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2014年2月13日 (木)

宮崎裕助「判断と崇高」(4)

判断力という能力の本質が反省的であるという点に求めることができるとすれば、これは「判断力批判」を遂行するカントの批判作業自身に反射的に折り返されるように思われる。というのも、カントが試みている「批判」自体がいわば哲学の根本的活動として、反省的判断力に特有の自己立法的な構造に根差しているということである。

カントの言う「批判」は、「措定するあらゆる場合に、規定し決定するものとしてあらかじめ定められていなければならないものを措定する」ということを意味するという、当の対象を際立たせ、それらを分け隔てることで当のものを措定しその分割を決定する、という意味を持つ。

批判のこのような含意は、すでに見たような反省的判断力の定義─特殊なものしか与えられていないところで普遍的なものを法として打ち立てるという立法行為─を想起させ、さらには反省的判断力がすぐれて試される局面、つまり趣味判断(美醜や芸術の判定)に通じているということは明らかだろう。このような意味で、批判とは判断そのものであると言うことができる。カント自身『判断力批判』の序論の中で、「理説」との対比により「批判」について説明しているが、批判は、離接とは異なり、何某かの客観に即して何らかの理論をそれ自体として積極的に構築するわけではない。それは、諸能力にとって理説が可能になるための条件、すなわち、その権利が正当であるかぎりでの限界を画定することを目的とするのである。そのかぎりで、それは哲学ないしは形而上学として構築される理説の手前で、「哲学の予備学」にとどまっている。

しかし、『判断力批判』において、このような「批判」はたちまち空転し始める。すなわち、悟性や理性の批判とは異なり、ひとたび批判が判断力という能力に向けられるやいなや、当の判断力が固有の立法領域を欠き、移行としての中間的な地位しか与えられていないがために、判断力についての批判は、超越論的な作業を開始するための明確な標的を失うのである。判断力批判には、批判すべき判断力の理説が欠けている。そのため、批判とのものが理説にとって代わるほかはない。しかし判断力批判は、厳密には理説のないところでいったい何を批判するのだろうか。批判が理説にとって代わるのなら、いまや批判すべきは批判自身である、ということになるだろう。判断力の批判は、判断力を自らの批判対象としてそのつど自己立法的に措定することで自ら批判に付す、という反省的な構造のうちに実行されるのである。判断力について批判するという企図は、これまでの二批判の体系的統一の達成にある。つまり、二つの批判書の間で両者を架橋しようとする点で、批判の批判、メタ批判的な性格を帯びている。批判が哲学の予備学だとすれば、判断力批判はいわば、批判そのものの予備学である。

結局のところ、判断力の批判は、反省的判断力を対象にしているからこそ、自身もまた、当の判断力の原理を反省的かつ自己立法的に想定できる、と言われているかのようなのだ。ここでは、みずからの批判作業以前の前提と、批判がこれから向かう対象とのあいだで明白な循環が生じている。カントの批判哲学の体系の中で、判断力の批判という課題には、三批判全体を接合し支持するための最大の負荷がかかっているのにもかかわらず、最後の批判に至って、批判対象への論及行為そのものによって当の対象を遡及的に構成すると言う仕方でしか、当の企ては、自身の批判作業を正当化できないのである。『判断力批判』の批判作業は、このような仕方でこそ、判断力の反省的構造を先取りしつつみずから実践し、当の批判に手探り状態で突き進んでいくことになるのだ。

 

判断力の反省的-自己立法的構造のもつ影響は、『判断力批判』のみならず、カントの批判哲学全体に浸透している。

『純粋理性批判』においては、判断(判決)と批判の反省的で自己立法的な構造は、まさに「理性の法」によって可能になっている。批判し裁きを下すのは理性であり、理性が理性の問いを「理性の法」に照らして批判し判断するのである。一方、理性はみずからの本性によって解決不可能な問いに避けがたく陥るという理性の窮境がはじめから問題になっている。そこから、理性がみずからの本性にしたがってアプリオリに要求できる正当な権限を明らかにすること、そうでなければ理性が冒さずにはいられない越権行為を制限することが企てられるのである。要するに理性批判の企図は、理性能力の限界画定に存している。そのとき、理性が従う当のもの、それに即して批判が可能になるもの、それは、理性そのものというより理性の法である。理性は、この法を介してのみ、自身の能力に対して批判を加え判決を下すことができる。カントが批判の場を「法廷」という言葉で語っているのはそのためである。この「法廷」は、理性が当の法廷に従うことで理性自身の批判がはじめて可能になるという場の形象なのである。「法廷」の形象は、『純粋理性批判』全体を貫く問い場を構成しており、純粋理性の批判がこうした「法廷」の形象によってモデル化されていることの意味は、決して小さくはない。そもそも純粋理性の批判は、理性の権限画定の一環として、アプリオリな認識の可能性の解明を主要な課題としているが、それが「概念がどのようにしてアプリオリに対象に関係するのかという仕方の説明」として問われる時、カントはそれを「超越論的演繹」と呼ぶ。カントは、この「演繹」という語を、デカルトが言ったような、直観から区別されるような演繹という哲学の伝統的な意味で用いてはいない。この語は、「法律家が権限と越権を論じる」という意味、訴訟において法律家が当の係争事象に関して「権限」を提示したり「越権」を斥けたりすることによってなされる主張であり、これは権利問題の議論、すなわち事実問題から区別されるべき議論に他ならない。このような法学用語をカントが純粋理性の批判のうちに持ち込んでいるのは、概念の対象へのアプリオリな関係の可能性が、決して概念の事実的ないし経験的な使用の積み重ねからは正当化されないからであり、その解明は、経験に由来しない概念の使用可能性と正当性の根拠を、概念自身に備わる内的な権限として問いただすことによってしか可能にならないからである。だからこそ、カントは純粋理性の批判を、まさにこうした権利問題が「演繹」される訴訟の場としての「法廷」によって舞台化したのである。

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