無料ブログはココログ

« 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(21) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(23) »

2014年1月16日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(22)

第9章 トマス自然法の基本構造:自然法の第一原理

自然法論においては、善悪の根本的な尺度として、人間の作為によって恣意的に動かされることのない何らかの「自然的・本性的なもの」が存在すると主張される。その際、「自然的なもの」・「本性的なもの」は、「実定的なもの」や「慣習的なもの」との対比の中で捉えられる。慣習的・実定的な善悪の尺度を超えて、人間の「自然本性」や「事物の本性」に根差した善悪の根源的な尺度が認められうると主張されるのである。

だが、現代においては、このような自然法論の有効性に対して、多くの疑問が投げかけられている。法の根本規範を実定法のみに限定するハンス・ケルゼンらの法実証主義との緊張関係の中で、自然法論の影響力は、後退を余儀なくさせられているのである。すなわち、自然法論は、一方で、人間の本性が自然法の源泉であると説くが、このことは、人間の本性が根本的に善きものでなければならないことを意味する。だが、他方、強制機構を備えた実定法が必要になるのは、人間の本性が悪しきものであるからと考えざるを得ない。こうして、自然法を演繹してくる人間本性の善性と実定法を必要ならしめる人間本性の悪性という矛盾が生じてきてしまうのである。そして、ケルゼン自身の見解によると、実定法を必要ならしめる人間本性こそが、真の人間本性である。そして、自然法論者が自然法と称するものを導出する基礎になっている人間本性は、人間の実際のあるがままの本性ではなく、あるべき人間の本性であり、自然法に対応するものとして想定された理想的な人間の本性なのである。自然法論においては、実は、自然的なものが善の尺度とされているのではなく、反対に、予め存在している特定の実定的・慣習的な法的・道徳的諸価値を正当化するのに都合のいい仕方で、自然的なものという概念が事後的に抽象度の高い仕方で密かに構築され、そこから特定の慣習的・実定的な諸価値・諸規範を改めて根拠づけるという、不毛な堂々巡りが犯されているのにすぎない、と彼は批判するのである。

第1節 トマス自然法論の基本構造

トマスによると、自然法とは、「我々がそれに照らして何が善であり、何が悪であるかを判別するところのいわば自然的理性の光」であり、その第一原理は、「善は為すべく、追求すべきであり、悪は避けるべきである」というものである。

第一に、人間のうちには、全ての実体と共通の自然本性に基づく傾向性が内在している。すなわち、どのような実体も、みずからの本性に基づいて、自己の存在の保存を欲求する。そして、このような傾向性に基づいて、自己の存在の保存を欲求する。そして、このような傾向性に基づいて、人間の生命がそれによって保持され、生命保持に対立する事柄が阻止されるところの事柄が、自然法に属することになる。第二に、人間のうちには、他の動物と共通の自然本性に基づいて、或る種のより特殊な事柄への傾向性が内在している。そして、このことに基づいて、雌雄の性行、子供の教育、及びこれらに類似した事柄のように自然がすべての動物に教えたところのものが、自然法に属する。第三に、人間のうちには、人間自身に固有の理性的な本性に基づいた傾向性が内在している。すなわち、人間は、神についての真理を認識することや、社会のうちで生きることへの傾向性を有している。そして、このことに基づいて、人間は無知を避けるべきであるとか、親しく交わってゆくべき他の人々に危害を与えないなど、こういった傾向性に関わる事柄が、自然法に属することなる。

以上のトマスの論述には、二つのレベルの話が合わせ含まれている。第一に、「善は為すべく、追求すべきであり、悪は避けるべきである」という第一原理の自明性というレベルの話がある。人間は、自らにとって魅力的な善いもの・価値のあるものを獲得することを通じて自らの可能性を現実化していくことによって「存在の充実」を獲得して幸福になることを目指す、という根源的な傾向性を有しているのであり、これは、人間の意志のはたらきによって自由に否定してしまうことのできない根源的な所与である。自然本性的傾向性というのは、人間に与えられた根本的条件のことであって、人間の個別的・具体的な意志の発動がそのような根本的条件のことなのであって、人間の個別的・具体的な意志の発動がそのような根本的条件に全く反しているということはありえない。

自然法論においては、善悪の根本的な尺度として、人間の作為によって恣意的に動かされることない何らかの「自然的・本性的なもの」が存在すると主張されるのであるが、自然法の本質をこのような「非恣意性」ということに求める時、その「非恣意性」とは、第一義的には、外的・社会的な秩序に関わる「非恣意性」なのではない。むしろ、何よりも非恣意的なもの、我々の意志によって勝手に変更することができないもの、それは、我々自身の本性であり、その本性に内在している自己実現原理なのである。だが、このような根源的な原理の指摘は内容空疎でトートロジカルな形式的命題である。そこで第二のレベルとして、「自己実現の具体的要素」を自然法の具体的な内容として提示しているのである。

 

第2節 基本善の曖昧性の積極的意味:善き生の大まかな輪郭の描出

自然法論が直面せざるを得ない次のようなジレンマがある。すなわち、「善は為すべく、追求すべきであり、悪は避けるべきである」というような形式的で普遍的な第一原理のレベルにとどまって、より具体的・内容的な規範について語ろうとしなければ、自然法論は無内容で空虚なものになってしまいがちであるが、逆に、具体的・内容的な規範について語りすぎると、その普遍性を喪失してしまうというジレンマがある。だが、一見ジレンマとも思われる自然論法のこのような特質の中にこそ、実は、同時に自然法論の長所が見出される。というのも、もともと、自然法論の利点は、善の具体的な内実を細かく記述できる余地を充分に残すような仕方で、善き生の大まかな輪郭を柔軟に描出するところにこそ見出されるからである。

マーサ・ヌスバウムは、人間的善に関するこのような理解を、「濃密であいまいな善の概念」と名付けつつ、次のように述べている。「アリストテレス主義者が用いる善の概念は、ロールズの『希薄な理論』…のような『希薄な』ものではなく、『濃密な』─すなわち人間の生の全領域を横断する人間的な諸目的を取り扱う─ものである。しかしながら、この概念は、曖昧なものであり、しかもいい意味においてそうなのである。つまり、それは、多くの具体的な特殊化・明確化の余地を残している。アリストテレスが言っているように、善き生の『大まかな輪郭』を描き出しているのである」。このようなヌスバウムによって提示されている「濃密で曖昧な善の概念」は、内容的・実質的な「人間的善」を提示しつつ、それを、経験による再検討や歴史的な発展や異文化との出会いのなかで修正可能性へと開かれたものとすることに成功しているのである。

トマス的自然法論における人間的善は、固定的な人間本性から演繹されたようなものではなく、人類の諸文化の様々な伝統のなかで、追求される価値あるものとして共有されていることが経験的に見出された諸価値の最大公約数的な集合なのである。このような自然法論においては、たしかに、基本善・基本的諸価値が演繹的な仕方で導出される根拠として固定的な「自然本性」が持ち出されてることはないが、「自然本性」の役割が無化されているわけではなく、「自然本性」は、歴史的経験のなかで試行錯誤的に形成されていく諸価値の収斂していく結節点として機能しているからである。「人間の自然本性は可変的である」というトマスの言葉にもあるように、人間は単純に人間で「ある」のではなく、人間に「なる」ことにおいて初めて本来的な意味で人間で「ある」ことができるようなダイナミックな存在なのであり、そのような動的な構造を視野に入れず最初から固定的な人間の本性を想定することはできないのである。

« 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(21) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(23) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(22):

« 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(21) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(23) »