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2014年2月14日 (金)

宮崎裕助「判断と崇高」(5)

カントの言う「理性の法廷」はたんなる比喩やメタファーとして受け取られるべきではない。それを欠いてはカントの批判哲学自体が成り立たなくなってしまうような、理性批判の舞台化にとって不可欠な概念形象であるだけでない、この「理性の法廷」は、それによってこそ「法廷」一般が理解されるべき、当の語の本義を構成しているとさえ言いうるのである。カントが「理性の永遠不変な法」において「法廷」の形象を持ち出す時、問題になっている法とは、まさに日常的な意味での様々な法律の本質をなすところの法、法の一般的型式としての根源的な法にほかならない。ことき、カントにとって法とは、すなわち、理性に自己立法と裁判的権能を付与するという「法廷」、理性が当の法に従うことによって自身の批判がはじめて可能になるというこの原型的法廷を支配している法とは、自然法であると述べられている。しかし、カントの自然法概念の用法は決して一義的なものではない。ここで想定されているのは、実のところ、もうひとつ別の自然、悟性と理性とがそれぞれ立法者となるところの「自然と自由という対立を超えた高次の自然概念の見地」なのである。

自然と自由という対立は、悟性と理性という異なる立法能力によって隔てられた対立であり、両者を判断力によって媒介するという問題を招来する。ここで「もうひとつの自然」としての高次の自然概念は、いわば判断力の理念として、自然と自由の架橋に役立つべく想定されるのである。このことの例証は『道徳形而上学の基礎づけ』で提示されていた道徳法則の定式化に求めることができる。そもそもこうした道徳法則は「純粋理性の唯一独特な事実」であり、まさに「純粋理性がこの事実を通してみずからを根源的に立法的なものとして告げる」という普遍的な根本法則を証し立てている。しかし当の道徳法則の定式において注目しなければならないことは、この法があくまで「普遍的な自然法則」とのアナロジー(類比)によって提示されているという点である。それゆえ、自然と自由という根本対立を架橋し得るのは、このアナロジー、すなわち、当の対立を超えた高次の自然概念を想定することで、それを理性の法にとっての理念として役立てることができるというアナロジーの作用なのである。

『実践理性批判』ではこのアナロジーの問題は「範型論」として提示されている。そこでは、自然法則は、実践的判断力にとっての規則であり、道徳法則の「範型」として位置付けられる。感性的な現実の世界において生ずる個々の行為は、自由の法則としての道徳法則のもとへと包摂されることで、その行為の是非について判定されなければならないが、自然はこのとき、実践的な判断力にとっての手引きとして役立つことになるのである。しかしながら、それゆえにこそ、次の点は明確に強調しておかなければならない。アナロジーであれ範型であれ、自然はこのように理念化されるや否や、カントの哲学体系において厳格に二重化されるのであり、それゆえ理念的自然が、直観を通じて把握される自然(感性的自然)から峻別されるのである。アナロジーや範型といったモティーフのもとに、自然と自由、感性的自然と理念的自然といった対立についての媒介や架橋の問題が立てられるや否や、両者の異質性はますます際立つことになる。このとき明白なのは、理性の法則が、アナロジーや範型を媒介せざるをえない限りで、そうした感性的な自然のうちに実現することを直接に保証されてはいないという点である。

 

『判断力批判』の主要な企てとは、反省的判断力(の批判)を介した架橋の試みである。言い換えればそれは、悟性と理性の両側へと二重化した自然を「自然の合目的性」を通じて捉え直し、そこに働くアナロジーの作用を反省的判断力の原理として追究することであった。カントは、反省的判断力を「美的判断力」と「目的論的判断力とに分けている。後者の「目的論的に使用された判断力が、あるもの(例えば有機体)が自然の目的という理念に従って判断されるべき場合の諸条件を明確に提示する」のであってみれば、この諸条件を通じて見出されるはずの自然の目的論的な秩序は、二重化し分裂した自然にとってある統一的な全体像を提示するように思われるかもしれない。しかし、これは、カントの判断力論の枠組みに即してみる限り、構造的に叶えられることがないと見なすべきだ。目的論と記判断力はどこまでも反省的判断力であって規定的判断力ではない。「自然の合目的性」の想定は、客体の目的概念という規定的な目的概念とは異なり、理念上のたんなる反実仮想に過ぎないが、にもかかわらずそのような想定が判断力を通じて引き受けられなければならないのは「さもなければ経験が一全体をなすための経験的認識の全般的関連が生じなくなってしまう」からであり、合目的性へのこの判断なくしてはそもそも悟性の客観的認識の前提となるはずの自然の認識可能な秩序全体がバラバラになってしまうからである。この合目的性は「現実性の根拠を含んで」おらず、それ自体としてはフィクションなのだが、しかし悟性と理性のアプリオリな認識にとって自然が統一的な像を結ぶようにするために不可欠な想定である。この想定こそが、判断力があらゆる客観的認識に先立ち、合目的性の概念を介して自然の統一性をあらかじめ整序しておくための「始源の」類比作用、いわば超越論的なフィクションの作用なのである。「自然の合目的性」という超越論的概念は悟性にとっても自然概念でもなければ、理性にとっての自由概念でもなく、いうなればひとつの準概念でしかない。これは厳密な意味での概念ではなく、規定的ではあり得ない。経験的諸法則の体系的統一は客観的な目的概念としてはあらかじめ与えられていない以上、自然の統一は、その合目的性の概念によって約束されているわけではない。それどころか、合目的性の想定が証示しているのは、この統一がどこまでもフィクションでしかなく、反省的判断力によって常にあらためて試行的に発見されなければならないということなのである。この発見への要請は自らの必要によって自分自身に反省的に課されただけであるからいわば自作自演であり、本来は「喜ぶ」ようなことではないのだとしても、発見そのものは常に反省的判断力の試行錯誤による偶然的な成果に属しているがゆえに、我々はそれを僥倖として嬉しく感じるのである。

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