無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(22) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(24) »

2014年1月18日 (土)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(23)

第3節 自然法と実定法の二元論の克服

このような自然法論に即した時、ケルゼンの批判に対して、どのような仕方で応答することができるだろうか。ケルゼンは、「『実定法』と『自然法』という根本的な二元論」を、自然法論の根本的な特徴と見なしている。そして、「自然法を演繹してくる人間本性」と「実定法を必要ならしめる人間本性」との矛盾を指摘していた。しかし、ケルゼンの理解とは異なり、人間本性の善性という過度に理想的で非現実的な人間本性観を前提にしている自然法が必然的に孕んでしまう一面性が、不本意ながらも、実定法という強制機構を必要とさせるのではない。実定法は、自然法の第一原理が十分に規定せずにとどめている─そのことによって価値の多様な実現形態をもった諸文化が歴史的に成立し得る─領域に向かっての自然法の拡大であり特殊化なのである。それゆえ、実定法と自然法の背景にある自然本性観が矛盾しているというケルゼンの批判は当たらない。というのも、自然法によって未既定のままに残されている事柄が引き続き規定されているように促し続けるのはまさに自然法自身だからである。トマスによると、その具体的な構造は以下のとおりである。すなわち、「人間によって制定された法はすべて、それが自然法から導出されていればいるほど、それだけ法の本質に与ると言える。これに対して、何らかの点で自然法から外れているならば、もはやそれは法ではなくて、法の歪曲となる」。そして、人定法が自然法から導出される仕方は二つに大別される。その一つは、「原理から結論が導出されるような仕方」であり、もう一つは、「或る共通的・一般的なことが特殊的に確定されるような仕方」である。「原理から結論が導出されるような仕方」で自然法から人定法が導出される仕方は、諸々の学において原理から論証的結論が引き出される仕方に似ている。たとえば、「何人に対しても悪を為してはならない」という原理から、「殺すなかれ」ということが、結論とも言うべきものとして導出されるのがそれにあたる。そして、このような仕方によるものは、単に人為的に法によって定立されたこととして人定法のうちに含まれているのではなく、自然法からもその効力の一部を得てきている。それに対して、「或る共通的・一般的なことが特殊的に確定されるような仕方」で自然法から人定法が導出される仕方は、諸々の技術において一般的な構想が或る特定の形へと特殊化され確定されていく仕方に似ている。例えば、「罪ある者は罰せられるべきである」いうのは自然法に基づくのではあるが、「しかじかの刑罰をもって罰せられるべきである」とするのは、自然法に対して加えられた或る特殊的確定としての人定法なのである。そして、このような仕方による確定は、さきほどのものとは異なり、ただ人定法からのみその効力を得ているのである。

他方、トマスも、ケルゼンと同じように人定法は自然法とは違って強制秩序として現われると理解している。しかし、そのような強制秩序の背後には、人間本性が根源的に善きものであるからこそ、このような強制秩序にも現実的な意味があるという考えがある。というのも、威嚇が意味を持ちうるのは、威嚇される人々がその人なりの幸福な生・善き生へとコミットしていて、その幸福な生・善き生の実現(存在の充実)を妨げる強制秩序を恐れる限りにおいてであり、その意味において、悪しき人々においては、「濃密で曖昧な善の概念」の具体化の次元で何らかの歪みが生じているにしても、根本的な自己実現原理へとコミットしていることにおいては、善き人々と違いはないからである。そもそも、何らかの規範的な原理が提示されるような人も、自らの自己実現へとコミットしていることが前提にされなければならないのであり、もしも根源的な自己実現へとコミットしていないような人がいたとすれば、そのような人に対しては、どのような法的強制もその威嚇力を十全な仕方では持ち得ないのである。そして、自然法に適った実定法的強制秩序が強制秩序として現象するのは、悪しき人々にとってのみであり、有徳な人々や正しい人々の意志は法と合致しているので、「強制さている者が強制する者に対するような仕方で」方の下にあるのではないのである。

 

第4節 人間理性の規範的性格

自然法論においては、あらかじめ確固とした仕方で規定された自然本性を出発点に、演繹的な仕方で、人間的善に対する探究が進められているのではない。そうではなく、善の具体的な内実を細かく記述できる余地を十分に残しつつ善き生の大まかな輪郭を描き出すという仕方で、人間的善に関する探究が進められている。そして、そのことによって、歴史超越的なかたちではなく、歴史的な経験に開かれたかたちで、人間が自らの本性を試行錯誤的に発見し、具体的な状況のなかで具体的に実現していく、という柔軟な構造を可能にしている。人間の行為に方向づけを与えうるのは、自然本性的な傾向性自体でもなければ、自然本性的な傾向性が具体化された諸慣習でもなく、あくまでも、それを善きものと判断する理性なのである。

人間は単に自己保存への傾向性を持つのみではなく、自己保存を善として認識し、変動する状況の中でそれを維持するための方法と手段を具体的に考案する。たしかに、我々の有する諸価値の内実は、特定の社会の伝統・慣習への文化適応によって形成される側面が大きい。だが社会からのこのような影響が可能なのも、他者と共に生活することへの基本的な適性を我々が自然本性的に有し、それを善として理性的に認識し、肯定しているからこそなのである。

一方、人間は諸動物とは違って、具体的な判断に基づいて特定の目的-手段連関に自らの身を能動的に置くことができる─様々な慣習・習慣・法などの価値体系を構築したり適応したりする─ばかりではなく、そのような特定の目的-手段連関自体を吟味し相対化することができるのであるが、そのような根源的な判断が可能となるのは、具体的な判断の能動的な発動の底に、人間の能動的な力によって左右することのできない非恣意的な自然本性的傾向性が存在しているからなのである。換言すれば、自然本性的傾向性が非恣意的な仕方で志向させられている統合的・総合的な人間的善との差異の認識が、具体的・特定的善によって構築された特定の価値体系や論理・法体系の有効性と限界の双方を自覚することへと人間を導くことができるのである。こうして、「自らの判断についての判断」という人間理性固有のはたらきに基づいて、人間は、自己の存在全体を完成させる全体的・統合的な人間的善を、試行錯誤的に具体化しつつ、首尾一貫的な仕方で追求し、「存在の充実」を実現していくことができるのである。

« 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(22) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(24) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(23):

« 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(22) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(24) »