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2014年1月 7日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(14)

第2節 沈黙の次元への開き

根源的に開かれた理性的本性を有しているとはいえ、人間は神を中心とした実在全体を認識し尽くすことはできない。把握し尽くされない神を、それにも関わらず分節化と綜合の積み重ねによって探求していく営みの最高地点で自覚されるのは、やはり、神の把握し尽くされ難さなのである。それゆえ、トマスは言う、「次のことが神についての人間的認識の究極である、すなわち、我々が神について理解することのすべてを神の本質は超えている、ということを認識している限りにおいて、自分が神について無知であることを知っていることである。」このような徹底的な「無知の知」は、実在に対する恣意的な体系化に基づく饒舌から我々を解放し、「沈黙」の次元を開示する。「神は沈黙によって崇められるというのは、神については何も語られず何も探求されないという意味ではなく、むしろ、神について我々が何を語り何を探求しようとも、我々には神を把握する力量はないということが分かるという意味である」。

そして、トマスは、その最晩年に、実際に、沈黙する。「私がこれまで書いたものはすべてわら屑のように見える」という言葉を残して。我々は、このようなトマス晩年の姿によって当惑させられざるを得ない。今日の我々に残されているトマスのテクストは、彼の知的探求が最終的に到達した洞察を含んではいないのだとしたならば、そしてその最終的に到達した洞察を含んでいないのだとしたならば、そしてその最終的な洞察がそれまでの探求の実りを「藁屑」と化してしまうようなものであるとしたならば、分節化によって構成されている彼のテクストは結局は無価値であるということになってしまうだろうか。そして、この最後の沈黙がそれまでの具体的で分節化された探求に対する単なる非連続的な断絶でないとするならば、我々は、それ以前のトマスの探求の中に、この「沈黙」に相当するものを見つけ出さなければならない。そして、驚くべきことに、彼の知性の結実をすべて「藁屑」と化してしまった「沈黙」に相当するものを見つけ奪なければならない。しかし、驚くべきことに、彼の知性の結実をすべて「藁屑」と化してしまった「沈黙」と連続的だと思われるトマス哲学のキーワードは、何か反知性的なものなのではなく、まさに「知性」に他らないのである。というのも、「知性」とは概念を作り出して複雑な議論を織りなしていくような能力なのではなく、「理性」によるそのような分節化された営みの積み重ねを介して、実在全体を受容していくような直観的な能力なのだからである。

分節化された言葉は沈黙において自らを最終的に成就するのだが、言葉の限界であるところの沈黙は、そのような分節化された言葉を通じてのみ存在する。肯定的言表(肯定神学)と否定的言表(否定神学)を交錯させつつ進んで行ったトマスの探求は、結局は「沈黙」に終わった。だが、だからといってそのような言語行為は決して無駄だったのではない。「語られ得ぬもの」として「神」が指し示されるのも、トマスにおいては、あくまでも、語りうることを語り尽くすことを通してなのである。そうすることにおいて初めて、語ることの背景に常に潜在していた「沈黙」の次元が前景化してきうるのである。

この場合の「沈黙」とは、そもそも、語るべきものを持たないがゆえの空虚な沈黙ではないし、自己自身への自己満足的な閉塞を意味しているのでもない。そうではなく、それはいわば、語ることの一つの様式としての「沈黙」だと言えるだろう。それは、実在全体の把握され難さが把握され難さとしてそのままに示されるような一つの言語行為の遂行なのである。そして、そのような「沈黙の言語行為」とでも名付けられる事態においては、「沈黙」は、トマスの語りの日常語的な内容であるだけでなく、むしろ、「沈黙」がトマスを通して語りかけている、といった主語的な意味を孕んでいるのである。哲学的な問いを発しているトマスは、神を中心とする実在をその可知性の極みまで理解しようとする日々の探求の営みのただ中でその不可知性をより根源的な仕方で自覚し、把握されざる極みにおいて、把握されざる実在全体が自らの探求の無限に遠い最終目的であるのみではなく、むしろ、自らの探求を促し続けてきた根源的な原動力であったということがトマス自身にも思いがけないような仕方で決定的に語り出されたのであり、それこそ「沈黙」の言語行為であったと言える。トマスの著作に含まれている意味は、トマスの著作のうちに閉じ込められているのではなく、「把握することができないもの」を指し示すような方向性を持っている。

 

結論 

それゆえ、我々に求められているのは、実在の汲み尽くし難さに対する注意を常に忘れずに、そして実在を言語的体系に還元しようとする誘惑に陥らずに、実在全体に向かって我々の精神を解放し続けていくことである。そして、トマスのテキストと対面している我々にとって、真に危険なことは、そのテキストの整合的な体系化にのみ専念して、「存在そのもの」である神を中心とする実在との驚異を伴った生き生きとした交わりを失ってしまうことである。

トマスの沈黙は、「驚異」によって始まる彼の哲学的な問いの運動を当初から支えていながらあくまでも背景化されていた沈黙の次元が、分節化された言葉の連鎖を媒介にして獲得された洞察の積み重ねを通して徹底的に前景化されたこと、を表わしているのである。それゆえ、トマスのテキストは、我々に確定された上からの解答を与えているのではなく、「問う」ことへと向けて、すなわち哲学することへと向けて、招き続けている。トマスの沈黙は、問の運動を終わらせるどころか、むしろ、問の運動を支えている次元を我々に開示して、理性による哲学的な問いの運動に生命を与えうるのである。

このような仕方で理解する時、トマスの「お喋り」は、トマスの「お喋り」は、単なる概念的・論理的な思弁としてではなく、神=「自存する存在そのもの」との生き生きとした交わりから生かされそこへ還帰していくものとして理解し直されることができる。そして逆に、「信仰」と言われてるものも、哲学的探求への障害のようなものとしてではなく、理性の営みに真の原動力を与えるものとして受け取りなおされることができる。また、トマスの「沈黙」も、「自存する存在そのもの」である神を中心とした実在全体が、人間の言語で語り尽くすことができないまでに豊かな「存在の充実」を有したものであることを実践的に示す、「存在の充実」の徴としての「沈黙」として理解し直されることができるのである。

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