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2014年1月 9日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(16)

第6章 根源的な受動性としての愛:人格の全体性における情念の意味

トマスは愛に関して一見相反する二つの方向性を孕んだ論述をしている。というのも、一方では、「愛は愛する者が愛されるものへと向かう自発的運動である」とその能動的性格を強調するかと思えば、他方では「欲求されうるものから被る欲求の第一の変化が愛と呼ばれる」とその受動的性格を強調しているからである。そして、このうちの前者は、「愛」という言葉に関する我々の日常的な理解と比較的ちかいものであると思われるが、後者は、一見、分かりにくい印象を与える。だが、トマスは、我々が日常的な自明なものとして生きていながら対自化して捉えることの少ない心のきわめて基本的な動きを、受動性としての「愛」という観点から、あらためて問題にしていることが分かる。

 

第1節 情念と倫理的な善悪

トマスの人間論には、能動的な自己形成・社会形成の主体として捉えるだけでなく、もう一つの側面である受動的・受容的側面が見出される。

トマス人間論の一つの基本的特徴は、彼が倫理的な善悪を、一つ一つの行為の次元で判断しようするのみではなく、行為を担っている人間の全体的な在り方の次元においても問題にしようとしている、と言うことである。すなわち、トマスは、「善い人々」と「悪しき人々」との相違を、単に一つ一つの行為の個別的な在り方の相違として対比させるのみではなく、その基盤にある人格の全体的な在り方自体の相違としても問題化している。だが、「善い人々」の理性中心的な在り方のどこにどのような仕方で、受動的・受容的な在り方を持った情念というものは位置づけられるのだろうか。トマスによると、「何らかの情念によって影響を受けている人間には、物事はことがらの真実に即してそうであるよりもより大きくまたは小さく見える」のであり、その限りにおいて、情念は、「善く思慮する能力」を妨げる。実際、我々はしばしば、「君の判断は感情的だ」とか、「怒り(という情念)によって理性的な判断を失った」というような表現をしている。しかし、トマスは、結論として、情念を端的に悪と見なすことをしないという姿勢をアリストテレスの言葉を引用しつつ、明示している。「或る人々が徳を何らかの無受動性・無情念性であり静止であると定義しているのは適切ではない。というのも、それらの人々は端的な語り方をしているからであり、むしろ徳は、あるべきでない仕方であるべきでないときにあるような、そうした諸情念からの静止である、付け加えるべきだったのである」。情念からの静止は常に善であるわけではない。たしかに、情念は否定的なはたらきをすることもあるが、常にそうであるわけではなく、あるべき仕方であるべきときにあるような情念もあるのである。トマスは、情念を、倫理的な完成と両立するものと考えているのである。

 

第2節 passioの意味の三区分

トマスにおいて、passioという語は、「情念」という意味で使用されることもあれば「受動」という意味で使用されることもある。いや、むしろ、「情念」という意味と「受動」という意味で使用されることもある。むしろ、「情念」という意味と「受動」という意味が不可分の仕方で結び付けられて使用されていることに彼の情念理解の一つの特徴がある。トマスのpassio理解がある種の錯綜した印象を与えるのは、passioという語が一義的な概念として使われているのではないということにその一因を持っている。

トマスは、passioの意味を三つに区分し、そのそれぞれの意味に応じて魂のうちにそれぞれのpassioがあることを肯定している。まず、passioという名詞に密接に関連したpati(受動する)という動詞の意味を大きく二つに区分している。第一に、本来的な意味において「受動する」と言われるのは、「何ものかが受け入れられて他のものが取り去られる時」である。それに対して、第二に「受動する」と言われるのは、より広義の意味においてであり、それは何も取り去られることがないにしても、あらゆる受容することが「受動する」と言われる場合である。だが、このような場合には、確かに「受動する」と言われるものの、より本来的には、「完成される」と言われるべきである。アリストテレスが「感覚することと知性認識することは一種の受動することである」と言っているのは、このような意味においてであるとトマスは理解している。それゆえ、第一に、このような感覚と知性の受容性ということに即して、魂のうちにはpassioがあるとしなければならない。そしてこのような意味におけるpassioは、「情念」と訳すことは出来ず、「受動」または「受容」と訳すべきである。

それに対して、本来的な意味において「受動する」と言われる場合に関しては、さらに二つに場合分けすることができる。それらは、本来的な意味における受動の規定にある「他のものが取り去られる」と言われる際に、どのようなもの取り去られるのかということに即した場合分けである。すなわち、第一に、「自らにふさわしいもの」が取り去られるときに最も本来的な意味で「受動する」と言われる。たとえば、病気が受け取られて健康が取り去られる時に「受動する」と言われるような場合である。それとは逆に第二に、ふさわしくないものが取り去られるにも「受動する」と言われる。健康を受け取って病気が取り去られる場合である。そして、これら二つに場合分けされる本来的な意味におけるpassioは、身体のうちのみではなく、確かに魂のうちに存在するものであるが、それは或る限定された意味においてでしかない。というのも、魂と身体と複合体が受動する限りにおいて、passioは付帯的な仕方で魂に適合するからである。そして、身体的な変化はより善い方に向かって生じることよりもより悪い方へ向かって生じることもあり、そのうちの後者が最も固有な仕方においてpassioということが魂に適合する仕方なのである。それゆえ、喜びよりも哀しみの方がより本来的な仕方でpassioと言われる。

以上のようにトマスのpassioの意味の三つの場合分けにおいて、「愛」という肯定的な響きをもった情念に最も基本的な役割を振り当て、そのことを存在論的に基礎づけていることである。というのも、「何らかの愛を前提しない魂の他の情念は存在しない」のであり、「何らかの情念から発する全てのはたらきは、第一原因としての愛からもまた発している」とされているからである。

しかし、トマスは、passioの最も本来的な変化を、変化が悪い方に向かって生じる場合において看取しているのであるから、それにもかかわらず愛という肯定的な情念の徹底的な優位性を述べたてることはどのようにして可能になっているのだろうか。

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