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2014年1月11日 (土)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(18)

第7章 人格の相互関係:友愛における一性の存在論

本章が目的としているのは、トマス哲学を基礎づけている根本的な存在論的枠組みを「友愛の存在論」という観点から明らかにすることを通して、トマス倫理学の基盤となっている人間理解を、ペルソナの自立性と関係性という側面から解明することである。

 

第1節 アリストテレス友愛論への依存と相違

「友愛」に関する考察は、トマス倫理学の一部分を構成しているのみではなく、彼の倫理学・社会哲学全体を基礎づけるような性格をも有している。トマスは、「全ての人間は人間にとって自然本性的に友である」というアリストテレスの洞察を受け継ぎつつ、それを社会構想の出発点としていたからである。

「友愛」成立のためには、二つの条件を満たすことが必要である。まず第一に、友愛は「愛」の一種であるが、友愛という特質を持った愛とは、「好意を伴った愛」である。その「好意を伴った愛」とは、「欲望的な愛と対比されられている。欲望的な愛とは、欲求者が、何らかの事物の善を、他の目的のために手段として利用すべく欲求するような愛のことである。それは、本来、理性と意志を有さない存在者に対して向けられる。これに対して行為を伴った愛は、その固有対象である理性的な存在者をそれ自体として愛する愛なのである。

だが、好意だけでは、友愛が成立するのに十分ではない。好意は一方的であることがしばしばだが、友愛には何らかの相互の愛し返しが必要とされるからである。これが友愛成立のための第二の条件である。そして、このような相互性は、まったく異質な者同士の働きかけ合いといったものではなく、「何らかの分かち合い・交わり・共有の上に基礎を置いている」。

好意は突然生ずることがしばしばある。それに対して友愛は、突然生ずるものではなく、「愛されるものについての何らかの細やかな吟味によって」、そして、「何らかの慣れ親しみから」、生じてくる。慣れ親しみとは、トマスによると、好意を持つ者と持たれる者との間の「一致」である。すなわち、相互の慣れ親しみに基づいて、第三者的・傍観者的な立場からより親密な相互関係へと入り込んでいくことを通して、愛する者愛される者との間に何らかの「一致」が生まれてくる。それが友愛の特質であり、それは好意に「心の一致」を付け加える。すなわち、友愛の愛によって愛する者は愛される者をある意味において自分と一体である、あるいは自分に属している、とみなし、こうして愛される者へと動かされる。このような一致という点において、友愛は、単なる好意と決定的に異なっている。

 

第2節 自己愛と他者愛:一性の存在論による基礎づけ

トマス友愛論はアリストテレスを基礎とているが、それだけではなく新プラトン主義的な存在論源泉としている。すなわち、誰かを愛するということは、その人と一致するということであり、誰かへの愛を深めていくということは、その人との一致を深めていくことである。そして、誰かと一致していくためには、一致していく主体が、その前提として何らかの確固としたまとまり─人格の統合─を有していなければならない。だからこそ、自らが「一であること」を成り立たせている自己愛が、隣人愛・友愛の根源だと考えられているのである。そして、それは、「それ自体で一」であるペルソナがペルソナである限りおいて有している一性に他ならない。

このような自己愛優位の愛の秩序理解は。キリスト教倫理に関してしばしばみられる通念とは相反すると言えよう。というのも、キリスト教倫理は、しばしば、隣人愛優位の思想として捉えられ、しかも、きわめて自己犠牲的で献身的な他者優位の倫理として解釈されることが多いからである。これに対して、「人は神に続いて自分を、他のいかなる人間よりもより愛すべきである」というトマスのはっきりした言明は、或る種の衝撃を与える考え方であるといえるだろう。

 

第3節 自己性と他者性の相関関係

他者との関係において目指されていることが「一」へと近づいていくのであれば、常に確執の可能性を孕んでいる

他者との「一致」を目指すよりは、自己自身の「一であること」の中に安住している方がより適切であるであるように思われる。「一であること」をすでに有している一つ一つの人間は、どうしてわざわざ他者との「一致」などということを目指すのだろうか。そして、そのような他者との「一致」などということを目指すのだろうか。そして、そのような他者との「一致」には、実体的な自己自身との「一であること」に還元されないどのような積極的ないみがあるのだろうか。

トマスは、人間を存在論的に実体として理解する際に、「ペルソナ」という言葉を使用する。ペルソナは「理性的な本性を有する個体的な実体」と定義されるが、その「個体」の規定において、「それ自体のうちにおいて区別を含まない」ということと「他のものから区別されている」という二つの特質を挙げている。このふたつの特質はトマスの存在論にとって、極めて重要な役割を担っている。すなわち、或る存在者が存在するためには、それが何らかの本質を有した「もの」であったり、「一なるもの」であったりするだけでは十分ではない。それは、また、他の諸々のものから「他である」「何ものか」であるのでなければならない。すなわち、それぞれの存在者のうちには他のあらゆる存在者の否定が含まれていて、そのことによって、他のあらゆる存在者の否定が含まれていて、そのことによって、他の存在者に対するそれぞれの存在者の独自性が保たれているのである。このような「或るもの」という性格が「第一のもの」である超範疇的概念のうちに含まれているということは、次のようなことを示唆している。すなわち、それぞれの存在者は、まず絶対的・独立的にそれ自身であって、それからたまたま或る種の部分的な変化やはたらきに基づいて他の諸々の存在者へと関係するのではない。そうではなく、むしろ、それぞれの存在者がそれ自身であるのは、他の諸々のものへと関係し、そしてそれらのものへの関係の中においてそれから自己を区別している限りにおいてなのである。一性を有するそれぞれの存在者は、「或るもの」という規定において、その存在の初めから、自らとは異なる独自の多数な存在者が存在する共通の空間の中に自らが措定されていることを表現しているのである。

そして、存在者が存在者として実体的に存立していることにおいて常にすでに成り立っているこのような関係性に基づいて、はたらきの次元における具体的な関係性の形成が生じてくる。存在とはたらきとをきわめて密接な関係のもとに捉えることは、トマスの存在理解の最大の特徴の一つであり、彼によると、存在者が存在者として存立するそのことから、自ずと、はたらきを為す・活動するということが帰結する。「何らかのものが現実態においてあるというまさにそのことに基づいて、それは活動的である」のである。それゆえ、世界は、孤立した諸々の個体の無機的な集積のようなものなのではなく、いわば、相互作用的な存在者の相互連結的な織物として存在しているのであり、その網の目の中心には、はたらきと自己支配的な仕方で遂行することのできる理性的な実体─神と人間─が存在している。それが、トマスの構想する世界の存在論的な構造である。

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