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2014年2月15日 (土)

宮崎裕助「判断と崇高」(6)

反省的判断力の構造に見られる自己立法の困難は、当初、カントの批判哲学を舞台化している「法廷モデル」によって解決されるかにみえた。しかし他方、「法廷」の形象は、カントにとって法の本質とは何かという根本的な問いを提起するように我々を促す。カントの言う法は理性法則に等しいが、それは一定の「自然法」を前提としたものであった。すなわち、ここでは「自然」が、法の範型となっている。言い換えれば、法は、自然との類比関係のもとでのみ把握されるのである。しかしカントにおいて「自然」は、つねに「感性的自然」と「理念的自然」とに分裂した形で現れる。自然が二重化したままである限り、当の範型は、理性法則と自然法則、感性的自然と叡知的自然といった諸々の二項対立の媒介ないし架橋という問題を、解決すべく抱え続けることになる。こうした媒介や架橋の問題は、『判断力批判』が明確に提起していた問題にほかならない。つまり、反省的判断力の問いである。しかし、反省的繁多戦力は、いかなる所与の法にも依拠することなく、自己自身が立法する法に依存することでしか、その不確実性のもとでしか、判断を下すことができないのである。

反省的判断力が従う法とは、定義上それ自身に先行するいかなる意味も基礎も権利も持ち得ない法である。もしそれが何か他の上位の審級に依存し、所定の判断を命ずる規定根拠をもつのだとすれば、もはやそれは反省的な判断ではなくなってしまうだろう。それは規定的な判断となってしまうだろう。我々としてはそこからさらに議論を進めて次のように言おう。反省的判断力の法とは、それ以外のいかなる他の正当化もなしに作用する法であり、要するに<法なき法>である、と。それは、律法の後に、すなわち判断力が立法し可能にした当の法の世界のなかから事後的に想定されるほかはない。したがって、もはやそれが厳密に恣意的かどうかも分らないという無法性のうちに、さらには、その無法性そのものの抹消のうちに、反省的判断力はつねにみずからの方を打ち立ててしまっているのである。その意味でこの法はいったん打ち立てられた後では絶対的な権威を持つ。これが<無法の法><法なき法>ということの意味である。判断力の法のこのような次元をひとたび考慮に入れるならば、カントの言う法そのものの意味が一変することになるだろう。

道徳法則の普遍的な正統性を基礎づけるためには、その法則の根拠となる善悪の概念が知られていなければならないように思われる。何が善いのか悪いのか、その本質が知られていれば、それを根拠として、道徳法則が普遍的に定式化することができるというわけだ。そのとき、善悪の概念は、道徳法則以前の段階で探究されなければならないことになる。しかし、カントが逆説として主張するのは、善悪の本質をアプリオリに知ろうとすればこそ、その本質は、法則そのものとして、何が善悪なのかがその内容が知られる前にさえ、はじめに規定されなければならない、ということである。

もし善悪の概念が、それに先立つような道徳法則によっては規定することができず、逆に当の法の根拠であり、法以前の段階で知られなければならないとするならば、すなわち、その基礎づけを法の外部に求めるとするならば、その基礎は、法則化し得ない、たんに経験的な根拠のうちにしか存在しないことになるだろう。結果、道徳法則は、アプリオリな根拠を持ち得ないことになるだろう。しかし、カントはこれに対して、道徳法則がはじめて善の概念を、善がその名に端的に値するかぎりにおいて、規定し、それを可能にするということを明らかにした。このような純粋な実践的法則としての道徳法則を特徴づけているのは、その形式性である。すなわち、善悪の実質的な内容いかんに関わらず、それに先立つ形式、そうした形式としての純粋な道徳法則こそ、善悪の概念を規定する。道徳法則に備わることのような純粋に形式的な特徴が、いかなる状況においても法が適用可能になるという普遍主義的な主張を基礎づけるのである。

かくして道徳法則の普遍的立法は、善悪の実質的な内容を取り去った「たんなる形式」にのみ、その根拠をもつことができる。もはや法は善に依存するのではない。何が善か悪かは、法を超えてはアプリオリに知ることができないし、知られるべきでもない。ここでは逆に、善が法に依存するのであり、そりゆえ、法は法それ自身の形式以外の何ものも根拠とすることがなく、いまやそれ自体において実効性をもつのである。法は法という「たんなる形式」をもつからこそ法であるということの、道徳的内容をもたない空疎にもかかわらず、ではなく、その空疎さゆえにこそ、カントはその形式性のうちに道徳法則の普遍的な正統化の究極的な根拠を見て取ったのであり、それ自体では何も命じることのない、この無内容な形式そのものを道徳の基本法則としたのである。

もちろんこのように理解された道徳法則は、それ自体としては抽象的な形式であり、判断力によって媒介されることがなければそれ自体何ものでもなく、実現されることもない。しかし判断力による媒介は、特定の事例において法の個々の適用に関わるだけであり、つねに有限で一回的ないしは偶然的な関係にとどまっている。それゆえ、判断力は自身の法の命令に十全に従うことができない。だからこそ、判断力は、当の法に従い損ねるという誤りの可能性を構造的に孕んでいる。しかしこのような可能性は、法そのものの不完全さを意味しない。むしろ法は、そうした誤りの可能性ないし命令の達成不可能性によってこそ、それ自身から個々の判断を隔てつつ超越し、みずからの普遍的な効力を保ち続けるのであり、そして、ふたたび判断力に対してみずからへの服従を強い続けることができるのだ。かくして、判断が自己立法することで自ら従わなければならない法は、法そのものとは一致することはできないにもかかわらず、法そのものは自らの達成不可能性のうちに、この判断力の法を予期し含んでいたことになるのである。判断力は法を実現し損ねることによってこそ、つねにあらためて実現するよう駆り立てられることになる。法の権威はこうして持続するだろう。

他方、法が命令を下し、自らの効力を発揮し得るのは、当の判断が法に十全に従うことができないという根本的な不可能性の構造に、法が負っている限りにおいてである。つまり、法の実現は、どこまでも個々の判断にその都度依存しなければならないことに変わりはないのだ。法の効力は、判断の有限性、すなわち、判断行為の一回性、偶然性、特異性によってしか存在しない。この有限性なくしては、判断すべきことは何ひとつなくなってしまうだろう。そのとき実行される判断とは、各々の判断にとっては、むしろつねに当の法を積極的に無視するというラディカルな決定でなければならないのであり、と同時に、みずからがその法に従っていたことになるであろう関係を創出するという決定でなければならないのである。そうでなければ、判断が反省的な仕方で下されることはなくなってしまうであろう。要するに判断する自由がそもそも存在し得ないことになってしまうであろう。

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