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2014年2月18日 (火)

宮崎裕助「判断と崇高」(8)

『純粋理性批判』の「超越論的感性論」の冒頭の註記において、一つの趣味の批判として「美に対する批判的評価を理性原理の下にもたらし、その評価の規則を学に高めようとする」試みが「その源泉から見てたんに経験的たるに過ぎず」、「この努力は無益である」と厳しく斥けていた。しかし、だからといって『判断力批判』における「カント美学」の成立を直ちに否定することはできない。なぜなら、『判断力批判』において美的判断力が「美的」であるのは、それが「快不快の感情」に直接関わるからにほかならず、第一批判における「超越的感性論」の「感性的な」意味合いにおいて「諸物の認識に寄与するわけではまったくない」からである。『純粋理性批判』と『判断力批判』とでは「美的」の意味が異なるのである。

こうした事情を考慮すれば『判断力批判』の翻訳のさいに、その語に「感性的」でも「美学的」でもなく、「美感的」という語が充てられた理由が分かる。この「美感的」という訳語は、『判断力批判』において、一方では快という主観の感情への関連(感性的)を、他方では同時代の美学的問題系への関連(美学的)を、双方同時に示唆しつつ、それ自体が「美学」へ転化しないようにその名を忌避しようとした『判断力批判』の企図を反映するものである。このような美学の忌避は、判断力がつねに反省的契機を含まざるを得ないという困難、すなわち、美的判断の成立が主観/客観に分裂した「快」の本質的な不安定な身分を通して見いだされざるをえないという内的な困難に由来している。『判断力批判』が「快の感情」を美的なものの固有の審級として定義していたかぎりで、カント美学はたしかに成立する余地がある。しかし他方、まさにこの「快」の身分の不安定性ゆえに、『判断力批判』は同時に、美学の可能性そのもののなかで、美学に対する危機=批判的な契機を導入せざるを得ないのだ。それをカントは「崇高」の名のもとに実行しようとする。

 

「美的判断力」中の「美的判断力の分析論」は「美の分析論」と「崇高の分析論」から成っている。しかしながら、ここで美と崇高は、同等の扱いを受けていないように見える。それ自体が趣味判断の理論として提示されている「美の分析論」とは異なり、「崇高の分析論」は、カントによって、美的判断力の分析論にささか唐突に付け足された単なる付録の身分しか与えられていないのである。たしかに崇高の感情としてあげられているのは、尊敬、讃嘆、畏怖の念といったものであり、カントが「自由な愛顧」とよぶ美の純粋な快からすれば、こうした崇高の感情は、結局は道徳的なものであるような非-美的な関心と混じり合っているように見える。そもそも崇高が重視されないことには哲学史上の理由がある。プラトン以来の西洋哲学の伝統が教えるのは、崇高が美との関係において否定的に見出される限り、崇高とは単に美の反対概念に過ぎないということ、美の観念が(精神的な)内容と(感性的な)形式との形象的な合致─これこそ芸術の<理想>である─によって定義されるやいなや、崇高すなわち精神的内容への形式の不適合は、当然のことながら、固有の意味での美や芸術の契機より以前にある契機として思考されざるを得ないということである。このような形相的呈示に枠内にカント美学をとどめておくことが妥当なのかというのが本書の問いかけである。

 

そもそも『判断力批判』の課題は、判断力を、悟性からも理性からも独立した一つの能力として認めたうえで、そうした能力間における移行のアプリオリな原理として打ち立てることであった。美的判断力が直接関わる「快不快の感情」は、その純粋性において判断力の原理を立証するものとして期待されている。このことはまず、美を判定する趣味判断において考察される。「これは美しい」という判断は、「これは好ましい」といった私的な快適さや個々人の感覚感官の傾向性を満たす言明を意味しているのではない。「美しい」という判断を下すには裁判官を演じるように振る舞わねばならず、事象そのものの存在にはいかなる関心も引かれてはならない。そうすることでこの判断は、万人に妥当する普遍性を要求するのである。にもかかわらず、この普遍性はあくまで主観的である。というのも、判断が関わる対象はとこまでも個別的で特異なこのもの、一回的な事例にすぎず、この判断は客観的基準として役立つような、いかなる概念にも依拠しないからである。美的判断は「任意期にはまったく寄与しない」。こうした条件においてのみ「関心を欠いた純粋な快」は生じるとされる。

「主観的な普遍性への要求」という分裂した表現に、主観性と普遍性の分裂が表われ、この合一点を追及するのがカントの特徴であるが、その解決は美学の主観主義化をとなってしまうと批判され、そうした主観主義が『判断力批判』の企図をあらかじめ限界づけていると見なされた。

しかし、形相的呈示という美学的枠組みの外で美的判断力の可能性を探るのだとすれば、主観/客観の分裂として見いだされた判断力の可能性を探ることによって、カントの美的判断力の解釈には、もう一つのルートを用意できる。例えば、ハイデガーはカントのいう快の没関心性について存在論的な解釈をめぐらして、快の関心なきが、存在者を形相的に呈示し現前させようとするものであるどころか、そうした現前の中断の操作だということ、このような還元の後になおも残る「輝き出ること」そのものが、美と呼ばれているということである。イデア不羈な光の彼方で、いわば存在の煌めきとなるような美をハイデガーは読み取っている。

デリダはこれをさらに徹底して、「関心なき快」とは、それ自体としてはもはや「ほとんど何も残っていない」ものであり、「物も、物の現存も、私の現存も、純粋な客観も純粋な主観も、<存在するもの>への<存在するもの>のいかなる関心も残っていない」もの、実のところ「経験が不可能である」という快にすぎない。この不可能性は、カントが美の条件として特徴づけた契機のひとつ、「目的なき合目的性」という定式のうちに見て取ることができる。この合目的性は、語の定義が客観的な妥当性を要求しているにもかかわらず、美的判断の条件である限りで、あくまで主観における快の感情にしか関わるものではない。つまり、客観的な目的がない。その結果、パラドクスに見舞われる。合目的性、つまり方向づけられた動きがなければ美は存在しない。しかし、方向づけるものは欠如しているのでなければならない。合目的性なしに美は存在しない。だが、もし何らかの目的がその美を規定すべきであるとするならば、やはり美は存在しないだろう。そこでデリダは、美は客観にも主観にも、目的にも合目的性にも、そういった両極それ自体には本質的な関わりがないという。デリダが美として見いだすのは、合目的性を目的から切断する「なし」という欠如化作用そのものである。

美的判断力の契機がこうした「なしに」の否定の積み重ねのなかで、対象の形相=形式(としての目的)からの「純粋な切断」のなかで否定的に見出される限り、美はそれ自体としては際限なく後退していく。というのも、美の条件はいまや、当の対象から美を可能にするものが引き退いてゆくという作用そのものとして理解されるからである。ここに示唆されているのは、美というカテゴリーの根本的な不安定さ、壊れやすさ、脆弱さ、移ろいやすさといった性格である。この点でカントの「美的判断力の批判」は、美的対象の喪失の経験として、あたかも美に対する絶え間ない喪の作業として読まれることになるだろう。ならば、美的判断は、判断である限り、「それは美しい」といった命題を通じて、対象の述定、対象への性質の帰属を行わなければならない。他方、この判断が美的であるかぎりで、「それは美しい」と述定するやいなや、当の対象から美は退いてしまっているのであり、そこに美を帰属させることができないのである。

 

美が「純粋な切断」として認識対象から絶対的に後退することが意味しているのは、諸能力の移行の原理となるべき趣味判断の理論の真っ只中に再び大きな深淵が開いてしまうということである。実際、カントはその深淵を埋め合わせるための様々な手続きを提案している。例えば、「美しいものは道徳的に-善いものの象徴である」とされる。このような美から善への移行は人間の美的教育という議論へ通じている。美を良く感じ取ることのできる感受性を育てれば、善く行うことのできる道徳の教化に役立つのであり、美的な共通感覚と文化=教養=陶冶主義の連携が、ありうべき共同体のエートスを形成するというわけだ。しかし、カントは『判断力批判』において「美的判断力としての趣味能力の探求は、趣味の形成や開化のためになされるのではなく、たんに超越論的な意図においてなされる」と述べられていた。この「超越論的意図」は、特定の文化の善に応えるような特定の趣味の形成を目指すものではないし、両者が両立するとも限らないのである。こうした超越論的な次元で両者が問われている限り、美から善への類比は、美から善を推論することとは同じではない。この点で類比は「Aであればあるほど非Aである」というミメーシスの逆説的な構造を呼び起こす。それが示しているのは、美が善の象徴であればあるほど、善は美にとってますます決定的に到達不可能になる、ということなのである。「美しいと同様に善いものである」と唱えることは出来ても、「美しいならば、それは善い」と唱えることはできない。

崇高もまた、超感性的なものとしての理念の表出=呈示に関わっている。しかし象徴の間接的だが積極的な表出とは対照的に、崇高の表出様式は直接的だが消極=否定的な表出にとどまる。崇高の表出とは、感性的には呈示不可能という、理念への及び難さ=到達不可能性こそが、むしろそのようなものとして理念を消極的に呈示するよう促す、そうした否定の論理に基づいた表出なのである。崇高の表出は呈示不可能なものの呈示と要約されることになる。であるならば、あくまで象徴として善を間接的にしか呈示できなかった美とは異なり、むしろ善から美への移行を可能にする美的判断として、崇高は、否定的表出の論理を通して、超感性的なものの表出となるのだろうか。

判断のアポリアについての問いは、反省的判断の偏在性を経由して、美的判断の問題系へと通じている。そこで我々が見出したのは、美についての判断を可能にするものは、それ自体として美的形式をもつ対象であるよりも、むしろ崇高と呼ばれる何ものかだということである。およそ判断とは、いくばくかの美的-反省的な契機を構造的に含んでいるならば、いかなる判断も何かしら崇高でありうるのである。このことが意味しているのは、判断の崇高が、それ自体として崇高な稀有のものであるどころか、むしろきわめてありふれた事態であるということだ。判断は日々下されている。判断の崇高が、崇高についての判断の考察を通じて明らかになるのだとすれば、その帰結は次のようなものだろう。すなわち、美的かつ反省的な判断のあらゆる困難にもかかわらず、あらゆるアポリアのただ中で、しかしそれゆえにこそ、判断は日々下される。そしてそこに、崇高と呼ばれる何かがある。ここで理解せねばならないのは、この崇高が、判断の根本的な批判的精神を指示していと言うことだ。崇高の思考がそう呼ばれるに値するとすれば、まさにこの契機に照準を合わせる限りにおいてである。それは、美的であるが反-美学的である。

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