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2014年1月22日 (水)

江戸の狩野派─優美への革新(2)~Ⅰ章 探幽の革新─優美・瀟洒なる絵画

Ed7ken1 最初の展示室で、作品の前に椅子が配されて大きく展示されていたのが、『竹林七賢・香山九老図』という大きな6曲1双の屏風でした。この作品を観てしまったがゆえに、ちょうど時間が空いたから寄って見ようかなどと思っていた私にとって、背筋を伸ばし、襟を正され、ただ者ではないと目を見開かさせられたのでした。

その一番大きな点は、線がうるさくないということです。当たり前のように感じられると思います。西洋絵画では、線は彩色されると隠れてしまいます。また、西洋絵画では、線で輪郭を描いて二次元の平面に変異させるというのではなくて、物体の面を置き換えるとか、三次元の奥行をもった立体を、そう見えるように平面に写すというやり方をすると思います。これに対して、私の見てきた日本画は横山大観のような近代日本画にしろ、今回みた狩野派や谷文晁にしろ(ここでは、これらを総称してあえて「日本画」とさせていただきます)、三次元の物体も一方向から見れば平面であって、その平面を面として捉えれば、その面は線で囲われているので、その囲っている線を描くことで物体を二次元の画面に置き換える。描かれた物体は奥行は直接に描かれることなく、線で囲われた平面として描かれる。そのため、描かれた線を消すということは出来なくなります。輪郭線が絵の中心な要素となっているということです。

Ed7ken2 だから、人物を描くような場合でも、西洋絵画の場合では、立体である人物を作品画面に立体を想像させるような面として置かれて、人物の背景は人物のいる空間の人物の奥として異なった面として描かれ、人物の面と背景の面はそれぞれ別物として、人物と背景を描かれ、作品を観る方も、それぞれを区別して観ることになります。ところが、日本画の場合は人物の輪郭線を引くことで、背景と人物を区別することことなります。線は、人物の形状を決める輪郭であると同時に、人物と背景を区別する境界でもあるわけです。線は、そういう重大な機能を持っています。それと同時に、描かれた人物の画像の構成要素として人物の一部でもあるわけです。だから、線は作品画面の中でその重要な機能を担わなければならないのと同時に、人物の顔の一部だったりするわけです。何か、屁理屈なような、小難しげな説明が長くなりました。そうです、そういう線は、だから、描かれた人物よりも目立って前面にでてはいけないわけです。線があると感じさせないで、自然と見る者が人物が描かれていると見るというのが、理想であるはずです。いうならば、線は存在していなければならないけれど、存在しているのを意識されてしまってはいけないのです。

横山大観や竹内栖鳳といった近代日本画の作品を見た私の率直な感想は、とくに、人物において、その線が存在を意識させてしまうのです。それは、私にはうるさく感じられてしまうのです。例えば、竹内の『絵になる最初』という有名な作品。輪郭の線が存在を主張しすぎてしまっていて、顔の部分が塗り絵になってしまっています。それで、人物が生命をもった人間になっていない。かといって記号化されたアイコンのようなものとして見るには、写生に則ったような輪郭で描かれているため、置き換えることができない。中途半端にリアルなのです。そしてまた、輪郭線は、輪郭線としてしか機能していないので無機的な感じがして、人物の生命感を失わせるようなことになってしまっています。横山の作品の場合もそうで、描かれた人物はリアルでもない、記号化された画面上の機能を担って見る者に想像を働かせるようなものでもない、宙ぶらりんで、何の意味も感じられないものになっているように感じられるのでした。

ところが、この『竹林七賢・香山九老図』では、その線がうるさく感じられないのです。人物そのものの描かれ方は、横山や竹内に比べても、類型的な形をしているのは明らかです。それだけで、解説にあった粉本主義と言いたくなります。しかし、横山や竹内の描く人物と違って自然で画面にハマっているのです。その大きな理由として、線がうるさくない。人物の顔の輪郭を描く線が、存在を感じさせないのです。その一つの理由は、使われている線のバリエィションとその変化です。参考として示した竹内の作品では顔の輪郭線はペンで引かれたような一様の線ですが、こちらの作品では、太さ、濃さが様々です。そして、線自体も途中で変化しています。それが顔の輪郭にアクセントを与えて、顔の一部になっているかのようです。竹内の作品では、線が作品の機能であるとして、できるだけ抽象化させて、存在を消そうとするかのように無機的にしているにもかかわらず、人物の顔と対立してしまって、うるさく感じられてしまっているのです。これに対して、この作品では、線を消そうとするとは反対に、線を生かすことによって人物の顔に表情や、動きを与えて、人物と切り離せないようになって、結果的にうるささを感じさせないようになっているのです。

そして、竹林の七賢という人物たちが竹林の中に埋もれるようにいる、その竹林という背景の描き方では、そのような線の使い方が一層の効果をあげているように見えます。それは、この大きな画面の屏風で、竹林に人物が描かれているということは、それとして線の織りなす光景として、線の絡みや様々な線を見ているだけでも、観る人を飽きさせないものとなっていました。私にとっては、線というものが、これだけ面白いものと、気づかせてくれた作品でした。そして、狩野探幽の描いたものは、この線を切り口に見ていくと、私が即品に実際に触れることなく抱いていたイメージを覆していったのでした。

Edokokin_2 『叭々鳥・小禽図屏風』という6曲1双の屏風。ここでは、線のバイエィションは線という枠を越えて、面に拡がってしまっているかのようです。木の幹は一本の線というよりも、面として描かれているかのようです。ここでの濃淡や墨のかすれを含みながら一気に筆を進めて線を引いてしまうのは、かなり大胆なことではないかと思います。その一気呵成な勢いは、描かれた樹木とは別に、その勢いを感じます。先日見た、竹内栖鳳の『獅子図』で大胆な線の近い方を感じましたが、この作品は、それ以上です。木々の葉は筆遣いで一気に面のようにさっと引かれているようです。だから、この作品では、線がまるで存在しないかのようなのです。数羽いる鳥たちにしても、輪郭を引かず、数本の線で羽根や主要部分をさっと引いて、まるで一つの面のようになっています。これは、前で屁理屈をこねた西洋画の物体の捉え方に、むしろ近代日本画などよりも距離が近いのではないか。この展示コーナーで飾られているのは水墨画が中心なせいかもしれませんが、ここで私は、狩野探幽の線に魅了されました。

さらに進めます。これは、言葉先行で考えを弄ぶことのようになりそうですが、多少の脱線と思って捉えていただきたいと思います。様々な線の、それこそ交響楽とも言えるような世界が展開されているのが、狩野探幽の作品世界と、これまで語ってきました。その線は、時には線という範囲を越えて面に拡がるなど逸脱を辞さないものでした。それなら、逆の方向、つまり、線が縮小していって、つきつまるところ線の消失した何もないところ、つまり余白というのも線の一つの発展形として捉えられないか、ということです。この『叭々鳥・小禽図屏風』を同時に展示されている、前の時代の狩野元信の作品と伝えられる『花鳥図屏風』と比べてみると、同じ鳥と樹木の風景でありながら、狩野探幽の作品が、元信の作品の比べると部分だけをピックアップして、あとは余白にしてしまっているのがよく分ります。それによって画面が軽妙でスッキリとなっていると言えるかもしれません。解説では、狩野探幽の一世代前の長谷川等伯や海北友松等の余白を大きく取った作品が、画面を単純化することによって誇張をすすめ、余白と描かれた部分の対比によって緊迫感を高めたり、モチーフの象徴的表現を可能にしたということが紹介されています。これに対して狩野探幽の場合には、余白と描かれた部分を対立的にあつかうのではなく、余白と描かれた部分が続いているようになっていて、余白自体が絵画表現の一つの要素となっていると説明されています。つまり、線のひとつのバリエィションとなって、余白の部分が何かを観ることができる。作品を観る者は余白に想像力を働かせるようにも作品画面が構成されている、というように考えられるのです。それは、空気感だったり、作品画面の風景画が移ろう際のブリッジだったり、無限の広がりを想像させたりといった具合です。それが作品画面に豊かさを与えて、軽妙でスッキリしていながら、薄浅に終わらない奥行を与えているわけです。

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