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2014年1月12日 (日)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(19)

第4節 存在することとはたらきを為すこと:「善の自己拡散性」という観点から

トマスは、「自存する存在そのもの」である神のはたらきの卓越性を解き明かす際に、しばしば、善の自己拡散性という新プラトン主義的な原理に訴えている。「神が諸々の事物を存在にまで産出したのは、諸々の被造物に自らの善性を伝達し、これ(善性)をこれらの被造物を通じて表現するためであった」。ところが、被造物はすべて有限的である限りにおいて、神の善性を表現するには到底不充分なるものである。それゆえ、神は、「多数の多様な被造物を産出したのであるが、それは、神の善性を表現するのに一つ(の被造物)では欠けるところのものが他の被造物によって補われるためであった」のである。そして、他者への自己分与という神的な存在の充満に基づいたこのような在り方は、神にのみ当てはまるのではなく、創造において、このような在り方自体が、縮減された形において、被造物に伝達される。「全ての被造物は神の善性を分有していて、所有している善を他のものへと拡散させる。というのも、自らを他のものへと伝達するということが善の特質に属しているからである。こうして、物体的な能動者もまた自らの類似性を可能な限り他のものへと伝える。それゆえ、何らかの能動者がより多くの神の善性を分有へと可能な限り注ぎ込もうと努める」

存在者が、このようなはたらきを為すのには、二つの理由がある。その一つは、欠如ゆえのはたらきであり、もう一つは、豊かさゆえのはたらきである。すなわち、自らの不完全さを補って少しでも完全な在り方(善)に近づいていくためのはたらきと、自らの完全さや豊かさを他のものに分かち合うためのはたらきである。はたらくものは、形相と現実態性とを有している程度に応じて、はたらきを為すことができるのであり、また、形相と現実態性とを欠いている程度に応じて、はたらく必要があるのであり、それは、形相の十全な開花への傾向性によるのである。

それゆえ、有限的な被造的実体である人間にとってもまた、他者との関係に入り込むのは、まずは、自己のみの力では及ばないことを他者─そして他者の集積としての共同体─によって補ってもらうためである。だが、最終的にはそれにとどまるのではなく、自らの有する存在の豊かさを他者へ伝達し共有するためなのである。我々は、類似性による一致を介して伝達し、伝達によって一致を深めていくことができる。

 

結論 愛におる自己還帰性と自己伝津性

トマスによると、理性的実体としての人間においては、自己の自己自身への関係性が二通りの仕方で成り立っている。一つが実体の次元における同一性であり、このような同一性は、理性的実体である人間においても、他の諸実態においても、同じような構造において成り立っている。もう一つは、理性的実体のみに開かれた在り方である。理性的実体である人間の知性的認識において特徴的なのは、他のものの認識と自己認識とが常に同時進行的な形で成立しているということである。それと同じことが意志による愛のはたらきに関しても成立している。

人間が誰かを愛するとき、まず第一に、その誰かへと向けられた愛が存在する。そして、次に、その愛自体への愛、すなわち、その愛を善とみなして意志的に肯定することが存在する。人が他の誰かを愛するのは、そのような愛によって自己の意志がより完成し、そしてそのことを通して自己自身が何らかの仕方で善くなると判断するからなのである。だが、だからといってそのことは、他の誰かを自己のために利用することを意味しない。というのも、愛する者が「善という観点のもとに」判断しながら自己のために望む善とは、まさに、自己の意志が他者のために他者に向かうという他者志向的な在り方の中で、自己伝達的な在り方をし、全存在の源である神の豊かさの自己伝達的な在り方の「似像」として完成することにほかならないのであり、それは同時に、他者もまたそのような完成へとちかづいていくことを助けることにほかならないからである。

友愛は、人間の完全な在り方にとって必要条件であるわけでも無関係であるのでもなく、完全性の獲得を媒介とした人間の存在論的な豊かさから自ずと帰結するものなのである。互いの「存在の充実」が互いへと分かち与えられるという仕方で、互いの豊かな「存在の充実」が共有されつつ、そのただなかで、それぞれの自己がより優れた自立性─「存在の充実」によって満たされた自己─を再獲得していく。こうして、友愛において、自己と他者は、それぞれ、互いにとって「もう一人の自己」として確立されていく。こうして、友愛において、自己と他者は、それぞれ、互いにとって「もう一人の自己」として確立していく。そして、他者を介してより本来的な自己へと至るこの運動は、自己も他者も影響されないままに残しておくことはない。というのも、愛される者は、はたらきかけを受けることをとおして、はたらきかける愛する者と似たものとなるからであり、そしてまた、愛する者は、他者との関係を介して自己自身へと還帰することによって、自己自身の刻印を他者へと残すのみではなく、他者の刻印を自らへと取り入れるからである。そしてそのことをとおして、自己の同一性は他者の他者性によって影響されるに至る。

人間は、他者へと向かいつつ自己へと戻る円環的な運動のなかにおいてのみ、自己自身を本来的な仕方で確立することができる。人間が「一なるもの」であるためには、他のものとの関係のなかで他のものから異なるものとして自身を確立し、それから再び自身へと戻らなければならない。自己自身から外へと運動せずに静的に自己閉鎖的なままとどまっているかぎり、人間は、自己を他のものから異なる独自の存在者として構成することはできないのである。こうして、自立した理性的実体であり「それ自体で一」であるペルソナの一なる存在論的な核が、「一致」という相互的な関係性を、他のものとの関係性のなかに自らを失うことなしに形成していくことを可能にしているのである。

人格は人格である限り、もともと或る種の一性すなわち人格としてのまとまり(統合性)を有しており、そのような統合性が他者との関係形成をも可能とさせているが、具体的な他者との関係形成を通じて、その人格の一性・統合性自体が、より充実した具体的な内容を持った仕方で「存在の充実」へ向けて完成させられていく。このような仕方で、ペルソナとしての人間において、実体的・自立的な性格と関係的な性格とは、あくまでも実体的・自立的な性格に重心を置きながら統合されているのである。

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