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2014年1月13日 (月)

フローとストック

骨董品という道楽があります。大体が功成り名を遂げたお金に余裕のある人が隠居がてら楽しむようなイメージがあります。最近は鑑定のテレビ番組が放送されたりして、意外とそうでない人もいて、けっこうそういう趣味の人も多いようです。骨董品の収集では騙されて偽物を買わされてしまうということがよくあるようで、そのテレビ番組でも名品と思ったら偽物だったことがよくありました。その番組は偽物と鑑定された人の表情の変化がひとつの売り物になっていて、骨董ということを見る人々の一般的なイメージがそういうところにあるのがよくわかります。ところで、そこで提出された骨董の真贋を判定し、値段をつけているのは骨董を生業としてるプロの人たちです。このプロと鑑定を依頼する人、所謂素人の違いはどこにあるのでしょうか。素人だって、高いお金をはらうのですから、勉強をしているはずですし、それなりに見る目を鍛錬させているはずです。しかし、騙されてしまう。もちろん、プロの人には確立されたメソッドがあり、それは商売道具ですから門外不出になっているのでしょう。しかし、それなら素人だってメソッドには行きつかなくても、ある程度のところに行けてもいいはずです。しかし、そこに大きな隔たりがある。

その両者の隔たりを、ある人がこう説明している。プロは骨董を買うだけでなく売ることで生計を立てている。しかし、素人は買うだけの一方通行なのが違うといいます。それほど大きな違いには思えないかもしれません。プロは骨董を人々に売ることで現金収入を得ているのですから、売るのは当然です。そして、買うのはその仕入れです。だから当たり前のことです。素人の人はコレクションをしているのが普通ですから、骨董を買えば大事に保管します。しかし、それで終わらないのです。ものの価格というのは市場の需要と供給のバランスで決まります。骨董品も例外ではありません。ある骨董商が品物を名品だからと高い値段をつけても買う人がいなければ、その品はその価値がないことになります。骨董の価値は一人では決められないものです。かといって、客観的にこうだと決まっているわけではないのです。その時々の市場で売る人と買う人のいることで初めて成り立つのです。

だから、市場で売買するということは、ある物に対して、自分で鑑定した結果を、市場で検証できることになるのです。それを毎日のように繰り返す、失敗すれば、それが商売上の損となって真剣勝負です。それを繰り返すのがプロというわけです。素人は、買う一方だから、自分の見立てを検証するチャンスがないというわけです。

これは何も骨董だけに限ったことではないのではないか、と思うことがあります。ため込んで停滞すると、フローが止まって死んでしまう。例えば、知識なんかもインプットでため込んでばかりしていると、骨董の素人のコレクションのようになってしまうのではないか。例えば、このブログに考えていることや展覧会の印象などを書いて、アウトプットしているうちに、特に誰かに何か言われることがなくても、自分の限界を知らさせることもあります。思い入れとでも言うのでしょうか、自分はここまで考えてると思っていたのが、いざ、アウトプットして表に出してみると、この程度でしかなかったということが自分で分かります。それは、単に、自分の頭の中で考えというだけではだめで、外に出してみないといけない。そこで距離が生まれ、客観性をもって見ることができます。それは、相手がいるダイアローグになればなおさらです。

おそらく、仕事の面でもベテランになって頭が固くなってしまって、頑迷固陋になってしまうというのは、蓄積した知識や経験がフローに流れず澱んだり、留まったりして死んで行ってしまうからではないか。

現在、自身の状況や自分の中身を考えるとき、袋小路に入ろうとしている自覚があって、見えないでいるという認識があります。それを見えていない。それを見ようとして、フローに身を置けていないのではないか、と思ったりしています。多分、最初に戻りますが、骨董の素人の人は、その状況が見えていない。今の私と似ているように思えます。

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