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2014年2月16日 (日)

一票の格差を考える、違った視点で

一票の価値を考える。以前、国会議員の衆議院選挙区において人口の差が拡がって、基本的に1選挙区から1人議員が選出されることになるため、その選挙区の代表者としての議員が何人の代表となるかについて、大きな格差が生じることになる。これは不平等であると、憲法の平等の原則に反するものだということで、全国で裁判が提起されたことについて私見を述べたことがあります

それに関連して、最近考えさせられることがあったので、ちょっとしつこいですが、また私見を述べたいと思います。

考えさせられたことのひとつは、タイでの選挙ボイコットの事件です。新聞やテレビで報道されているので、ご存知のことと思いますが、私なりに要約すると、企業関係者とか資本家などの都市部の中間階級、まあいってみればインテリ・クラスの人々を中心に、これまでタイの成長を支え政治を担ってきたのは自分たちであると、しかし、数の上ではマイノリティのため、国民の多数を占める農村部などを中心とした低所得者層がまとまって対抗されると選挙では数の上で負けてしまうことになる。それで、選挙というシステムは政治システムとして有効ではないので、ボイコットする。かなり、極端に恣意的な要約をしてしまいましたが、私はそう見ました。もしそうだとすれば、教科書的な歴史発展の理論でいえば、ボイコットしている人々は、かつては国政を担っていた人々だったけれど、いわば旧体制(アンシャン・レジーム)となった人々だということでしょぅか。つまり、それまでは国民の大多数を占めていながら、組織化が進まず勢力としてまとまることがなかった低所得者層が、一人のデマゴーグの出現によってひとつの勢力となってきた。それでメジャーな勢力として抬頭したというわけです。旧体制の人々に言わせれば、自分たちが作り上げた選挙によるシステムを乗っ取られようとしている。多分、彼らにとっては、軍政が断続的につづいた不安定な政治システムに対抗してようやく文政移管を進めるために獲得したものだったのではないかと思います。しかし、ようやく定着したときに、その苦労を掠め取られてしまう危機が生まれた、ということではないかと思います。

これは、かなり懐疑的な言い方になってしまいますが、心情的には平等ということは、政治の目標とか目的ではなくて、手段の位置にある、ということが分かります。つまりは、国の中には、複数の利益が対立する集団があり、そこで衝突が起こり、それを調停するのが政治の機能で、その時に対立するそれぞれの集団が自らの利益を主張する際、或いはその調整の際に、平等というタームが道具として使われる、そういうものであるということです。だから、タイの場合で言えば、対立する2つのグループの両方ともが平等を主張することができる。

これと似たようなことは、アメリカ合衆国における保守派の人々、ティーパーティーというグループはボストン茶会事件というアメリカの独立戦争前夜の事件にちなんだネーミングですが、その時のボストンの人々の主張していたことは「代表なき所に課税なし」という主張です。ボストンで茶を輸出して英本国に多額の税金を納めているのだから、国政での発言権を、つまりは代表として議員を送らせろ、という主張です。この裏を返せば、税金を払っていない人には代表はなくてもいいということです。ティーパーティを担っている人々は、タイで言えば選挙をボイコットしている人々と階層が重なってくると思います。政府に対して税金を払っているのに見返りがなく、税金も払えない人々に手厚く予算を当てていることに対してフラストレーションが蓄積されて来る。基本的な構造はタイと似ていると思います。

さて、ここからは、こじつけです。最初に述べた、日本で1票の格差について違憲の訴えを起こしているのは都市部の人々です。多分、タイにおいて選挙のボイコットをしている人々、あるいはアメリカのティーパーティーの人々と階層や意識は重なるところは大きいと思われ、心情としては似ているのではないかと思うのです。身も蓋もない言い方をすれば、都市部の人たちは企業のサラリーマンや自営の人々が大半で、国家や自治体への納税の大きな部分を占めているにもかかわらず、その割に政策による補助は自分たちを素通りして地方に回されてしまう。個々人で言えば、輸出で外貨を稼いでいる企業に勤めるサラリーマンは、何年もの間賃上げを我慢しながらも身を削るように働いて、名目上の収入はそこそこでも税金は源泉徴収でタップリとられて都会生活はお金がかかるので、生活に余裕は感じられない。たとえ大企業で高い地位にいても、会社がつぶれたりリストラにあったりする危険にさらされ、それでホームレスになった人もいる。そういう人に対する政策的な保護は至らない。これに対して、地方の限界集落をみれば、ほとんど収入をえる道もないような人々に役場の手厚い手当が施され立派な家に住んでいるように見える。子どもの保育園にも入れられないような境遇からみれば、不平等を心情的にもったとしてもおかしくはないはずです。そこで、自分たちに少しでも利益があるように、というときにひとつのタームとして出て来たのが平等、一票の格差ということもあったのではないか、と思うのです。さらに穿った物言いをすれば、裁判に関わっている弁護士や裁判官といった人々は都市住民の思考パターンに属していると思われるので、利害は訴訟を提起した人々と一致する可能性が高いと思います。新聞やテレビなどの報道機関や学者も一蓮托生です。

だから、現実には一票の格差が首都圏の都心部と山陰地方の選挙区との間で考えものであってこそ提起されたので、かりに東京都心と横浜市あたりの選挙との間に格差があったとしたら、そのような訴えが提起されたかどうか、かなり疑問に思うのです。一票の格差と単純に言いますが、単に数字だけの問題なのか。

もしそうなら、国会議員の得票数ということを比較してみれば、選挙区あたりの人口が2倍の格差があっても投票率が逆に半分であれば、当選に必要な得票数は同じ程度です。1人の議員が当選した背景となる票の数には、ほとんど差がないことになります。つまり、選挙区あたりの人口の計算を棄権者数を計算に入れて比較するということもありだとすれば、格差はそれほどないということも考えられます。つまりは、一票ということをどのように見るか、という視点なのです。そして、その視点は恣意的になりうる、ということなのです。だから、かりに、いま、一票の格差を問題提起している都市部の住民の人たちの中でも、決して一枚岩の団結ではなくて、多分、現時点で投票をしていない大多数の人々が、彼らと違った投票行動をとるようになった場合、一票の格差ということが言えなくなったときに、このような訴訟を起こした人たちは、こんなはずではなかったということになるのではないでしょうか。その時には、一票ということの数え方が変わってくる可能性もあると思います。

多分、いま、社会構造が変化してきて、既存のシステムが、だんだん合わなくなってきていて、さらに、そのシステムを支える基本的な考え方すらも従来の考え方を踏襲することができなくなってきている。そのひとつの裂け目として、一票の格差ということが殊更にクロースアップされてしまっているのではないかと思います。

私は、このことの実効性を考えると、それほど大騒ぎをして、憲法違反と騒ぐことに意味を見出せません。

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