実現していくことができるのである。

2014年1月16日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(22)

第9章 トマス自然法の基本構造:自然法の第一原理

自然法論においては、善悪の根本的な尺度として、人間の作為によって恣意的に動かされることのない何らかの「自然的・本性的なもの」が存在すると主張される。その際、「自然的なもの」・「本性的なもの」は、「実定的なもの」や「慣習的なもの」との対比の中で捉えられる。慣習的・実定的な善悪の尺度を超えて、人間の「自然本性」や「事物の本性」に根差した善悪の根源的な尺度が認められうると主張されるのである。

だが、現代においては、このような自然法論の有効性に対して、多くの疑問が投げかけられている。法の根本規範を実定法のみに限定するハンス・ケルゼンらの法実証主義との緊張関係の中で、自然法論の影響力は、後退を余儀なくさせられているのである。すなわち、自然法論は、一方で、人間の本性が自然法の源泉であると説くが、このことは、人間の本性が根本的に善きものでなければならないことを意味する。だが、他方、強制機構を備えた実定法が必要になるのは、人間の本性が悪しきものであるからと考えざるを得ない。こうして、自然法を演繹してくる人間本性の善性と実定法を必要ならしめる人間本性の悪性という矛盾が生じてきてしまうのである。そして、ケルゼン自身の見解によると、実定法を必要ならしめる人間本性こそが、真の人間本性である。そして、自然法論者が自然法と称するものを導出する基礎になっている人間本性は、人間の実際のあるがままの本性ではなく、あるべき人間の本性であり、自然法に対応するものとして想定された理想的な人間の本性なのである。自然法論においては、実は、自然的なものが善の尺度とされているのではなく、反対に、予め存在している特定の実定的・慣習的な法的・道徳的諸価値を正当化するのに都合のいい仕方で、自然的なものという概念が事後的に抽象度の高い仕方で密かに構築され、そこから特定の慣習的・実定的な諸価値・諸規範を改めて根拠づけるという、不毛な堂々巡りが犯されているのにすぎない、と彼は批判するのである。

第1節 トマス自然法論の基本構造

トマスによると、自然法とは、「我々がそれに照らして何が善であり、何が悪であるかを判別するところのいわば自然的理性の光」であり、その第一原理は、「善は為すべく、追求すべきであり、悪は避けるべきである」というものである。

第一に、人間のうちには、全ての実体と共通の自然本性に基づく傾向性が内在している。すなわち、どのような実体も、みずからの本性に基づいて、自己の存在の保存を欲求する。そして、このような傾向性に基づいて、自己の存在の保存を欲求する。そして、このような傾向性に基づいて、人間の生命がそれによって保持され、生命保持に対立する事柄が阻止されるところの事柄が、自然法に属することになる。第二に、人間のうちには、他の動物と共通の自然本性に基づいて、或る種のより特殊な事柄への傾向性が内在している。そして、このことに基づいて、雌雄の性行、子供の教育、及びこれらに類似した事柄のように自然がすべての動物に教えたところのものが、自然法に属する。第三に、人間のうちには、人間自身に固有の理性的な本性に基づいた傾向性が内在している。すなわち、人間は、神についての真理を認識することや、社会のうちで生きることへの傾向性を有している。そして、このことに基づいて、人間は無知を避けるべきであるとか、親しく交わってゆくべき他の人々に危害を与えないなど、こういった傾向性に関わる事柄が、自然法に属することなる。

以上のトマスの論述には、二つのレベルの話が合わせ含まれている。第一に、「善は為すべく、追求すべきであり、悪は避けるべきである」という第一原理の自明性というレベルの話がある。人間は、自らにとって魅力的な善いもの・価値のあるものを獲得することを通じて自らの可能性を現実化していくことによって「存在の充実」を獲得して幸福になることを目指す、という根源的な傾向性を有しているのであり、これは、人間の意志のはたらきによって自由に否定してしまうことのできない根源的な所与である。自然本性的傾向性というのは、人間に与えられた根本的条件のことであって、人間の個別的・具体的な意志の発動がそのような根本的条件のことなのであって、人間の個別的・具体的な意志の発動がそのような根本的条件に全く反しているということはありえない。

自然法論においては、善悪の根本的な尺度として、人間の作為によって恣意的に動かされることない何らかの「自然的・本性的なもの」が存在すると主張されるのであるが、自然法の本質をこのような「非恣意性」ということに求める時、その「非恣意性」とは、第一義的には、外的・社会的な秩序に関わる「非恣意性」なのではない。むしろ、何よりも非恣意的なもの、我々の意志によって勝手に変更することができないもの、それは、我々自身の本性であり、その本性に内在している自己実現原理なのである。だが、このような根源的な原理の指摘は内容空疎でトートロジカルな形式的命題である。そこで第二のレベルとして、「自己実現の具体的要素」を自然法の具体的な内容として提示しているのである。

 

第2節 基本善の曖昧性の積極的意味:善き生の大まかな輪郭の描出

自然法論が直面せざるを得ない次のようなジレンマがある。すなわち、「善は為すべく、追求すべきであり、悪は避けるべきである」というような形式的で普遍的な第一原理のレベルにとどまって、より具体的・内容的な規範について語ろうとしなければ、自然法論は無内容で空虚なものになってしまいがちであるが、逆に、具体的・内容的な規範について語りすぎると、その普遍性を喪失してしまうというジレンマがある。だが、一見ジレンマとも思われる自然論法のこのような特質の中にこそ、実は、同時に自然法論の長所が見出される。というのも、もともと、自然法論の利点は、善の具体的な内実を細かく記述できる余地を充分に残すような仕方で、善き生の大まかな輪郭を柔軟に描出するところにこそ見出されるからである。

マーサ・ヌスバウムは、人間的善に関するこのような理解を、「濃密であいまいな善の概念」と名付けつつ、次のように述べている。「アリストテレス主義者が用いる善の概念は、ロールズの『希薄な理論』…のような『希薄な』ものではなく、『濃密な』─すなわち人間の生の全領域を横断する人間的な諸目的を取り扱う─ものである。しかしながら、この概念は、曖昧なものであり、しかもいい意味においてそうなのである。つまり、それは、多くの具体的な特殊化・明確化の余地を残している。アリストテレスが言っているように、善き生の『大まかな輪郭』を描き出しているのである」。このようなヌスバウムによって提示されている「濃密で曖昧な善の概念」は、内容的・実質的な「人間的善」を提示しつつ、それを、経験による再検討や歴史的な発展や異文化との出会いのなかで修正可能性へと開かれたものとすることに成功しているのである。

トマス的自然法論における人間的善は、固定的な人間本性から演繹されたようなものではなく、人類の諸文化の様々な伝統のなかで、追求される価値あるものとして共有されていることが経験的に見出された諸価値の最大公約数的な集合なのである。このような自然法論においては、たしかに、基本善・基本的諸価値が演繹的な仕方で導出される根拠として固定的な「自然本性」が持ち出されてることはないが、「自然本性」の役割が無化されているわけではなく、「自然本性」は、歴史的経験のなかで試行錯誤的に形成されていく諸価値の収斂していく結節点として機能しているからである。「人間の自然本性は可変的である」というトマスの言葉にもあるように、人間は単純に人間で「ある」のではなく、人間に「なる」ことにおいて初めて本来的な意味で人間で「ある」ことができるようなダイナミックな存在なのであり、そのような動的な構造を視野に入れず最初から固定的な人間の本性を想定することはできないのである。

2014年1月14日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(21)

第Ⅳ部 存在充足の原理としての自然法

日々積み重ねられていく人間の様々な行為は、「知性」と「意志」という自らに与えられた能力が孕んでいる可能性をより十全な仕方で現実化させていくためにこそ遂行され、「ペルソナ」の特徴である「完全性と全体性」という自らに与えられた存在の条件を全うし、その「存在充足」によって幸福を達成するという大きな文脈の中に置かれることによって、はじめてその意味を与えられていく。倫理的に善い行為とは、そのような存在充足へと向けられた行為のことであり、悪しき行為とは、そのような存在充足を欠如させていく行為のことなのである。そうだとすれば、トマスの人間論は、いわゆる目的論的な人間論、または、幸福論的な人間論であると結論付けることができるのであろうか。

『神学大全』は、第1部の神論、第2部の人間論、第3部のキリスト論から構成されている。このような全体構造は、創造主なる神からの万物の発出と、目的なる神への万物の帰還というしプラトン主義的な原理に基づいて設計されている。トマスは、「禅の自己拡散性・自己伝達性」という原理を新プラトン主義から学びつつ、独自の仕方で自らの根源的な構成原理として使用している。まず第1部の神論においては、神による世界創造の動機について、「神が諸々の事物を創造にまで産出したのは、諸々の被造物に自らの善性を伝達し、これをこれらの被造物を通じて表現するためであった」ところが、被造物はすべて有限である限りにおいて、神の善性を表現するには不十分である。こうして、多様な存在者の秩序ある連鎖としての世界が形成される。そして、他者への自己分与という神的な存在の充満に基づいたこのような在り方は、神にのみ当てはまるのではなく、創造において、このような在り方自体が縮減された形において、被造物に伝達される。この原理は、第2部の人間論(倫理学)にも適用されていく。倫理学においては、人間の他者との関係が一つの中心軸となるのだが、トマスは、他者とまの関係形成の動議づけに関して、人間と他者との関係に入り込むのは、まずは自己のみの力では及ばないことを他者によって補ってもらうためである。だが最終的にはそのような欠如によって促される在り方に留まるのではなく、自らの有する存在の豊かさを他者へと伝達し共有するためにこそ、人間は、他者との関係性を構築していくのであり、そのなかで、人間は、自己譲与的な神の似像として完成し、神へと還帰していく。このように『神学大全』の全体構造は発出と還帰、善の自己拡散性という新プラトン主義的な原理に基づいて理解することが可能である。しかし新プラトン主義においては、一者からの世界の発出した世界の一者への還帰はともに自然発生的な運動であると考えられていたのに対し、トマスは、神と、神から発出し還帰する人間の双方が自由意志を有していることを強調している。

こうした枠組みのなかに位置づけることによって第2部の全体構造も明らかになってくる。人間は、神の被造物として神に依存しつつも、創造者である神に類似した理性と自由意志を有しているかぎりにおいて、神の摂理に受動的に服するのみではなく、摂理の分担者として、自己の行為を、そしてそれを通して人間社会を、能動的に形成していくことができる存在なのである。そのような人間という自立的な力を有した存在を創造することができることこそ、神の自立的・能動的な力の卓越性だとトマスは捉えている。このように、神への依存性と自立性という両犠牲を本性的に有している人間についての多面的な考察が、トマス倫理学の内実を形成している。人間は、神によって与えられた自らの本性や世界全体の自然的秩序を前提にしつつも、あくまでも自らの自由意志によって自己を時間的世界の中で動的に形成して行くことのできる可塑的な存在として把握されている。このように、トマス倫理学においては、神と人間との関わりにおいて、人間の依存性と独立性、自立性と関係性、能動性と受動性、神律性と自律性という一見相反する諸性質が絶妙な仕方で統合的に把握されているのである。

このような枠組みの中で展開されるトマス倫理学は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』と同様に、人間の行為の目的についての議論から出発する。そして、幸福を実現することが人間の究極目的であるという目的論的・幸福論的な立場が提示される。その際、現世での生活における幸福に関心を集中させていたアリストテレス的な幸福概念を「不完全な幸福」として相対化しつつ、トマスは、自らのキリスト教的な幸福概念を「完全な幸福」として提示する。だが、「完全な幸福」の内実は神の本質の直視(至福直観)であり、この世での生活においては完全に実現することができないとされる。それゆえ、倫理的生活の内実は、幸福の実現を直接的に目指すというよりは、幸福を与えられるに相応しい人柄を身につけることを目指すということにあることになる。それは、具体的には、徳を身につけるという作業になる。

そして、このような人間の倫理的生活は、「我々を法でもって教導し、恩寵でもって助ける」神のはたらきかけによって導かれる。人間は、「それに照らして何が善であり、何が悪であるかを判別するところの言わば自然的理性の光」と定義される自然法を、神的光(永遠法)の刻印として有しているとされ、また、神の恩寵は、人間の自然本性を破壊したり無用なものにしたりするのではなく、むしろ、人間の自然本性を導き完成させるものとして機能する、とトマスは捉えている。

そもそも、いわゆる「セム的一神教」または「アブラハム的宗教」─キリスト教・イスラム教・ユダヤ教─において、「神」

とは、人間の知的探求や宗教的探究の最終的な到達点として持ち出されたものではなく、むしろ、超越者である「神」の側からのはたらきかけによって、神と人間との関係が始まるという構造を有している。そのはたらきかけとは、何よりも、神の語りかけ、すなわち啓示というものであった。それゆえ、人間の側の思いや把握を超えてはたらきかけてくる「神」と呼ばれる他者の語りかけをどのように受けとめるかということが、基本的な問題となった。「神」は、人間の問いかけに対する解答として持ち出されてきたと言えよう。「解答としての神」ではなく、「問題としての神」というのが、セム的一神教の与えた基本的な問題構図であった。われわれは、このようなセム的一神教に由来する基本的な性格についての洞察を失ってはならない。トマス哲学の可能性と限界の総体がそこに存していると言うことができるからである。

トマスの法論は、神が全宇宙を統宰するための理念である永遠法が、どのような仕方で人間界において具体的に実現していくか、という観点から、トマスの法論は構成されている。 

2014年1月13日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(20)

第8章 徳としての愛:愛における人間の自立性と関係性

第1節 ニーグレンのアガペー理解

キリスト教とギリシャ哲学との緊張関係が最も鮮烈な形で現れている文脈の一つは、イエスの説いた「愛」をいかに解釈するか、という問題である。「愛」という観点から、このような緊張関係を最も典型的な形で取り出したのは、ルター派の神学者であるニーグレンによる『アガペーとエロイーズ』である。彼によると「アガペー」は、新約聖書に顕著な仕方で現われている概念であり、より高次で充実した存在である神が不完全な存在である人間に対してはたらきかける下降的で非利己的で自発的な愛を意味している。それに対して、「エロース」は、ギリシャ哲学、とりわけプラトンの『饗宴』において展開されている、人間が自己にとって価値のあるものをどこまでも追い求めていくという向上的・上昇的な愛であり、対象の価値を認めるがゆえに、それを獲得することを目指す、必要感によって駆り立てられた愛である。そこにおいては、愛する自己が中心であって、愛の対象は自己実現の手段にしかすぎない。そして、ギリシャ哲学を援用してキリスト教神学を構築しようとしたラテン・キリスト教世界における神学的な営みにおいては、本来は相容れないはずの「エロース」概念と「アガペー」概念が、巧妙な仕方で融合し、「カリタス」という上昇的でも下降的でもある両義的な概念が構築され、キリスト教的な「アガペー」概念が歪められた、と彼は主張したのである。

ニーグレンによると、アガペーは、神を主体とする愛であって、「我々が神の道を切り開くのではなく、神が御自身の道を我々の方へ切り開く」のである。その主語は神なのであり、人間を主語として、人間の神またはキリストに対する愛がアガペーという語によって名指しされることはほとんどない。それは、人間は、はたらきの独立した中心ではないのであり、人間が神へと自らを与えるのは、神の愛の反射であり、神の愛によって動機付けられている。それは、自発的でも創造的でもない点において、愛の本質的な特徴をすべて欠いている。それゆえ、人間の神に対する献身は、アガペーではなく、信仰という別の名を与えられる必要がある。

 

第2節 「カリタス的総合」と「幸福論的な問い」

トマスは、神の愛を、神が我々を愛する愛(神からの愛)と、我々が神を愛する愛(神への愛)という双方の意味を含み込むものとして理解している。ニーグレンによると、このような考え方においては、神が人間を愛する動機づけられない無私の愛─アガペーというギリシャ語で表現された下降的な愛─と、人間が神を愛する動機付けられた愛─エロースというギリシャ語で表現される上昇的な愛─という、元来相反する筈の二つの愛がカリタスという一つの概念によって統一的に捉えられている。このような在り方を「カリタス的総合」と名付け、批判している。

こうして、ニーグレンによると、中世の神学においては、神の人間に対するはたらきかけは、人間が神へと上昇していくための手段とみなされている。神から人間への愛は、人間の上昇的な愛すなわちエロースを発動させる手段になってしまっているのである。換言すれば、人間が自己の幸福を追求していく自己中心的な力動性の運動の中に、「神の愛」が位置付けられてしまっているのである。そして、このような幸福論的な問いをキリスト教神学に持ち込むことによってカリタス的総合を成し遂げたのは、アウグスティヌスである。つまり、「善への問い」・「幸福への問い」という古代哲学を共有された地盤のなかにキリスト教を位置づけようとしているアウグスティヌスの問いの提出の仕方を根本的に批判している。すなわち、自らの幸福という善を獲得するにはどうしたらよいかという問いを立て、その答えとして、神という最も魅力的な対象との愛情関係を確立するべきだ、という答えを見出す、という問いの構造自体が、非キリスト教的なものであると指摘しているのである。

それゆえ、ニーグレンの「愛」理解の特徴は、「愛」と「善」を切り離すところにあると言える。「善いもの・魅力的なもの」を愛するのは、真の愛ではなく、「善い」とは言えないもの、価値のないものをそのままに肯定するのが真の愛とされる。それに対して、自分を本当に満たしてくれる「善いもの」をどこまでも追求していく態度は、エロースとして、克服の対象とされている。

 

第3節 トマスのカリタス理解:「徳」としての「愛」

トマスは、「神のカリタス」という言葉を、神が人間を愛する愛(神からの愛)という意味と、人間が神を愛する愛(神への愛)という意味の双方を含み込むものとして理解している。それゆえ、「カリタス」という言葉において、トマスは、人間と紙との相互的な関係を捉えているのであり、それを「友愛」の関係と名付けている。すなわち、人間は、自らに与えられている固有な能力のみで至福を獲得することはできないが、神との協働へと入り込んでいくことを通して、神の至福に分け与ることができる。そして、神の人間に対するはたらきの根拠としてトマスが持ち出してくるのが、新プラトン主義的な原理である。このことは、ギリシャ哲学の影響をできるだけ排除しようとするニーグレンの立場とは対照的である。トマスは、「善の自己拡散性」という新プラトン主義の原理を導入する。

神の側からの下降的なはたらきかけを強調すると、人間固有の自立したはたらきはなくなってしまう。ニーグレンは、人間の主体性を否定することによって初めて神の卓越性が保持されると考えている。これに対してトマスは、人間本性の重要な構成要素である人間の主体性が否定されることは、その人間本性の創造者である神の卓越性自体が否定されてしまうことに他ならない、と主張している。トマスによれば、「人間の意志は愛するはたらきを生ぜしめるものである、という仕方で動かされる」このような人間の意志固有のはたらきの原理として人間に内在し人間を完成させていくものを、「徳」としてのカリタスと名付けている。

「徳(virtus)」とは、人間がその能力・可能性を可能な限り有効に実現し得るまでに高めた状態であり、人間のはたらきを「善く」することによって、最高善に対する人間の自然本性的な欲求を具体化させて実現させていく「力量(virtus)」として捉えられている。それゆえ「カリタス」を人間の「徳」として捉えるということは、「カリタス」を人間の意志の固有なはたらきの原理として捉えることにほかならず、それゆえ、愛のはたらきにおける固有の自立した主体として人間を捉えることを含意している。こうして、神の自己譲与的なはたらきである「カリタス」が、神のはたらきとして人間の意志を一方的に動かすのみのではなく、徳として人間に内在することによって、人間は、自らに固有なはたらきとして、カリタスによる自己譲与的なはたらきを隣人愛の中で遂行していくことができるようになる。「神の似姿」である人間は、自己自身もまた自己譲与的な在り方をする、という仕方で、原像である神の自己譲与的な在り方を模倣していくことができるのである。神的な存在の充満に基づいた「他者への自己分与」という在り方は、神にのみ当てはまるのではなく、このような在り方自体が、縮減された形において、被造物である人間に分かち与えられていく。こうして、人間は、神の自己譲与的なカリタスを受け止めることによって、自らもまた自発的に自己譲与的な存在へと自らを高めていくことができるようになるのである。そして、そのとき、神は、最高善である至福の起源として愛され、自己自身と隣人は、その至福を分かち合うことのできる存在として愛される。このように、まず、神から人間に対してカリタスが自己譲与的な仕方で与えられる。そして、そのカリタスに観応し応答することによって、応答する人間の中に、応答しやすくなるより強い傾向性(習慣)が形成されて来る。それこそが、徳としてのカリタスに他ならない。人間の自立的なはたらきの固有性は否定されず、神や他者との豊かな関係形成のなかで、人間の固有なはたらきがますます輝きを増してくると考えられている。

このように、トマスにおいては、「愛」と「善」との関係が、「善」の自己拡散性・自己譲与性という存在論的な原理によって基礎づけられている。「自存する存在そのもの」である「神の存在の充満」は「善の自己拡散性」という根本原理に基づいて、自己譲与的な愛として溢れ出し、人間を含めた世界全体を存在へともたらすとともに、創造された人間が、自らも「存在の充実」を獲得し、その充実を他者へと分かち与えていくことができるように、人間と不即不離で協働する。そのような場面における人間の自立性は、神のはたらきかけが及ばない「余り」の領域のようなところにあるのではない。むしろ、人間が、自他の「存在の充実」を目指して行為し得るものとして自立的な在り方で存立せしめられているというまさにその点において、「存在の充実」そのものである神の似像としの特質が最大限に見出される。トマスは、「存在の充実」を追い求める人間の自立的な在り方と、創造者であり「自存する存在そのもの」である神の人間へのはたらきかけを、絶妙な仕方で統合し得る観点を提示しているのである。

フローとストック

骨董品という道楽があります。大体が功成り名を遂げたお金に余裕のある人が隠居がてら楽しむようなイメージがあります。最近は鑑定のテレビ番組が放送されたりして、意外とそうでない人もいて、けっこうそういう趣味の人も多いようです。骨董品の収集では騙されて偽物を買わされてしまうということがよくあるようで、そのテレビ番組でも名品と思ったら偽物だったことがよくありました。その番組は偽物と鑑定された人の表情の変化がひとつの売り物になっていて、骨董ということを見る人々の一般的なイメージがそういうところにあるのがよくわかります。ところで、そこで提出された骨董の真贋を判定し、値段をつけているのは骨董を生業としてるプロの人たちです。このプロと鑑定を依頼する人、所謂素人の違いはどこにあるのでしょうか。素人だって、高いお金をはらうのですから、勉強をしているはずですし、それなりに見る目を鍛錬させているはずです。しかし、騙されてしまう。もちろん、プロの人には確立されたメソッドがあり、それは商売道具ですから門外不出になっているのでしょう。しかし、それなら素人だってメソッドには行きつかなくても、ある程度のところに行けてもいいはずです。しかし、そこに大きな隔たりがある。

その両者の隔たりを、ある人がこう説明している。プロは骨董を買うだけでなく売ることで生計を立てている。しかし、素人は買うだけの一方通行なのが違うといいます。それほど大きな違いには思えないかもしれません。プロは骨董を人々に売ることで現金収入を得ているのですから、売るのは当然です。そして、買うのはその仕入れです。だから当たり前のことです。素人の人はコレクションをしているのが普通ですから、骨董を買えば大事に保管します。しかし、それで終わらないのです。ものの価格というのは市場の需要と供給のバランスで決まります。骨董品も例外ではありません。ある骨董商が品物を名品だからと高い値段をつけても買う人がいなければ、その品はその価値がないことになります。骨董の価値は一人では決められないものです。かといって、客観的にこうだと決まっているわけではないのです。その時々の市場で売る人と買う人のいることで初めて成り立つのです。

だから、市場で売買するということは、ある物に対して、自分で鑑定した結果を、市場で検証できることになるのです。それを毎日のように繰り返す、失敗すれば、それが商売上の損となって真剣勝負です。それを繰り返すのがプロというわけです。素人は、買う一方だから、自分の見立てを検証するチャンスがないというわけです。

これは何も骨董だけに限ったことではないのではないか、と思うことがあります。ため込んで停滞すると、フローが止まって死んでしまう。例えば、知識なんかもインプットでため込んでばかりしていると、骨董の素人のコレクションのようになってしまうのではないか。例えば、このブログに考えていることや展覧会の印象などを書いて、アウトプットしているうちに、特に誰かに何か言われることがなくても、自分の限界を知らさせることもあります。思い入れとでも言うのでしょうか、自分はここまで考えてると思っていたのが、いざ、アウトプットして表に出してみると、この程度でしかなかったということが自分で分かります。それは、単に、自分の頭の中で考えというだけではだめで、外に出してみないといけない。そこで距離が生まれ、客観性をもって見ることができます。それは、相手がいるダイアローグになればなおさらです。

おそらく、仕事の面でもベテランになって頭が固くなってしまって、頑迷固陋になってしまうというのは、蓄積した知識や経験がフローに流れず澱んだり、留まったりして死んで行ってしまうからではないか。

現在、自身の状況や自分の中身を考えるとき、袋小路に入ろうとしている自覚があって、見えないでいるという認識があります。それを見えていない。それを見ようとして、フローに身を置けていないのではないか、と思ったりしています。多分、最初に戻りますが、骨董の素人の人は、その状況が見えていない。今の私と似ているように思えます。

2014年1月12日 (日)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(19)

第4節 存在することとはたらきを為すこと:「善の自己拡散性」という観点から

トマスは、「自存する存在そのもの」である神のはたらきの卓越性を解き明かす際に、しばしば、善の自己拡散性という新プラトン主義的な原理に訴えている。「神が諸々の事物を存在にまで産出したのは、諸々の被造物に自らの善性を伝達し、これ(善性)をこれらの被造物を通じて表現するためであった」。ところが、被造物はすべて有限的である限りにおいて、神の善性を表現するには到底不充分なるものである。それゆえ、神は、「多数の多様な被造物を産出したのであるが、それは、神の善性を表現するのに一つ(の被造物)では欠けるところのものが他の被造物によって補われるためであった」のである。そして、他者への自己分与という神的な存在の充満に基づいたこのような在り方は、神にのみ当てはまるのではなく、創造において、このような在り方自体が、縮減された形において、被造物に伝達される。「全ての被造物は神の善性を分有していて、所有している善を他のものへと拡散させる。というのも、自らを他のものへと伝達するということが善の特質に属しているからである。こうして、物体的な能動者もまた自らの類似性を可能な限り他のものへと伝える。それゆえ、何らかの能動者がより多くの神の善性を分有へと可能な限り注ぎ込もうと努める」

存在者が、このようなはたらきを為すのには、二つの理由がある。その一つは、欠如ゆえのはたらきであり、もう一つは、豊かさゆえのはたらきである。すなわち、自らの不完全さを補って少しでも完全な在り方(善)に近づいていくためのはたらきと、自らの完全さや豊かさを他のものに分かち合うためのはたらきである。はたらくものは、形相と現実態性とを有している程度に応じて、はたらきを為すことができるのであり、また、形相と現実態性とを欠いている程度に応じて、はたらく必要があるのであり、それは、形相の十全な開花への傾向性によるのである。

それゆえ、有限的な被造的実体である人間にとってもまた、他者との関係に入り込むのは、まずは、自己のみの力では及ばないことを他者─そして他者の集積としての共同体─によって補ってもらうためである。だが、最終的にはそれにとどまるのではなく、自らの有する存在の豊かさを他者へ伝達し共有するためなのである。我々は、類似性による一致を介して伝達し、伝達によって一致を深めていくことができる。

 

結論 愛におる自己還帰性と自己伝津性

トマスによると、理性的実体としての人間においては、自己の自己自身への関係性が二通りの仕方で成り立っている。一つが実体の次元における同一性であり、このような同一性は、理性的実体である人間においても、他の諸実態においても、同じような構造において成り立っている。もう一つは、理性的実体のみに開かれた在り方である。理性的実体である人間の知性的認識において特徴的なのは、他のものの認識と自己認識とが常に同時進行的な形で成立しているということである。それと同じことが意志による愛のはたらきに関しても成立している。

人間が誰かを愛するとき、まず第一に、その誰かへと向けられた愛が存在する。そして、次に、その愛自体への愛、すなわち、その愛を善とみなして意志的に肯定することが存在する。人が他の誰かを愛するのは、そのような愛によって自己の意志がより完成し、そしてそのことを通して自己自身が何らかの仕方で善くなると判断するからなのである。だが、だからといってそのことは、他の誰かを自己のために利用することを意味しない。というのも、愛する者が「善という観点のもとに」判断しながら自己のために望む善とは、まさに、自己の意志が他者のために他者に向かうという他者志向的な在り方の中で、自己伝達的な在り方をし、全存在の源である神の豊かさの自己伝達的な在り方の「似像」として完成することにほかならないのであり、それは同時に、他者もまたそのような完成へとちかづいていくことを助けることにほかならないからである。

友愛は、人間の完全な在り方にとって必要条件であるわけでも無関係であるのでもなく、完全性の獲得を媒介とした人間の存在論的な豊かさから自ずと帰結するものなのである。互いの「存在の充実」が互いへと分かち与えられるという仕方で、互いの豊かな「存在の充実」が共有されつつ、そのただなかで、それぞれの自己がより優れた自立性─「存在の充実」によって満たされた自己─を再獲得していく。こうして、友愛において、自己と他者は、それぞれ、互いにとって「もう一人の自己」として確立されていく。こうして、友愛において、自己と他者は、それぞれ、互いにとって「もう一人の自己」として確立していく。そして、他者を介してより本来的な自己へと至るこの運動は、自己も他者も影響されないままに残しておくことはない。というのも、愛される者は、はたらきかけを受けることをとおして、はたらきかける愛する者と似たものとなるからであり、そしてまた、愛する者は、他者との関係を介して自己自身へと還帰することによって、自己自身の刻印を他者へと残すのみではなく、他者の刻印を自らへと取り入れるからである。そしてそのことをとおして、自己の同一性は他者の他者性によって影響されるに至る。

人間は、他者へと向かいつつ自己へと戻る円環的な運動のなかにおいてのみ、自己自身を本来的な仕方で確立することができる。人間が「一なるもの」であるためには、他のものとの関係のなかで他のものから異なるものとして自身を確立し、それから再び自身へと戻らなければならない。自己自身から外へと運動せずに静的に自己閉鎖的なままとどまっているかぎり、人間は、自己を他のものから異なる独自の存在者として構成することはできないのである。こうして、自立した理性的実体であり「それ自体で一」であるペルソナの一なる存在論的な核が、「一致」という相互的な関係性を、他のものとの関係性のなかに自らを失うことなしに形成していくことを可能にしているのである。

人格は人格である限り、もともと或る種の一性すなわち人格としてのまとまり(統合性)を有しており、そのような統合性が他者との関係形成をも可能とさせているが、具体的な他者との関係形成を通じて、その人格の一性・統合性自体が、より充実した具体的な内容を持った仕方で「存在の充実」へ向けて完成させられていく。このような仕方で、ペルソナとしての人間において、実体的・自立的な性格と関係的な性格とは、あくまでも実体的・自立的な性格に重心を置きながら統合されているのである。

2014年1月11日 (土)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(18)

第7章 人格の相互関係:友愛における一性の存在論

本章が目的としているのは、トマス哲学を基礎づけている根本的な存在論的枠組みを「友愛の存在論」という観点から明らかにすることを通して、トマス倫理学の基盤となっている人間理解を、ペルソナの自立性と関係性という側面から解明することである。

 

第1節 アリストテレス友愛論への依存と相違

「友愛」に関する考察は、トマス倫理学の一部分を構成しているのみではなく、彼の倫理学・社会哲学全体を基礎づけるような性格をも有している。トマスは、「全ての人間は人間にとって自然本性的に友である」というアリストテレスの洞察を受け継ぎつつ、それを社会構想の出発点としていたからである。

「友愛」成立のためには、二つの条件を満たすことが必要である。まず第一に、友愛は「愛」の一種であるが、友愛という特質を持った愛とは、「好意を伴った愛」である。その「好意を伴った愛」とは、「欲望的な愛と対比されられている。欲望的な愛とは、欲求者が、何らかの事物の善を、他の目的のために手段として利用すべく欲求するような愛のことである。それは、本来、理性と意志を有さない存在者に対して向けられる。これに対して行為を伴った愛は、その固有対象である理性的な存在者をそれ自体として愛する愛なのである。

だが、好意だけでは、友愛が成立するのに十分ではない。好意は一方的であることがしばしばだが、友愛には何らかの相互の愛し返しが必要とされるからである。これが友愛成立のための第二の条件である。そして、このような相互性は、まったく異質な者同士の働きかけ合いといったものではなく、「何らかの分かち合い・交わり・共有の上に基礎を置いている」。

好意は突然生ずることがしばしばある。それに対して友愛は、突然生ずるものではなく、「愛されるものについての何らかの細やかな吟味によって」、そして、「何らかの慣れ親しみから」、生じてくる。慣れ親しみとは、トマスによると、好意を持つ者と持たれる者との間の「一致」である。すなわち、相互の慣れ親しみに基づいて、第三者的・傍観者的な立場からより親密な相互関係へと入り込んでいくことを通して、愛する者愛される者との間に何らかの「一致」が生まれてくる。それが友愛の特質であり、それは好意に「心の一致」を付け加える。すなわち、友愛の愛によって愛する者は愛される者をある意味において自分と一体である、あるいは自分に属している、とみなし、こうして愛される者へと動かされる。このような一致という点において、友愛は、単なる好意と決定的に異なっている。

 

第2節 自己愛と他者愛:一性の存在論による基礎づけ

トマス友愛論はアリストテレスを基礎とているが、それだけではなく新プラトン主義的な存在論源泉としている。すなわち、誰かを愛するということは、その人と一致するということであり、誰かへの愛を深めていくということは、その人との一致を深めていくことである。そして、誰かと一致していくためには、一致していく主体が、その前提として何らかの確固としたまとまり─人格の統合─を有していなければならない。だからこそ、自らが「一であること」を成り立たせている自己愛が、隣人愛・友愛の根源だと考えられているのである。そして、それは、「それ自体で一」であるペルソナがペルソナである限りおいて有している一性に他ならない。

このような自己愛優位の愛の秩序理解は。キリスト教倫理に関してしばしばみられる通念とは相反すると言えよう。というのも、キリスト教倫理は、しばしば、隣人愛優位の思想として捉えられ、しかも、きわめて自己犠牲的で献身的な他者優位の倫理として解釈されることが多いからである。これに対して、「人は神に続いて自分を、他のいかなる人間よりもより愛すべきである」というトマスのはっきりした言明は、或る種の衝撃を与える考え方であるといえるだろう。

 

第3節 自己性と他者性の相関関係

他者との関係において目指されていることが「一」へと近づいていくのであれば、常に確執の可能性を孕んでいる

他者との「一致」を目指すよりは、自己自身の「一であること」の中に安住している方がより適切であるであるように思われる。「一であること」をすでに有している一つ一つの人間は、どうしてわざわざ他者との「一致」などということを目指すのだろうか。そして、そのような他者との「一致」などということを目指すのだろうか。そして、そのような他者との「一致」には、実体的な自己自身との「一であること」に還元されないどのような積極的ないみがあるのだろうか。

トマスは、人間を存在論的に実体として理解する際に、「ペルソナ」という言葉を使用する。ペルソナは「理性的な本性を有する個体的な実体」と定義されるが、その「個体」の規定において、「それ自体のうちにおいて区別を含まない」ということと「他のものから区別されている」という二つの特質を挙げている。このふたつの特質はトマスの存在論にとって、極めて重要な役割を担っている。すなわち、或る存在者が存在するためには、それが何らかの本質を有した「もの」であったり、「一なるもの」であったりするだけでは十分ではない。それは、また、他の諸々のものから「他である」「何ものか」であるのでなければならない。すなわち、それぞれの存在者のうちには他のあらゆる存在者の否定が含まれていて、そのことによって、他のあらゆる存在者の否定が含まれていて、そのことによって、他の存在者に対するそれぞれの存在者の独自性が保たれているのである。このような「或るもの」という性格が「第一のもの」である超範疇的概念のうちに含まれているということは、次のようなことを示唆している。すなわち、それぞれの存在者は、まず絶対的・独立的にそれ自身であって、それからたまたま或る種の部分的な変化やはたらきに基づいて他の諸々の存在者へと関係するのではない。そうではなく、むしろ、それぞれの存在者がそれ自身であるのは、他の諸々のものへと関係し、そしてそれらのものへの関係の中においてそれから自己を区別している限りにおいてなのである。一性を有するそれぞれの存在者は、「或るもの」という規定において、その存在の初めから、自らとは異なる独自の多数な存在者が存在する共通の空間の中に自らが措定されていることを表現しているのである。

そして、存在者が存在者として実体的に存立していることにおいて常にすでに成り立っているこのような関係性に基づいて、はたらきの次元における具体的な関係性の形成が生じてくる。存在とはたらきとをきわめて密接な関係のもとに捉えることは、トマスの存在理解の最大の特徴の一つであり、彼によると、存在者が存在者として存立するそのことから、自ずと、はたらきを為す・活動するということが帰結する。「何らかのものが現実態においてあるというまさにそのことに基づいて、それは活動的である」のである。それゆえ、世界は、孤立した諸々の個体の無機的な集積のようなものなのではなく、いわば、相互作用的な存在者の相互連結的な織物として存在しているのであり、その網の目の中心には、はたらきと自己支配的な仕方で遂行することのできる理性的な実体─神と人間─が存在している。それが、トマスの構想する世界の存在論的な構造である。

2014年1月10日 (金)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(17)

第3節 情念としての愛の特質

passioの意味の三区分において共通的であったのは、外部から何らかのものを受け取ることがpassioと言われる、ということであった。そのことが意味しているのは、人間が「情念」を抱く際には、何らかの主観的な状態が内面的な理由に基づいて発生するということが起きているのみではなく、外部の状況・もの・人との関係がpassioという事態の構成要素・前提条件として同時に生じてもいる、ということである。

具体的には、愛の情念において、能動者は「欲求されうるもの」であり、受動者は「欲求」である。というのも、「欲求されうるものから被る欲求の第一の変化が愛と呼ばれる」からである。この愛の定義において注目すべきことは、愛は、第一義的には、欲求されうるものへと向かう能動的な運動として捉えられているのではなく、むしろ、欲求されうるものから被る受動的な変化・状態として捉えられているということである。そして、欲求されうるものへと向かう能動的な運動は、「愛」と区別されて「欲望」と呼ばれる。そして、この欲望の運動が満たされて静止すると「喜び」が生まれてくるとされている。

愛されるものから愛する者が被る根源的な受動性のことを、トマスは、「刻印」という言い方のみではなく、他にも様々な仕方で呼んでいる。たとえば、「欲求されうるものから被る第一の変化が愛と呼ばれるものであり、それは、欲求されうるものが気に入ることにほかならない」とか、「動物的な欲求のうちには、(自然物の運動と)同様の仕方で、第一に、善による欲求自体の何らかの形相づけが存在する。そしてこれが愛であり、それは愛されるものを愛する者と一致させる」とか言われているのである。

ここで一つの困難に直面する。というのも、人間が何らかの好ましい対照に触発されて「愛」という情念を抱くとき、それは、愛のプロセスの出発点に過ぎないのであって、いまだ愛の対象との間には距離が存在するように思われ、一致というようなことを語ることはできないように思われるからである。それなのに、トマスは、このテキストにおいては、第一段階である愛においてすでに何らかの意味において一致が実現していると語っている。

 

第4節 三種類の「一致」とその相互関係

「一致」には、第一に、愛の原因としての一致があり、第二に、本質的に愛そのものであるところの一致があり、そして第三に、愛の結果としての一致がある。そして、前節で言及した根源的な受動性としての愛は第二のものの中に位置づけられている。それぞれの「一致」の意味を考えてみると、第一の愛の原因をトマスは二つの区分している。「実体的な一致」と「類似の一致」である。すなわち「人間は自己自身とは実体において一であるが、それに対して、他者とは何らかの形相の類似性において一なのである」。「実体的な一致」は「類似の一致」の根拠となっている。それゆえ、自己愛が友愛の根拠だということになる。次に第二のものは、本質的に愛そのものであるところの一致である。トマスによれば「心の適合性」に基づいた一致である。この一致は「友愛の愛」と「欲情の愛」とに分かれ、前者の場合には愛する者は愛される者へと自己自身へのように関わり、後者の場合は、自己自身の有する何らかのものへのように関わる。単に愛の対象へと外向きに関わるのではなく、愛の主体である自己自身への何らかの再帰的な関わり合いが含み込まれているかぎりにおいて、これら両者は、実体的な一致との類似性を持っている。このような愛においては、愛されるものは愛する者の心において、自己自身との実体的な一致と類比的に語ることができるほどまでに内在することが可能なのである。そして、第三のもりは、愛の結果としての一致である。これは、愛が作用因的な仕方で作り出すものである。というのも、愛は、愛されているものが現前することを追求することへと、愛する者を動かすからである。トマスはこのような一致を「実在的な一致」と呼んでいる。

 

結論 受動的な情念から能動的・意志的な活動への転換

本章の目的は、受動的な情念としての愛が人間的行為において果たしている役割の一側面を明らかにし、ペルソナの全体性における情念の意味を浮き彫りにするにあった。そして、前節において、このような愛は、愛されるものと愛する者との原初的な一致に他ならないことが明らかとなった。

例えば愛と対立する情念として憎しみの特質を瞥見してみよう。トマスによれば、何らかのものが「気に入る」または何らかのものに「共鳴する」ことが愛の特質であるのとは対照的に、憎しみの特質は、「相容れなく有害だと把捉されるものへの欲求の何らかの不共鳴」である。ここで、トマスは愛と憎しみを同じ次元で対立するものとしてではなく、愛の憎しみに対する徹底的な先行性を認めている。というのも、何かが或るものにとって相容れないということは、その或るものにとつて適合的なもの(愛されるもの)に対してそれが破壊的であったり障害を与えるものであったりすることに他ならないからである。

こうして、「何らかの愛を前提としない魂の他の情念は存在しない」。というのも、愛以外のすべての情念は、「何ものかへの運動」または「何ものかにおける静止」を含意しているが、それらの運動または静止は、「何らかの親和性または適合性」に基づいて生じてくるのであり、これらは愛の特質に他ならないからである。それゆえ、全ての行為者・能動者は何らかの目的のために行為するのであり、目的は、愛されているところの善なのであるから、すべての行為者は、何らかの愛に基づいてそれぞれの行為を為すのだということが帰結するのである。

このように、情念を抱くということは、完結した自己の領域が外部の何らかのものの影響によって侵犯されることを意味するのであり、その限りにおいて、情念は、一般的に、自他の境界を一時的に曖昧にする。情念は、単なる何らかの内面的な状態にすぎないのではなく、外部の状況・もの・人との関係を、構成要素として含み込んでいるのである。ところが、そのような諸情念の中で、愛という情念は、外部のものから動かされることがそのまま内的な促しとして内在化するという顕著な特徴を持っている。こうして、何らかのものへ受動的に引き寄せられることを愛という情念の中で引き受けることによって、新たな刻印が我々の心へと刻まれ、それを通して我々は、心の中への刻印づけを単なる心の中の出来事にとどまらせることなく実在的に他者や他の事物との関係の中で実現することへと内発的に促され、新たな能動的活動へと意志的に参与していくことが出来るようになるのである。

トマスは、「善い人々」と「悪しき人々」との相違を、何を自己自身のうちにおける主要的なものとみなしているか─「理性的な本性」・「内的な人間」か「感覚的な本性」か─というところに置いている。人間が理性的な本性を有しているということは、情念によって外界の影響を受動的に被るような在り方と矛盾するのではなく両立しているのであり、人間は、自己の既定の境界を揺るがされるような出来事─それによって受動的に情念が引き起こされる─に直面しつつ、自他の境界を新たな形で実現していくことができるのである。そして、そのような能動性を人間が備えている限り、たとえ受動的に被った否定的な情念であっても、それをむしろ新たな自己形成の手がかりとして積極的な形で生かし直していくことができるのである。

その際、情念としての愛の対象は特に限定されていないのであるが、トマスにおいては、特に理性的存在者との関係が重要な意味を持ってくる。他者から切り離された私が私かに切り離された他者を愛するということではなく、他者と出会うことによって私の輪郭が揺るがされるということ、私が誰であるのかということを新たに特定しなければならないという仕方で他者が私の生の中に入り込んでくるということである。

2014年1月 9日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(16)

第6章 根源的な受動性としての愛:人格の全体性における情念の意味

トマスは愛に関して一見相反する二つの方向性を孕んだ論述をしている。というのも、一方では、「愛は愛する者が愛されるものへと向かう自発的運動である」とその能動的性格を強調するかと思えば、他方では「欲求されうるものから被る欲求の第一の変化が愛と呼ばれる」とその受動的性格を強調しているからである。そして、このうちの前者は、「愛」という言葉に関する我々の日常的な理解と比較的ちかいものであると思われるが、後者は、一見、分かりにくい印象を与える。だが、トマスは、我々が日常的な自明なものとして生きていながら対自化して捉えることの少ない心のきわめて基本的な動きを、受動性としての「愛」という観点から、あらためて問題にしていることが分かる。

 

第1節 情念と倫理的な善悪

トマスの人間論には、能動的な自己形成・社会形成の主体として捉えるだけでなく、もう一つの側面である受動的・受容的側面が見出される。

トマス人間論の一つの基本的特徴は、彼が倫理的な善悪を、一つ一つの行為の次元で判断しようするのみではなく、行為を担っている人間の全体的な在り方の次元においても問題にしようとしている、と言うことである。すなわち、トマスは、「善い人々」と「悪しき人々」との相違を、単に一つ一つの行為の個別的な在り方の相違として対比させるのみではなく、その基盤にある人格の全体的な在り方自体の相違としても問題化している。だが、「善い人々」の理性中心的な在り方のどこにどのような仕方で、受動的・受容的な在り方を持った情念というものは位置づけられるのだろうか。トマスによると、「何らかの情念によって影響を受けている人間には、物事はことがらの真実に即してそうであるよりもより大きくまたは小さく見える」のであり、その限りにおいて、情念は、「善く思慮する能力」を妨げる。実際、我々はしばしば、「君の判断は感情的だ」とか、「怒り(という情念)によって理性的な判断を失った」というような表現をしている。しかし、トマスは、結論として、情念を端的に悪と見なすことをしないという姿勢をアリストテレスの言葉を引用しつつ、明示している。「或る人々が徳を何らかの無受動性・無情念性であり静止であると定義しているのは適切ではない。というのも、それらの人々は端的な語り方をしているからであり、むしろ徳は、あるべきでない仕方であるべきでないときにあるような、そうした諸情念からの静止である、付け加えるべきだったのである」。情念からの静止は常に善であるわけではない。たしかに、情念は否定的なはたらきをすることもあるが、常にそうであるわけではなく、あるべき仕方であるべきときにあるような情念もあるのである。トマスは、情念を、倫理的な完成と両立するものと考えているのである。

 

第2節 passioの意味の三区分

トマスにおいて、passioという語は、「情念」という意味で使用されることもあれば「受動」という意味で使用されることもある。いや、むしろ、「情念」という意味と「受動」という意味で使用されることもある。むしろ、「情念」という意味と「受動」という意味が不可分の仕方で結び付けられて使用されていることに彼の情念理解の一つの特徴がある。トマスのpassio理解がある種の錯綜した印象を与えるのは、passioという語が一義的な概念として使われているのではないということにその一因を持っている。

トマスは、passioの意味を三つに区分し、そのそれぞれの意味に応じて魂のうちにそれぞれのpassioがあることを肯定している。まず、passioという名詞に密接に関連したpati(受動する)という動詞の意味を大きく二つに区分している。第一に、本来的な意味において「受動する」と言われるのは、「何ものかが受け入れられて他のものが取り去られる時」である。それに対して、第二に「受動する」と言われるのは、より広義の意味においてであり、それは何も取り去られることがないにしても、あらゆる受容することが「受動する」と言われる場合である。だが、このような場合には、確かに「受動する」と言われるものの、より本来的には、「完成される」と言われるべきである。アリストテレスが「感覚することと知性認識することは一種の受動することである」と言っているのは、このような意味においてであるとトマスは理解している。それゆえ、第一に、このような感覚と知性の受容性ということに即して、魂のうちにはpassioがあるとしなければならない。そしてこのような意味におけるpassioは、「情念」と訳すことは出来ず、「受動」または「受容」と訳すべきである。

それに対して、本来的な意味において「受動する」と言われる場合に関しては、さらに二つに場合分けすることができる。それらは、本来的な意味における受動の規定にある「他のものが取り去られる」と言われる際に、どのようなもの取り去られるのかということに即した場合分けである。すなわち、第一に、「自らにふさわしいもの」が取り去られるときに最も本来的な意味で「受動する」と言われる。たとえば、病気が受け取られて健康が取り去られる時に「受動する」と言われるような場合である。それとは逆に第二に、ふさわしくないものが取り去られるにも「受動する」と言われる。健康を受け取って病気が取り去られる場合である。そして、これら二つに場合分けされる本来的な意味におけるpassioは、身体のうちのみではなく、確かに魂のうちに存在するものであるが、それは或る限定された意味においてでしかない。というのも、魂と身体と複合体が受動する限りにおいて、passioは付帯的な仕方で魂に適合するからである。そして、身体的な変化はより善い方に向かって生じることよりもより悪い方へ向かって生じることもあり、そのうちの後者が最も固有な仕方においてpassioということが魂に適合する仕方なのである。それゆえ、喜びよりも哀しみの方がより本来的な仕方でpassioと言われる。

以上のようにトマスのpassioの意味の三つの場合分けにおいて、「愛」という肯定的な響きをもった情念に最も基本的な役割を振り当て、そのことを存在論的に基礎づけていることである。というのも、「何らかの愛を前提しない魂の他の情念は存在しない」のであり、「何らかの情念から発する全てのはたらきは、第一原因としての愛からもまた発している」とされているからである。

しかし、トマスは、passioの最も本来的な変化を、変化が悪い方に向かって生じる場合において看取しているのであるから、それにもかかわらず愛という肯定的な情念の徹底的な優位性を述べたてることはどのようにして可能になっているのだろうか。

事務屋も企業戦略の最前線に

企業の事業戦略で最初に市場に入り込んだ者が先取りして市場を支配してしまうというものがあります。パイオニアの特権としてもいうのでしょうか。その時に、規格などの標準的な基準を自分たちの有利なように作ってしまって、後から参入してくるライバルは、その標準的な規格に無理してでも合わせないと商売ができない、というものにしてしまえば、市場で圧倒的に強い立場でいることができるというわけです。古い話ですが、むかしむかしのビデオ・テープの規格をめぐって、VHSとベータという二種類の方式が覇権を激しく争ったことは有名です。この後、争いに負けたベータ方式は市場から退いてしまうことになりました。これは、現在では、世界規模でもっと激しく争われていると言われています。ISOと言われるヨーロッパ発の規格もそうですし、グローバル・スタンダードをめぐる争いは、様々な分野で熾烈化していると言ってもいいと思います。

日本の企業も、他人事ではなく、この競争に参加していると思います。技術や品質そしてマーケティング等ではとくに熱心に行動しているのではないかと思います。

その一方で、事務とか管理と言われている業務、例えば経理、法務、人事、総務などといった領域は、そういった動きから取り残されているというか、そういう動きとは無関係でいるように見えます。例えば、会計の世界では、国際会計基準(IFRS)というグローバル・スタンダードを日本の企業会計に導入するしないというところで、経済界が消極的でいるようです。各企業の現場、経理のレベルではIFRSの導入となれば大きな変化が起きることとなって、手間や混乱の発生を避けようとする姿勢が強いようです。そしてまた、新たな基準ということになると、今までの基準が通用しなくなるため、今までよしとしていたことが、そうではなくなる可能性もあるので、リスクを避けるために多くの会社が横並びとなって多数派となることでリスクを小さくしようとして相互に各社の動きをすり合せしようと、その際には突出は避けようと、そのために情報をあつめる、というような動きをしている、というのが一般的です。これは、冒頭に述べたような、動きとまさに正反対と言えます。

でも、この時、よく考えてみれば、国際会計基準(IFRS)の大きな特徴というのは、企業によって事業や市場や戦略が異なっているところを一律の会計では企業の実情が見えてこない、そこで企業が自社の実情に適した会計を個々にやっていけるように企業の裁量範囲を大きくしたものと言えます。それによって、現在の一律の会計基準によって外形上の決算数字が見栄えのするものとなっていても、実際は中身が惨憺たるもので、その会社を決算数字を信用して買収したら大損した、とか株式投資でみてくれの数字に騙されないようになる、というものです。ということは、各企業の会計がリスクを避けるといって他の企業と横並びになって一律の会計に引っ込むという動きは、IFRSの趣旨に反するものと言えないでしょうか。というよりも、この新しい規格を積極的、戦略的に経営に活用するということを考えないのでしょうか。それは、前のところで述べた自社の規格を標準にしてしまって有利な立場を作ってしまうことです。とくに、競争の力関係が劇的に変化するのは、こういう大きな変動の時です。こういう時こそ、攻めに出ることができるはずです。つまりは、他の会社に先んじて、IFRSでの決算にチャレンジして、自社の特徴や強みを最大限に反映させることのできるような基準を作ってしまうのです。それがひとつの基準として先に通用してしまえば、同じ業界にいるライバルの企業はその基準を無視することは出来なくなるはずです。その基準が自社にとって不利な点があるにしても、それが既にある以上は準拠せざるを得なくなります。それは一つの有利な立場を確保できることになるはずです。資金調達やユーザーの評判その他。そういうところで、会計の人間が積極的に企業の戦略を主導できることができるわけです。場合によっては、会計が企業の強みだというケースが現われるかもしれません。そういう可能性のある機会を、むしろそれに反することを経理マンと言われる人たちはやっているように見えます。これは、法務にもいえます。今、国会に会社法改正案が上程されていますが、これをめぐって各企業の法務担当者が情報収集を行っていますが、法改正を戦略的に活用するというのではなく、まるで災害が来るのを避けよう、躱そうとして、法改正の影響を最小限にして現状維持に汲々としているように見えます。それは、例えば、社外取締役の義務化をめぐる動きが新聞でも小さく話題になっていましたが、社外取締役を置かない企業はその「社外取締役置くことが相当でない理由」を事業報告で開示し、株主総会で説明しなければならなくなります。しかし、その理由について、どのような理由であればよいのかは法律には規定してありません。結局は満足な理由などないのです。それならば、自社にとって言いやすいことを理由として他社に先駆けて公表してしまって、他の会社はそれを参考とするように仕向けてしまえば、自社のものがスタンダードになることになります。それで自社の体制を他社を利用してオーソライズしてしまうこともできるわけです。そして、追随する他の会社は、災害をやり過ごそうとして逃げの姿勢の会社というわけで、自社にそぐわないかも知れないけれど、大勢に乗った方がいいと無理をするわけです。

実際、事務という職種の業務はコンピュータが入り込んで来たことによって急速に人員のニーズが減退してきているはずです。たぶん、もう始まっているのですが、事務職が大量に廃棄される時代になってきているのです。その時に事務職が企業の経営戦略の実行の重要部分になっていないと淘汰される時代に入っているのです。会計の計算だけなら、人間ではなくコンピュータの方が効率的で間違いがありません。法務でも法律の条文に適合しているかどうかのチェックならコンピュータのアプリケーションで出来てしまうでしょう。そういう時代に無難に間違いなく、というのは自分の存在価値を掻き消していることになりかねないと思います。

それは、(ようやっと本題に入りました)とくにIRにおいて顕著ではないかと思います。他社と同じことを、担当者自身、そのやっていることの意味を把握しないで、機械的に資料をつくったり、定例的にイベントをこなすことに何の価値があるのか。そうではなくて、そこで戦略的に行動することが、企業にとって事業を引っ張るようなことも可能となりうるはずなのに、と思います。私が、このように述べているのは常識から外れているのでしょうか。ここ最近、何社かのそういう担当者、あるいは企業内でそういう担当者をマネジメントする部門の担当者とそういう話をする機会がありましたが、例外なく怪訝な顔をされてしまいました。今日述べたことは、ひとりよがりなんだろうか。

2014年1月 8日 (水)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(15)

第Ⅲ部 存在充足の運動としての愛

第Ⅱ部においては、「存在充足としての認識活動」という切り口から、人間知性のはたらきに着目した分析を遂行したが、以下、第Ⅲ部と第Ⅳ部においては、「存在充足」を目指した存在論的倫理学という観点から、しばしば対立させて考えられることのある「徳論」(幸福論的なもの)と「法論」(義務論的なもの)とを統合的に捉える視野を提示したい。

トマス倫理学を構成している基本原理の一つがアリストテレスに由来する「徳」の概念であるということは明らかであるが、トマス倫理学には、通常の「徳倫理学」という規定では把握し尽くされない存在論的な豊かさがある。トマス倫理学の中で、アリストテレスに由来する「徳論」においては、人間の完成は、能力的な次元で捉えられている。「賢慮」は「理性」を、「正義」は「意志」を、「節制」は「欲情的欲求能力」を、「勇気」は「怒情的な欲求能力」を完成させるというように、徳は人間の各能力を完成させるものとして捉えられている。「勇気」が困難に立ち向かう力であり、「節制」が自己の欲望をコントロールする力であるように、「徳」は、人間の各能力を充実させる「力」として把握されているのである。だが、人間存在全体の完成は、このような個々の能力の完成から後になって合成されるものとしては捉えない。

トマスは、アリストテレスの引用を多用しながら、アリストテレスとの持続的な対話の中で、アリストテレスの教説の中核部分をその構成要素として含み込むような自らの独自の枠組みを編み出しているのである。トマスは、人権の完成を、アリストテレスに由来する徳論に見られるような能力論的な次元で捉えるのみではなく。より存在論的な次元で人間存在全体の力動的な完成として捉えている。そもそも人間が多様な行為を積み重ねながら自らの完成を目指していくという在り方をしているのは、一にして端的な仕方において「存在の充実」を有している永遠的存在である神とは異なり、人間が未完結な本性を有しているからだとトマスは考える。だからこそ人間は、自らの「存在の充実」を目指しながら行為を時間的に積み重ねていかなければならないような仕方で存在しているのである。そして、そのさい、人間の行為のうちには、「存在の充実」へと導く行為と導かない行為があり、人間存在全体を「存在の充実」へと導く行為とは、それ自体、「存在の充実」を持った行為なのである。このような理解に基づいて、トマスは、「あらゆる行為は、存在に関わる何ものかを有している限りにおいて善性を有していて、人間的な行為になくてはならない存在の充実に関わる何らかのものが欠けているかぎりにおいて、善性を欠落し、悪しきものと言われる」と述べ、個々の行為の分析を人間存在全体の存在論的分析の文脈の中に位置づけながら、人間の存在充足の条件を明らかにするという形で自らの倫理学を展開することを宣言している。

そして、「存在の充実」は、自己のみに関わるのではなく、他者にも関わる。「存在の充実」によって自己内のそして外界との葛藤を統合しえた人間(ペルソナ)は、自らが存在の充実を達成するだけではなく、それを他者へと分かち与えることへと促される。

それゆえ「存在の充実」への動的運動としての人間存在論は、最高の「徳」とされる「愛」の分析において、その極点にすることになる。人間が愛するとき、そこには、大別して二つの理由が存在する。それは、愛の対象を獲得して自らの「存在の充実」をより豊かにするためという理由と、自らがすでに有する「存在の充実」を他者へと分け与え、他者をも「存在の充実」へともたらすためという理由である。

このように、トマスにおいては、「愛」とは、単なる主観的な感情のようなものではなく、存在論的な観点から捉えられている。そして、そこにおいては、自己愛と他者愛、受動的な愛と能動的な愛、「感情」としての愛と「徳」としての愛、「人間が神を愛する愛」と「神が人間を愛する愛」といった、一見相反するような特徴を持った複数の愛が絶妙に統合されうるような観点が提示されている。

2014年1月 7日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(14)

第2節 沈黙の次元への開き

根源的に開かれた理性的本性を有しているとはいえ、人間は神を中心とした実在全体を認識し尽くすことはできない。把握し尽くされない神を、それにも関わらず分節化と綜合の積み重ねによって探求していく営みの最高地点で自覚されるのは、やはり、神の把握し尽くされ難さなのである。それゆえ、トマスは言う、「次のことが神についての人間的認識の究極である、すなわち、我々が神について理解することのすべてを神の本質は超えている、ということを認識している限りにおいて、自分が神について無知であることを知っていることである。」このような徹底的な「無知の知」は、実在に対する恣意的な体系化に基づく饒舌から我々を解放し、「沈黙」の次元を開示する。「神は沈黙によって崇められるというのは、神については何も語られず何も探求されないという意味ではなく、むしろ、神について我々が何を語り何を探求しようとも、我々には神を把握する力量はないということが分かるという意味である」。

そして、トマスは、その最晩年に、実際に、沈黙する。「私がこれまで書いたものはすべてわら屑のように見える」という言葉を残して。我々は、このようなトマス晩年の姿によって当惑させられざるを得ない。今日の我々に残されているトマスのテクストは、彼の知的探求が最終的に到達した洞察を含んではいないのだとしたならば、そしてその最終的に到達した洞察を含んでいないのだとしたならば、そしてその最終的な洞察がそれまでの探求の実りを「藁屑」と化してしまうようなものであるとしたならば、分節化によって構成されている彼のテクストは結局は無価値であるということになってしまうだろうか。そして、この最後の沈黙がそれまでの具体的で分節化された探求に対する単なる非連続的な断絶でないとするならば、我々は、それ以前のトマスの探求の中に、この「沈黙」に相当するものを見つけ出さなければならない。そして、驚くべきことに、彼の知性の結実をすべて「藁屑」と化してしまった「沈黙」に相当するものを見つけ奪なければならない。しかし、驚くべきことに、彼の知性の結実をすべて「藁屑」と化してしまった「沈黙」と連続的だと思われるトマス哲学のキーワードは、何か反知性的なものなのではなく、まさに「知性」に他らないのである。というのも、「知性」とは概念を作り出して複雑な議論を織りなしていくような能力なのではなく、「理性」によるそのような分節化された営みの積み重ねを介して、実在全体を受容していくような直観的な能力なのだからである。

分節化された言葉は沈黙において自らを最終的に成就するのだが、言葉の限界であるところの沈黙は、そのような分節化された言葉を通じてのみ存在する。肯定的言表(肯定神学)と否定的言表(否定神学)を交錯させつつ進んで行ったトマスの探求は、結局は「沈黙」に終わった。だが、だからといってそのような言語行為は決して無駄だったのではない。「語られ得ぬもの」として「神」が指し示されるのも、トマスにおいては、あくまでも、語りうることを語り尽くすことを通してなのである。そうすることにおいて初めて、語ることの背景に常に潜在していた「沈黙」の次元が前景化してきうるのである。

この場合の「沈黙」とは、そもそも、語るべきものを持たないがゆえの空虚な沈黙ではないし、自己自身への自己満足的な閉塞を意味しているのでもない。そうではなく、それはいわば、語ることの一つの様式としての「沈黙」だと言えるだろう。それは、実在全体の把握され難さが把握され難さとしてそのままに示されるような一つの言語行為の遂行なのである。そして、そのような「沈黙の言語行為」とでも名付けられる事態においては、「沈黙」は、トマスの語りの日常語的な内容であるだけでなく、むしろ、「沈黙」がトマスを通して語りかけている、といった主語的な意味を孕んでいるのである。哲学的な問いを発しているトマスは、神を中心とする実在をその可知性の極みまで理解しようとする日々の探求の営みのただ中でその不可知性をより根源的な仕方で自覚し、把握されざる極みにおいて、把握されざる実在全体が自らの探求の無限に遠い最終目的であるのみではなく、むしろ、自らの探求を促し続けてきた根源的な原動力であったということがトマス自身にも思いがけないような仕方で決定的に語り出されたのであり、それこそ「沈黙」の言語行為であったと言える。トマスの著作に含まれている意味は、トマスの著作のうちに閉じ込められているのではなく、「把握することができないもの」を指し示すような方向性を持っている。

 

結論 

それゆえ、我々に求められているのは、実在の汲み尽くし難さに対する注意を常に忘れずに、そして実在を言語的体系に還元しようとする誘惑に陥らずに、実在全体に向かって我々の精神を解放し続けていくことである。そして、トマスのテキストと対面している我々にとって、真に危険なことは、そのテキストの整合的な体系化にのみ専念して、「存在そのもの」である神を中心とする実在との驚異を伴った生き生きとした交わりを失ってしまうことである。

トマスの沈黙は、「驚異」によって始まる彼の哲学的な問いの運動を当初から支えていながらあくまでも背景化されていた沈黙の次元が、分節化された言葉の連鎖を媒介にして獲得された洞察の積み重ねを通して徹底的に前景化されたこと、を表わしているのである。それゆえ、トマスのテキストは、我々に確定された上からの解答を与えているのではなく、「問う」ことへと向けて、すなわち哲学することへと向けて、招き続けている。トマスの沈黙は、問の運動を終わらせるどころか、むしろ、問の運動を支えている次元を我々に開示して、理性による哲学的な問いの運動に生命を与えうるのである。

このような仕方で理解する時、トマスの「お喋り」は、トマスの「お喋り」は、単なる概念的・論理的な思弁としてではなく、神=「自存する存在そのもの」との生き生きとした交わりから生かされそこへ還帰していくものとして理解し直されることができる。そして逆に、「信仰」と言われてるものも、哲学的探求への障害のようなものとしてではなく、理性の営みに真の原動力を与えるものとして受け取りなおされることができる。また、トマスの「沈黙」も、「自存する存在そのもの」である神を中心とした実在全体が、人間の言語で語り尽くすことができないまでに豊かな「存在の充実」を有したものであることを実践的に示す、「存在の充実」の徴としての「沈黙」として理解し直されることができるのである。

2014年1月 6日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(13)

第5章 トマスの沈黙:存在充実の徴としての沈黙

トマスのテキストには、実在全体を認識して言語によって語り尽くそうとする方向性と、実在全体は認識されず言語によって語り尽くすことができないことの徹底的な自覚という方向性の両義的な緊張関係が見出される。人間の認識能力と言語表現能力に対する徹底的な信頼感と、それを超えた実在の豊かさに対する畏敬の念が、妥協なしに統合されている。より具体的に言うと、トマスの主著である『神学大全』は、三つの「部」に分けられ、そのそれぞれの部が百問程度の「問題」に分かたれ、らに、そのそれぞれの「問題」がいくつかの「項」に分けられる、という構造を持っている。この書物においてトマスは、精緻な分節化の積み重ねによって、自らがその生涯を捧げた様々な神学的・哲学的問題に対する最終的な解決を述べつつ、寸分の隙間もなく実在全体を体系化しているかのようにも見える。だが、他方ではトマスは、「神とは何であるかについて我々が無知であることを知っていること、まさにそのことを神が認識することに他ならない」とも述べ、神の人間理性による把握不可能性をも強調している。

本章が意図しているのは、トマスにおける、人間の認識能力と言語表現能力に対する徹底的な信頼感と、それを超えた実在の豊かさに対する畏敬の念の緊張を孕んだ統合の独自性を明らかにすることである。

第1節 人間理性の自己超越的構造

トマスは、他の被造物に対する人間の卓越性を、理性によって開かれて来る「神への直接的な秩序づけ」という観点から、説明している。

無機物や動植物が可感的世界に自足しているのに対して、人間は、理性によって開かれてくる可知的世界とも関わりを持っている。人間は、時間的な可感的世界と永遠的な可知的世界の両側に足を突っ込んでいる両義的な中間者として解釈されている。

一方、トマスの階層的な世界理解においては、可知的世界にいる理性的な被造物は人間のみではなく、天使も存在すると考えられている。人間と天使の相違は身体の有無にある。人間が身体を有しているのは、トマスによれば、「人間に知性は諸々の知性の階層的秩序のうちで最低位にある」がゆえに、可知的世界へと到達するために、可感的世界の個別的な事物との交わりを媒介とする必要があり、そのためにこそ身体が与えられている。人間の知性的魂が身体と結びつくのは、その知性的魂の弱さを補ってその固有な活動をより優れた仕方で完遂するためなのである。

こうした秩序をより明らかにするために、トマスは、「理性」と「知性」という語を、広狭二つの意味で使い分けている。すなわち、広い意味においては、「理性」も「知性」も、「感覚」と対比された知的な能力でより卓越した能力であることを意味している。そして、狭い意味においては、「理性」と「知性」は細かく序列化されて区別されている。トマスは言う、「知性認識するとは、可知的な真理を端的に把握することであるが、理性認識するとは、可知的な真理を認識するために、知性認識された或る一つのことから、もう一つのことへと進んでいくこと」なのである。換言すれば、「理性」とは推論的・過程的な理性のことであり、「知性」とは全体を把握する直観的な理性のことである。このような区別に基づいて、「天使」は「知性的存在者」と呼ばれ、「人間」は「理性的存在者」と呼ばれる。天使は推論的な理性を必要とすることなく、端的かつ直観的な仕方で全体を把握することができる。それに対して、「人間は、一つのことから他のことへと進んでいくことによって、可知的な真理の認識へと到達するがゆえに、理性的存在者と言われている」。それゆえ、「人間の知性は複合し、分割することによって、そしてまた推理することによって認識する」のである。こうした事情に基づいて、人間の知性的能力は、「知性」と「理性」の二重構造を持っているのである。

このように人間は、物事を直観的に把握する「知性的存在者」である「天使」との対比の中で、「理性的存在者」と呼ばれている。だが、その際、「理性的」とは、人間理性にすぐ把握できることに自足してそれ以外のものを拒否するような態度なのではなく、むしろ、分節化された推論の積み重ねを通して何らかの全体的・総合的な理解へと到達しようと試み続ける中間的な在り方を徹底的に引きうけていくような態度を意味している。「無理性的動物」にも「神」にも「驚異」や「問い」や「探求」は存在しない。「理性的」とは、問いの運動によって既定の自己を含めた世界全体を区切り(新たに分節し)、あらたな限界を開示し続けていくことなのである。「理性的」とは、自らの限界を充分に弁えながらもどこまでもあらゆる実在に対して自らを開いていこうとする根源的に開かれた態度を意味している。このような人間の知的能力の秩序が、分節化と綜合というトマスの「問い」の構造の根底には存在しているのである。

ちなみに、人間の知的能力の二重構造は、『神学大全』における探求の構造にも顕著な形で反映している。というのも、トマスは、自らの探求の営みを、様々な部・問題・項へと執拗に分節化し、その最小単位である項においてさえ、異論をいくつかに分節化するとともに、主文においても、キーワードの意味を幾通りにも区分しつつ個別的な問いに対する解決を与えていく。このような分節化の営みは決してそれ自体を自己目的として行われているわけでもなければ、単なる概念の定義を求めているのでもなく、むしろ、時間的な存在者としての人間存在の自己超越的な構造の一つの表現となっている。それは、「複合し分割することによって、そしてまた推理することによって認識する」という人間の知的能力の本質的な構造に基づいて、分節化の営みを介して、「全体の把握」へと到達することを目的としているのである。

2014年1月 5日 (日)

昨年のベストセレクション

このブログを始めてから、新年最初の投稿は昨年のベスト・セレクションにすることにしています。昨年は、生活、健康の面で多事でしたが、それはそれで。学生時代好んだ、ある国の象徴主義の詩人のいう“生きることなど召使どもに任せておけ”でもないですが、まずは昨年読んだ本の中から。

このところ、年齢のことを意識せざるをえないことが結構あって、残された時間などということを考えたりすると、余裕を持って読むというより、今、読めるうちに読めるものは読んでしまおうというのか、急き立てられるような感じで、とくに後半は、その気持ちが強くなっていったように思います。ホントは読書というのは生産性がないのが本質的で、本を読んだといって何の足しにもならないというのが、私の考えるところで、つまりは、本を読むというのは単なる時間の無駄遣い以外の何物でもないものです。しかし、それには余裕があることが必要です。なので、私の大好きな物語は、あまり読むことがありませんでした。例えば、大好きな芥川龍之介の小説、「羅生門」の冒頭の非人が羅生門の朽ちた梯子を上る最初の文章を読むとき、たった数語で構成されたたった一つの文章に語り口に、一体何人もの人間の主観が分裂して入って語られているのか、その神経症ともいえるほどの多重の人格を腑分けしていく楽しさ、そして、その分裂した主観がそれぞれ息苦しいほど文章に意味を肉付けしていくのを追いかけるのは、汲めども尽くせぬ謎。そんなことは、時間と気持ちの余裕がなくてはできないし、何にも得るものなどない。しかし、それを一度でも味わってしまったら、癖になって、治ることはない。

というわけで、数十冊読んだけれど、セレクションとして上げることはない。これは、すべて私の側の問題。

今年、余裕を持てるかどうか。う~ん。結果を求めてしまう誘惑に負けてしまいそう。

一方、このところ、このブログで美術展の印象を書き始めたのが後押しとなって、去年はまめに通いました。今見なかったから見ることのできない、とこれも余裕をなくした故だったと思います。

こんなことでベスト・セレクションはできませんでした。不甲斐ない年の始まりとなりました…

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