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2014年1月18日 (土)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(24)

結論

自然法の第一原理によって提示されているのは、「倫理的行為の原点としての理性」とでも呼ぶべき観点である。それは、心理的・社会的条件づけを強調する心理主義的・社会学的立場や情緒主義的立場とは大いに異なっている。だが、理性の役割を強調するという点で共通するにしても、人間の自然本性的な傾向性・欲求の実現ということに固有の場所を与えることをしない義務論的な理論とも異なっている。自然法を基盤にした倫理的・法的体系においては、自然本性的な欲求・傾向性や具体的な慣習・実定法に固有の場所が与えられつつも、あくきでも理性の規範性という観点が保たれているのである。

このような自然法論の現代社会的学的意義としては、善の具体的な内容を細かく記述できる余地を充分に残すような仕方で善き生の大まかな輪郭を描き出すことによって、善の内実について語ることを断念する相対的なリベラリズムと、特定の伝統的・慣習的な善の押し付けとなりがちな共同体主義の二項対立を超えて、価値の相対性自体の相対性を自覚させ、実現すべき基本的な諸価値を、具体的な価値の多元性と矛盾しない形で提示する役割を果たしうる点に見出すことができる。

その際注目すべきことは、自己実現原理とも言うべき自然法の泰一原理(「善は為すべく、追求すべきであり、悪は避けるべきである」)がきわめて幸福論的な原理であるように見える仕方で語られているという事実である。こで「善」と言われているのは、単に道徳的な善に限定されているのではなく、広い意味で、「価値」とも言いかえられうるような広い意味での「善」である。それゆえ、いわば、自然法の第一原理とは、人間は、自らの「存在の充足」─そしてその結果としての「幸福」─を自ずと追い求めるものであり、それゆえ、自らの「存在の充足」を脅かすような否定的な行為や状況は避けるべきである、と言い換えることのできるようなものなのである。

だが、同時に、そのような自然法が、神の永遠法の分有として語られていることに我々は着目しなければならない。トマスによると、自然法は、人間が、相応しい仕方で「摂理の分担者」となって、自己自身を、隣人を、そして社会を形成していくために、その原動力として、そして、道を照らす光として、人間理性に刻印されているものなのである。すなわち、「自己実現原理」とも言うべき「自然法」は、存在の付与者である神から自然本性的に人間に課題として与えられているものなのである。人間は、自らの存在を保持し発展させ、「存在の充実」を他者へと分け与えるという課題を、「自存する存在そのもの」である神から与えられているのである。すなわち、「幸福」を目指すということは、人間にとって、単なる欲望の対象ではなく、いわば、神から分かち与えられた課題であり義務なのである。ここにおいては、幸福論的な人間観と義務論的な人間観との結合─「存在の充実」としての自他の幸福を目指すのが義務であるという仕方での統合─が見出されるのである。

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