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2014年2月19日 (水)

宮崎裕助「判断と崇高」(9)

Ⅱ 崇高─構想力と美的型式の問題

3 構想─暴力

カントは『純粋理性批判』において、構想力を「心のもつ、盲目だが不可欠な機能」として導入した後、「直観のうちに対象が現前しなくても、対象を表象することのできる能力」と定義している。これは、より一般的な想像力とは区別されるべきもので、想像力は、眼の前には存在しないものを心の中に像として想い描くことと理解され、イメージを形成する能力、いわば形象力のことを指す。

カントの構想力が広義の想像力と区別されなければならないとするならば、それは、カントがそうした想像力に権利上先行するものとして、人間の認識一般の成立にとって不可欠な超越論的機能を、想像力のうちに認めたからである。すなわち、感性的直観にもたらされた多様を認識の諸要素としてとり集め一定の内容へとまとめ上げるという綜合の機能を、構想力は担うのである。このことの要点とは、構想力が、あらゆる経験に先立って、経験そのものを可能にする超越論的綜合だということである。この綜合は、はじめて感性と悟性を媒介するもので、この媒介がなければ経験の統一は解体してしまうだろう。感性を悟性に向けて規定するこの超越論的な綜合には、たんに不在な対象の像を形成するという以上の構想力の自発的な働きがある。

他方、以上のような(生産的)綜合の自発性にもかかわらず、構想力は直観の能力としてはあくまでも感性の側に属しており、受容的な性格を持ち続けるということに留意しておく必要がある。構想力が受容的であるという場合、(1)構想力による感覚表象の形成作用が、直接感官には与えられていない不在の対象を直観し得る(受容する)ということ、(2)この作用がひとつの綜合としてどれほど創造的で根源的にみえようと、つねに過去に感官が受け取った素材(直観の多様)に依存しなければならないということ、この二点の含意がある。後者についてはカントは「七色のうちで赤色をかつて一度も見たことのない人に、この赤色の感覚を理解させることは決してできないし、生まれつきの盲人にはいかなる色の感覚も全く理解させることはできない」という例を挙げている。「自身の像形成のための素材を感官からとってこなければならない」という点で、構想力はどこまでも感性に依存しているのである。

構想力は、一方では直観の能力として感性のように作用し(受容的)、他方では綜合の機能として悟性のように作用する(自発的)。構想力の性格をすぐれて特徴づけているこの二重性は、構想力が結局のところ感性と悟性を媒介するという働きにその本質があるのだとするならば、むしろ当然だと言えるだろう。感性と悟性という「心の二つの源泉」を人間の認識の根幹とした『純粋理性批判』の基本的枠組みの中では、構想力の中間的な身分は両者の間で動揺し、十分に明確な規定を与えられることはなく、その由来は結局のところ明らかではないのである。

本章は、構想力が中間能力として置かれた以上のような背景を踏まえた上で、カントにおいて構想力がそれ自体としてひとつの独立した能力ではないのだと認めることから出発しよう。構想力は直観の能力として感性を起点としながら、結局は『純粋理性批判』では悟性に仕えることでしか認識一般を可能にすることがない。構想力の根本的に従属的で媒介的な機能は、実のところ『判断力批判』において理性との関係に置かれる時、極限にまで酷使されることでその本性─「構想─暴力」─を露わにするだろう。構想力はおそらくそれ自身としては何ものでもないが、まさにその代補的な本質によってこそ、みずからの「不安にさせる不可知なもの」の威力を最大限に発揮するのではないだろうか。

 

『判断力批判』における構想力の基本的な役割を素描してみよう。『判断力批判』の課題はまずもって「美的反省的判断の解明」であり、その局面はとくに「自然や芸術における美と崇高についての判定」として見いだせる。美と崇高という二つの判断を分かつ主要な区別とは、カントによれば、判断対象のもつ形式の有無であり、したがってこの形式性を呈示しうる構想力の働きの違いである。一方で、美は悟性と構想力との関係のもとで説明されており、このとき構想力は、判断対象の形式に即してある悟性対象を呈示する(この呈示によって主観に生じる快が美しいと感じられる)のだが、当の悟性概念が無規定である限りで、構想力はみずからの「自由な戯れの状態」を保ったまま悟性と調和する関係に入る。他方、崇高は理性と構想力との関係のもとで規定されており、理性概念は構想力にとって直接には呈示不可能な「無限定性」として間接的にしか呈示されえない以上構想力は理性によって繰り返し突き放されるなかで理性と抗争関係に入る。美が心の平静な観照の状態に結びつく一方で、崇高が反発と牽引の急速な交替に置かれた心の激しい動きに結び付けられるのは、こうした諸能力間の対照的な関係に由来している。

美においては、構想力の「自由な戯れ」は悟性との調和や均衡関係においてしか想定されておらず、構想力の働きが美的対象の形式によって限定を被るという意味では、いわば制限された自由にとどまる。他方、崇高なものの呈示にあって構想力は、理性と抗争状態のもとに置かれ、理性によって束縛を強いられるように思われる。崇高なものは形式を欠いた対象においても構想力によって呈示されると言われているように、崇高として提示されるものは、有形の美的対象ではない。当の対象が「その混沌において、もしくはそのきわめて野生的でまったく無規則な無秩序と荒廃において」現われる場合に、この対象に構想力が決して到達できないという呈示不可能性が、崇高として呈示されるのである。構想力をしてこうした不可能性(無限定性)に直面させる当のものは、自然対象の表象それ自体ではなく、カントによれば「自然の表象のうちへと崇高性を持ち込む心構え」、つまり、我々のこころのうちに見出されるべき「超感性的なものとしての理性の理念」のうちに求められなければならない。理性はこうした意味で、呈示不可能性を通じて構想力に緊張を強いるのであり、その結果、両者は抗争状態に置かれることになる。構想力は「自由な戯れ」を享受するどころか、まさしく理性によってみずからの能力を厳しく否定されるためにのみ召喚されているにすぎないかのようだ。

構想力と理性のあいだの抗争関係は、理性によって構想力の自由に対して加えられた単純な否定や阻害として理解されるだけでは十分ではない。崇高なものの呈示が可能になるのは、まさに当の否定性を表出できるという構想力の自発性が維持されている限りにおいてである。美においては、この自発性は、構想力が呈示しようとする悟性概念の無規定性において「自由な戯れ」として確保されていた。崇高においては、構想力は美的対象の形式そのものによっては制限を受けないが、まさにそのことが、理性による否定として構想力の自由を奪うという帰結をもたらすだけなのだとすれば、崇高なものの呈示は、実現する以前に破壊されることになってしまうだろう。そこで、構想力は、その能力を理性によって否定されるにもかかわらず、それでもなお当の否定性を表出すべく呈示能力の自発性を確保しなければならない。

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