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2014年1月14日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(21)

第Ⅳ部 存在充足の原理としての自然法

日々積み重ねられていく人間の様々な行為は、「知性」と「意志」という自らに与えられた能力が孕んでいる可能性をより十全な仕方で現実化させていくためにこそ遂行され、「ペルソナ」の特徴である「完全性と全体性」という自らに与えられた存在の条件を全うし、その「存在充足」によって幸福を達成するという大きな文脈の中に置かれることによって、はじめてその意味を与えられていく。倫理的に善い行為とは、そのような存在充足へと向けられた行為のことであり、悪しき行為とは、そのような存在充足を欠如させていく行為のことなのである。そうだとすれば、トマスの人間論は、いわゆる目的論的な人間論、または、幸福論的な人間論であると結論付けることができるのであろうか。

『神学大全』は、第1部の神論、第2部の人間論、第3部のキリスト論から構成されている。このような全体構造は、創造主なる神からの万物の発出と、目的なる神への万物の帰還というしプラトン主義的な原理に基づいて設計されている。トマスは、「禅の自己拡散性・自己伝達性」という原理を新プラトン主義から学びつつ、独自の仕方で自らの根源的な構成原理として使用している。まず第1部の神論においては、神による世界創造の動機について、「神が諸々の事物を創造にまで産出したのは、諸々の被造物に自らの善性を伝達し、これをこれらの被造物を通じて表現するためであった」ところが、被造物はすべて有限である限りにおいて、神の善性を表現するには不十分である。こうして、多様な存在者の秩序ある連鎖としての世界が形成される。そして、他者への自己分与という神的な存在の充満に基づいたこのような在り方は、神にのみ当てはまるのではなく、創造において、このような在り方自体が縮減された形において、被造物に伝達される。この原理は、第2部の人間論(倫理学)にも適用されていく。倫理学においては、人間の他者との関係が一つの中心軸となるのだが、トマスは、他者とまの関係形成の動議づけに関して、人間と他者との関係に入り込むのは、まずは自己のみの力では及ばないことを他者によって補ってもらうためである。だが最終的にはそのような欠如によって促される在り方に留まるのではなく、自らの有する存在の豊かさを他者へと伝達し共有するためにこそ、人間は、他者との関係性を構築していくのであり、そのなかで、人間は、自己譲与的な神の似像として完成し、神へと還帰していく。このように『神学大全』の全体構造は発出と還帰、善の自己拡散性という新プラトン主義的な原理に基づいて理解することが可能である。しかし新プラトン主義においては、一者からの世界の発出した世界の一者への還帰はともに自然発生的な運動であると考えられていたのに対し、トマスは、神と、神から発出し還帰する人間の双方が自由意志を有していることを強調している。

こうした枠組みのなかに位置づけることによって第2部の全体構造も明らかになってくる。人間は、神の被造物として神に依存しつつも、創造者である神に類似した理性と自由意志を有しているかぎりにおいて、神の摂理に受動的に服するのみではなく、摂理の分担者として、自己の行為を、そしてそれを通して人間社会を、能動的に形成していくことができる存在なのである。そのような人間という自立的な力を有した存在を創造することができることこそ、神の自立的・能動的な力の卓越性だとトマスは捉えている。このように、神への依存性と自立性という両犠牲を本性的に有している人間についての多面的な考察が、トマス倫理学の内実を形成している。人間は、神によって与えられた自らの本性や世界全体の自然的秩序を前提にしつつも、あくまでも自らの自由意志によって自己を時間的世界の中で動的に形成して行くことのできる可塑的な存在として把握されている。このように、トマス倫理学においては、神と人間との関わりにおいて、人間の依存性と独立性、自立性と関係性、能動性と受動性、神律性と自律性という一見相反する諸性質が絶妙な仕方で統合的に把握されているのである。

このような枠組みの中で展開されるトマス倫理学は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』と同様に、人間の行為の目的についての議論から出発する。そして、幸福を実現することが人間の究極目的であるという目的論的・幸福論的な立場が提示される。その際、現世での生活における幸福に関心を集中させていたアリストテレス的な幸福概念を「不完全な幸福」として相対化しつつ、トマスは、自らのキリスト教的な幸福概念を「完全な幸福」として提示する。だが、「完全な幸福」の内実は神の本質の直視(至福直観)であり、この世での生活においては完全に実現することができないとされる。それゆえ、倫理的生活の内実は、幸福の実現を直接的に目指すというよりは、幸福を与えられるに相応しい人柄を身につけることを目指すということにあることになる。それは、具体的には、徳を身につけるという作業になる。

そして、このような人間の倫理的生活は、「我々を法でもって教導し、恩寵でもって助ける」神のはたらきかけによって導かれる。人間は、「それに照らして何が善であり、何が悪であるかを判別するところの言わば自然的理性の光」と定義される自然法を、神的光(永遠法)の刻印として有しているとされ、また、神の恩寵は、人間の自然本性を破壊したり無用なものにしたりするのではなく、むしろ、人間の自然本性を導き完成させるものとして機能する、とトマスは捉えている。

そもそも、いわゆる「セム的一神教」または「アブラハム的宗教」─キリスト教・イスラム教・ユダヤ教─において、「神」

とは、人間の知的探求や宗教的探究の最終的な到達点として持ち出されたものではなく、むしろ、超越者である「神」の側からのはたらきかけによって、神と人間との関係が始まるという構造を有している。そのはたらきかけとは、何よりも、神の語りかけ、すなわち啓示というものであった。それゆえ、人間の側の思いや把握を超えてはたらきかけてくる「神」と呼ばれる他者の語りかけをどのように受けとめるかということが、基本的な問題となった。「神」は、人間の問いかけに対する解答として持ち出されてきたと言えよう。「解答としての神」ではなく、「問題としての神」というのが、セム的一神教の与えた基本的な問題構図であった。われわれは、このようなセム的一神教に由来する基本的な性格についての洞察を失ってはならない。トマス哲学の可能性と限界の総体がそこに存していると言うことができるからである。

トマスの法論は、神が全宇宙を統宰するための理念である永遠法が、どのような仕方で人間界において具体的に実現していくか、という観点から、トマスの法論は構成されている。 

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