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2014年1月10日 (金)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(17)

第3節 情念としての愛の特質

passioの意味の三区分において共通的であったのは、外部から何らかのものを受け取ることがpassioと言われる、ということであった。そのことが意味しているのは、人間が「情念」を抱く際には、何らかの主観的な状態が内面的な理由に基づいて発生するということが起きているのみではなく、外部の状況・もの・人との関係がpassioという事態の構成要素・前提条件として同時に生じてもいる、ということである。

具体的には、愛の情念において、能動者は「欲求されうるもの」であり、受動者は「欲求」である。というのも、「欲求されうるものから被る欲求の第一の変化が愛と呼ばれる」からである。この愛の定義において注目すべきことは、愛は、第一義的には、欲求されうるものへと向かう能動的な運動として捉えられているのではなく、むしろ、欲求されうるものから被る受動的な変化・状態として捉えられているということである。そして、欲求されうるものへと向かう能動的な運動は、「愛」と区別されて「欲望」と呼ばれる。そして、この欲望の運動が満たされて静止すると「喜び」が生まれてくるとされている。

愛されるものから愛する者が被る根源的な受動性のことを、トマスは、「刻印」という言い方のみではなく、他にも様々な仕方で呼んでいる。たとえば、「欲求されうるものから被る第一の変化が愛と呼ばれるものであり、それは、欲求されうるものが気に入ることにほかならない」とか、「動物的な欲求のうちには、(自然物の運動と)同様の仕方で、第一に、善による欲求自体の何らかの形相づけが存在する。そしてこれが愛であり、それは愛されるものを愛する者と一致させる」とか言われているのである。

ここで一つの困難に直面する。というのも、人間が何らかの好ましい対照に触発されて「愛」という情念を抱くとき、それは、愛のプロセスの出発点に過ぎないのであって、いまだ愛の対象との間には距離が存在するように思われ、一致というようなことを語ることはできないように思われるからである。それなのに、トマスは、このテキストにおいては、第一段階である愛においてすでに何らかの意味において一致が実現していると語っている。

 

第4節 三種類の「一致」とその相互関係

「一致」には、第一に、愛の原因としての一致があり、第二に、本質的に愛そのものであるところの一致があり、そして第三に、愛の結果としての一致がある。そして、前節で言及した根源的な受動性としての愛は第二のものの中に位置づけられている。それぞれの「一致」の意味を考えてみると、第一の愛の原因をトマスは二つの区分している。「実体的な一致」と「類似の一致」である。すなわち「人間は自己自身とは実体において一であるが、それに対して、他者とは何らかの形相の類似性において一なのである」。「実体的な一致」は「類似の一致」の根拠となっている。それゆえ、自己愛が友愛の根拠だということになる。次に第二のものは、本質的に愛そのものであるところの一致である。トマスによれば「心の適合性」に基づいた一致である。この一致は「友愛の愛」と「欲情の愛」とに分かれ、前者の場合には愛する者は愛される者へと自己自身へのように関わり、後者の場合は、自己自身の有する何らかのものへのように関わる。単に愛の対象へと外向きに関わるのではなく、愛の主体である自己自身への何らかの再帰的な関わり合いが含み込まれているかぎりにおいて、これら両者は、実体的な一致との類似性を持っている。このような愛においては、愛されるものは愛する者の心において、自己自身との実体的な一致と類比的に語ることができるほどまでに内在することが可能なのである。そして、第三のもりは、愛の結果としての一致である。これは、愛が作用因的な仕方で作り出すものである。というのも、愛は、愛されているものが現前することを追求することへと、愛する者を動かすからである。トマスはこのような一致を「実在的な一致」と呼んでいる。

 

結論 受動的な情念から能動的・意志的な活動への転換

本章の目的は、受動的な情念としての愛が人間的行為において果たしている役割の一側面を明らかにし、ペルソナの全体性における情念の意味を浮き彫りにするにあった。そして、前節において、このような愛は、愛されるものと愛する者との原初的な一致に他ならないことが明らかとなった。

例えば愛と対立する情念として憎しみの特質を瞥見してみよう。トマスによれば、何らかのものが「気に入る」または何らかのものに「共鳴する」ことが愛の特質であるのとは対照的に、憎しみの特質は、「相容れなく有害だと把捉されるものへの欲求の何らかの不共鳴」である。ここで、トマスは愛と憎しみを同じ次元で対立するものとしてではなく、愛の憎しみに対する徹底的な先行性を認めている。というのも、何かが或るものにとって相容れないということは、その或るものにとつて適合的なもの(愛されるもの)に対してそれが破壊的であったり障害を与えるものであったりすることに他ならないからである。

こうして、「何らかの愛を前提としない魂の他の情念は存在しない」。というのも、愛以外のすべての情念は、「何ものかへの運動」または「何ものかにおける静止」を含意しているが、それらの運動または静止は、「何らかの親和性または適合性」に基づいて生じてくるのであり、これらは愛の特質に他ならないからである。それゆえ、全ての行為者・能動者は何らかの目的のために行為するのであり、目的は、愛されているところの善なのであるから、すべての行為者は、何らかの愛に基づいてそれぞれの行為を為すのだということが帰結するのである。

このように、情念を抱くということは、完結した自己の領域が外部の何らかのものの影響によって侵犯されることを意味するのであり、その限りにおいて、情念は、一般的に、自他の境界を一時的に曖昧にする。情念は、単なる何らかの内面的な状態にすぎないのではなく、外部の状況・もの・人との関係を、構成要素として含み込んでいるのである。ところが、そのような諸情念の中で、愛という情念は、外部のものから動かされることがそのまま内的な促しとして内在化するという顕著な特徴を持っている。こうして、何らかのものへ受動的に引き寄せられることを愛という情念の中で引き受けることによって、新たな刻印が我々の心へと刻まれ、それを通して我々は、心の中への刻印づけを単なる心の中の出来事にとどまらせることなく実在的に他者や他の事物との関係の中で実現することへと内発的に促され、新たな能動的活動へと意志的に参与していくことが出来るようになるのである。

トマスは、「善い人々」と「悪しき人々」との相違を、何を自己自身のうちにおける主要的なものとみなしているか─「理性的な本性」・「内的な人間」か「感覚的な本性」か─というところに置いている。人間が理性的な本性を有しているということは、情念によって外界の影響を受動的に被るような在り方と矛盾するのではなく両立しているのであり、人間は、自己の既定の境界を揺るがされるような出来事─それによって受動的に情念が引き起こされる─に直面しつつ、自他の境界を新たな形で実現していくことができるのである。そして、そのような能動性を人間が備えている限り、たとえ受動的に被った否定的な情念であっても、それをむしろ新たな自己形成の手がかりとして積極的な形で生かし直していくことができるのである。

その際、情念としての愛の対象は特に限定されていないのであるが、トマスにおいては、特に理性的存在者との関係が重要な意味を持ってくる。他者から切り離された私が私かに切り離された他者を愛するということではなく、他者と出会うことによって私の輪郭が揺るがされるということ、私が誰であるのかということを新たに特定しなければならないという仕方で他者が私の生の中に入り込んでくるということである。

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