無料ブログはココログ

« 昨年のベストセレクション | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(14) »

2014年1月 6日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(13)

第5章 トマスの沈黙:存在充実の徴としての沈黙

トマスのテキストには、実在全体を認識して言語によって語り尽くそうとする方向性と、実在全体は認識されず言語によって語り尽くすことができないことの徹底的な自覚という方向性の両義的な緊張関係が見出される。人間の認識能力と言語表現能力に対する徹底的な信頼感と、それを超えた実在の豊かさに対する畏敬の念が、妥協なしに統合されている。より具体的に言うと、トマスの主著である『神学大全』は、三つの「部」に分けられ、そのそれぞれの部が百問程度の「問題」に分かたれ、らに、そのそれぞれの「問題」がいくつかの「項」に分けられる、という構造を持っている。この書物においてトマスは、精緻な分節化の積み重ねによって、自らがその生涯を捧げた様々な神学的・哲学的問題に対する最終的な解決を述べつつ、寸分の隙間もなく実在全体を体系化しているかのようにも見える。だが、他方ではトマスは、「神とは何であるかについて我々が無知であることを知っていること、まさにそのことを神が認識することに他ならない」とも述べ、神の人間理性による把握不可能性をも強調している。

本章が意図しているのは、トマスにおける、人間の認識能力と言語表現能力に対する徹底的な信頼感と、それを超えた実在の豊かさに対する畏敬の念の緊張を孕んだ統合の独自性を明らかにすることである。

第1節 人間理性の自己超越的構造

トマスは、他の被造物に対する人間の卓越性を、理性によって開かれて来る「神への直接的な秩序づけ」という観点から、説明している。

無機物や動植物が可感的世界に自足しているのに対して、人間は、理性によって開かれてくる可知的世界とも関わりを持っている。人間は、時間的な可感的世界と永遠的な可知的世界の両側に足を突っ込んでいる両義的な中間者として解釈されている。

一方、トマスの階層的な世界理解においては、可知的世界にいる理性的な被造物は人間のみではなく、天使も存在すると考えられている。人間と天使の相違は身体の有無にある。人間が身体を有しているのは、トマスによれば、「人間に知性は諸々の知性の階層的秩序のうちで最低位にある」がゆえに、可知的世界へと到達するために、可感的世界の個別的な事物との交わりを媒介とする必要があり、そのためにこそ身体が与えられている。人間の知性的魂が身体と結びつくのは、その知性的魂の弱さを補ってその固有な活動をより優れた仕方で完遂するためなのである。

こうした秩序をより明らかにするために、トマスは、「理性」と「知性」という語を、広狭二つの意味で使い分けている。すなわち、広い意味においては、「理性」も「知性」も、「感覚」と対比された知的な能力でより卓越した能力であることを意味している。そして、狭い意味においては、「理性」と「知性」は細かく序列化されて区別されている。トマスは言う、「知性認識するとは、可知的な真理を端的に把握することであるが、理性認識するとは、可知的な真理を認識するために、知性認識された或る一つのことから、もう一つのことへと進んでいくこと」なのである。換言すれば、「理性」とは推論的・過程的な理性のことであり、「知性」とは全体を把握する直観的な理性のことである。このような区別に基づいて、「天使」は「知性的存在者」と呼ばれ、「人間」は「理性的存在者」と呼ばれる。天使は推論的な理性を必要とすることなく、端的かつ直観的な仕方で全体を把握することができる。それに対して、「人間は、一つのことから他のことへと進んでいくことによって、可知的な真理の認識へと到達するがゆえに、理性的存在者と言われている」。それゆえ、「人間の知性は複合し、分割することによって、そしてまた推理することによって認識する」のである。こうした事情に基づいて、人間の知性的能力は、「知性」と「理性」の二重構造を持っているのである。

このように人間は、物事を直観的に把握する「知性的存在者」である「天使」との対比の中で、「理性的存在者」と呼ばれている。だが、その際、「理性的」とは、人間理性にすぐ把握できることに自足してそれ以外のものを拒否するような態度なのではなく、むしろ、分節化された推論の積み重ねを通して何らかの全体的・総合的な理解へと到達しようと試み続ける中間的な在り方を徹底的に引きうけていくような態度を意味している。「無理性的動物」にも「神」にも「驚異」や「問い」や「探求」は存在しない。「理性的」とは、問いの運動によって既定の自己を含めた世界全体を区切り(新たに分節し)、あらたな限界を開示し続けていくことなのである。「理性的」とは、自らの限界を充分に弁えながらもどこまでもあらゆる実在に対して自らを開いていこうとする根源的に開かれた態度を意味している。このような人間の知的能力の秩序が、分節化と綜合というトマスの「問い」の構造の根底には存在しているのである。

ちなみに、人間の知的能力の二重構造は、『神学大全』における探求の構造にも顕著な形で反映している。というのも、トマスは、自らの探求の営みを、様々な部・問題・項へと執拗に分節化し、その最小単位である項においてさえ、異論をいくつかに分節化するとともに、主文においても、キーワードの意味を幾通りにも区分しつつ個別的な問いに対する解決を与えていく。このような分節化の営みは決してそれ自体を自己目的として行われているわけでもなければ、単なる概念の定義を求めているのでもなく、むしろ、時間的な存在者としての人間存在の自己超越的な構造の一つの表現となっている。それは、「複合し分割することによって、そしてまた推理することによって認識する」という人間の知的能力の本質的な構造に基づいて、分節化の営みを介して、「全体の把握」へと到達することを目的としているのである。

« 昨年のベストセレクション | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(14) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(13):

« 昨年のベストセレクション | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(14) »