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2014年1月13日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(20)

第8章 徳としての愛:愛における人間の自立性と関係性

第1節 ニーグレンのアガペー理解

キリスト教とギリシャ哲学との緊張関係が最も鮮烈な形で現れている文脈の一つは、イエスの説いた「愛」をいかに解釈するか、という問題である。「愛」という観点から、このような緊張関係を最も典型的な形で取り出したのは、ルター派の神学者であるニーグレンによる『アガペーとエロイーズ』である。彼によると「アガペー」は、新約聖書に顕著な仕方で現われている概念であり、より高次で充実した存在である神が不完全な存在である人間に対してはたらきかける下降的で非利己的で自発的な愛を意味している。それに対して、「エロース」は、ギリシャ哲学、とりわけプラトンの『饗宴』において展開されている、人間が自己にとって価値のあるものをどこまでも追い求めていくという向上的・上昇的な愛であり、対象の価値を認めるがゆえに、それを獲得することを目指す、必要感によって駆り立てられた愛である。そこにおいては、愛する自己が中心であって、愛の対象は自己実現の手段にしかすぎない。そして、ギリシャ哲学を援用してキリスト教神学を構築しようとしたラテン・キリスト教世界における神学的な営みにおいては、本来は相容れないはずの「エロース」概念と「アガペー」概念が、巧妙な仕方で融合し、「カリタス」という上昇的でも下降的でもある両義的な概念が構築され、キリスト教的な「アガペー」概念が歪められた、と彼は主張したのである。

ニーグレンによると、アガペーは、神を主体とする愛であって、「我々が神の道を切り開くのではなく、神が御自身の道を我々の方へ切り開く」のである。その主語は神なのであり、人間を主語として、人間の神またはキリストに対する愛がアガペーという語によって名指しされることはほとんどない。それは、人間は、はたらきの独立した中心ではないのであり、人間が神へと自らを与えるのは、神の愛の反射であり、神の愛によって動機付けられている。それは、自発的でも創造的でもない点において、愛の本質的な特徴をすべて欠いている。それゆえ、人間の神に対する献身は、アガペーではなく、信仰という別の名を与えられる必要がある。

 

第2節 「カリタス的総合」と「幸福論的な問い」

トマスは、神の愛を、神が我々を愛する愛(神からの愛)と、我々が神を愛する愛(神への愛)という双方の意味を含み込むものとして理解している。ニーグレンによると、このような考え方においては、神が人間を愛する動機づけられない無私の愛─アガペーというギリシャ語で表現された下降的な愛─と、人間が神を愛する動機付けられた愛─エロースというギリシャ語で表現される上昇的な愛─という、元来相反する筈の二つの愛がカリタスという一つの概念によって統一的に捉えられている。このような在り方を「カリタス的総合」と名付け、批判している。

こうして、ニーグレンによると、中世の神学においては、神の人間に対するはたらきかけは、人間が神へと上昇していくための手段とみなされている。神から人間への愛は、人間の上昇的な愛すなわちエロースを発動させる手段になってしまっているのである。換言すれば、人間が自己の幸福を追求していく自己中心的な力動性の運動の中に、「神の愛」が位置付けられてしまっているのである。そして、このような幸福論的な問いをキリスト教神学に持ち込むことによってカリタス的総合を成し遂げたのは、アウグスティヌスである。つまり、「善への問い」・「幸福への問い」という古代哲学を共有された地盤のなかにキリスト教を位置づけようとしているアウグスティヌスの問いの提出の仕方を根本的に批判している。すなわち、自らの幸福という善を獲得するにはどうしたらよいかという問いを立て、その答えとして、神という最も魅力的な対象との愛情関係を確立するべきだ、という答えを見出す、という問いの構造自体が、非キリスト教的なものであると指摘しているのである。

それゆえ、ニーグレンの「愛」理解の特徴は、「愛」と「善」を切り離すところにあると言える。「善いもの・魅力的なもの」を愛するのは、真の愛ではなく、「善い」とは言えないもの、価値のないものをそのままに肯定するのが真の愛とされる。それに対して、自分を本当に満たしてくれる「善いもの」をどこまでも追求していく態度は、エロースとして、克服の対象とされている。

 

第3節 トマスのカリタス理解:「徳」としての「愛」

トマスは、「神のカリタス」という言葉を、神が人間を愛する愛(神からの愛)という意味と、人間が神を愛する愛(神への愛)という意味の双方を含み込むものとして理解している。それゆえ、「カリタス」という言葉において、トマスは、人間と紙との相互的な関係を捉えているのであり、それを「友愛」の関係と名付けている。すなわち、人間は、自らに与えられている固有な能力のみで至福を獲得することはできないが、神との協働へと入り込んでいくことを通して、神の至福に分け与ることができる。そして、神の人間に対するはたらきの根拠としてトマスが持ち出してくるのが、新プラトン主義的な原理である。このことは、ギリシャ哲学の影響をできるだけ排除しようとするニーグレンの立場とは対照的である。トマスは、「善の自己拡散性」という新プラトン主義の原理を導入する。

神の側からの下降的なはたらきかけを強調すると、人間固有の自立したはたらきはなくなってしまう。ニーグレンは、人間の主体性を否定することによって初めて神の卓越性が保持されると考えている。これに対してトマスは、人間本性の重要な構成要素である人間の主体性が否定されることは、その人間本性の創造者である神の卓越性自体が否定されてしまうことに他ならない、と主張している。トマスによれば、「人間の意志は愛するはたらきを生ぜしめるものである、という仕方で動かされる」このような人間の意志固有のはたらきの原理として人間に内在し人間を完成させていくものを、「徳」としてのカリタスと名付けている。

「徳(virtus)」とは、人間がその能力・可能性を可能な限り有効に実現し得るまでに高めた状態であり、人間のはたらきを「善く」することによって、最高善に対する人間の自然本性的な欲求を具体化させて実現させていく「力量(virtus)」として捉えられている。それゆえ「カリタス」を人間の「徳」として捉えるということは、「カリタス」を人間の意志の固有なはたらきの原理として捉えることにほかならず、それゆえ、愛のはたらきにおける固有の自立した主体として人間を捉えることを含意している。こうして、神の自己譲与的なはたらきである「カリタス」が、神のはたらきとして人間の意志を一方的に動かすのみのではなく、徳として人間に内在することによって、人間は、自らに固有なはたらきとして、カリタスによる自己譲与的なはたらきを隣人愛の中で遂行していくことができるようになる。「神の似姿」である人間は、自己自身もまた自己譲与的な在り方をする、という仕方で、原像である神の自己譲与的な在り方を模倣していくことができるのである。神的な存在の充満に基づいた「他者への自己分与」という在り方は、神にのみ当てはまるのではなく、このような在り方自体が、縮減された形において、被造物である人間に分かち与えられていく。こうして、人間は、神の自己譲与的なカリタスを受け止めることによって、自らもまた自発的に自己譲与的な存在へと自らを高めていくことができるようになるのである。そして、そのとき、神は、最高善である至福の起源として愛され、自己自身と隣人は、その至福を分かち合うことのできる存在として愛される。このように、まず、神から人間に対してカリタスが自己譲与的な仕方で与えられる。そして、そのカリタスに観応し応答することによって、応答する人間の中に、応答しやすくなるより強い傾向性(習慣)が形成されて来る。それこそが、徳としてのカリタスに他ならない。人間の自立的なはたらきの固有性は否定されず、神や他者との豊かな関係形成のなかで、人間の固有なはたらきがますます輝きを増してくると考えられている。

このように、トマスにおいては、「愛」と「善」との関係が、「善」の自己拡散性・自己譲与性という存在論的な原理によって基礎づけられている。「自存する存在そのもの」である「神の存在の充満」は「善の自己拡散性」という根本原理に基づいて、自己譲与的な愛として溢れ出し、人間を含めた世界全体を存在へともたらすとともに、創造された人間が、自らも「存在の充実」を獲得し、その充実を他者へと分かち与えていくことができるように、人間と不即不離で協働する。そのような場面における人間の自立性は、神のはたらきかけが及ばない「余り」の領域のようなところにあるのではない。むしろ、人間が、自他の「存在の充実」を目指して行為し得るものとして自立的な在り方で存立せしめられているというまさにその点において、「存在の充実」そのものである神の似像としの特質が最大限に見出される。トマスは、「存在の充実」を追い求める人間の自立的な在り方と、創造者であり「自存する存在そのもの」である神の人間へのはたらきかけを、絶妙な仕方で統合し得る観点を提示しているのである。

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