無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 宮崎裕助「判断と崇高」(11) | トップページ | 宮崎裕助「判断と崇高」(13) »

2014年2月22日 (土)

宮崎裕助「判断と崇高」(12)

4 吐き気

「吐き気」は、人間の感性的経験の中で、強い拒否反応を示す感覚である。すなわち、文字通りには胃の内容物を吐き出したくなる気持ち(嘔吐感、嘔気)を指し、一般に激しい嫌悪感、不快感、むかつきを意味する。吐き気とは、感性が、一方で<健全に咀嚼しうるもの、体内化可能なもの>と、他方で<受け付けないもの、唾棄すべきもの>とを峻別するという限界の経験である。つまり、生命を脅かす危険を感性的な拒絶において払い除けようとする、危機の経験なのである。この感性的な拒絶においては理知的な推論も概念的な分析も必要とされず、一瞬にして事は決する。吐き気は、なにか異質な他者に直面したときに瞬間的に下される受容/排斥の決定、尖鋭な避妊の行為に直接関わっている。

「吐き気」が感性的な否認であるということ、これはしかし、摂食行動において人間の知覚システムや感覚器官の本能的反応として問われるような、たんなる生物学・動物生理学的な問題なのではない。「吐き気」は、人間の自然本能の衝動として生ずるだけでなく、「精神の摂取=享受」における働きとして、種々の象徴的な意味を帯びた文化現象の次元において生じてくる。カントがここで用いる「享受」という語は、『判断力批判』なおいては、主観の関心に結びついた快適さや満足の感情を示す述語であるが、それがここでは「精神の享受」として語られることで、この意味での「吐き気」が、まさに「精神」にとっての趣味判断の問いに通じていることを示唆してもいる。この感性的な否認は、趣味の問題、すぐれて審美的な経験にかかわる問題なのである。

 

「不定形」という語について、バタイユは、「不定形」の定義を示そうとする手前で、そもそも辞典とは「語の意味」ではなく「語の職能=仕事」を与えるものだという点に時点の本質を見て、「不定形」という語の定義を拒否している。バタイユは、この語を「不定形な」という意味を持つ形容詞としてではなく、「価値下落」を惹き起こす働きとして捉えることで、それが実際に使用される職能を示しているのである。そのような解釈においては、「ある物が不定形である」という判断は、たんに何か輪郭を欠いた。もやもやしたものを描写的に記述する命題なのではない。この判断は、まさにそう発話されることによって、当の物を形を備えたものに値しない、貶下すべきものとして価値づけ(価値下落させ)、既存の秩序には適合しない分類不可能なもの(分類秩序を混乱させるもの)として放逐せんとする、そのような発話の効果によって理解されるところの判断なのである。いわゆる現代アートの「不定形」な作品は、たんに形が曖昧模糊とした外見をもつということではないし、そのことを主題としているわけでもない。厳密に言って、端的に形を欠いたもの、無形のものは、作品として同定されることすらないだろう。逆に言えば、「不定形」な作品はなんらかの形を備えていなければならない。モダニズムの既存の解釈枠にとって侵犯的で攪乱的な形式をみつということ、すなわち、みずからの「内容と型式の対立そのものを攻撃することによって、その虚無と空虚を明言し、モダニズムから袂を分かつこと」、こうした性格が「不定形」な作品の最小限の形式をなしているのである。このような意味で「不定形」という語は、作品の記述的な形容ではなく、作品の価値づけ(ないしは価値下落)そのものに介入する「操作的」な概念となる。

バタイユは、さらに続ける。形を持つことが正装して身なりを整えることと見なされているのに対して、不定形なものは「蜘蛛や痰のようなもの」として描き出される。このような描写が与えられる背景には、バタイユにとって、不定形なものが、所与の価値観にとっておぞましい物、唾棄すべきもの、吐き気をもよおさせるものとの強い結びつきにおいて理解されているという事情がある。バタイユは、「不定形なもの」をすぐれて特徴づける、おぞましいもの、吐き気をもよおすもの、醜悪さに満ち、汚辱に塗られた唾棄すべきもの。その還元し得ない異質性において「不定形」の侵犯的で破壊的な力を見いだし、その力を最大限に解放しようとする。

ジュリア・クリステヴァは、このようなものを「アブジェクション」として、対象=客体の形式を欠いたもの、そのようなものとして切り離され投げ捨てられたもの、排斥し唾棄すべきものの働きとして集約した。しかし、「不定形」がバタイユにおいて語の意味ではなく、語の機能として提示されたものであり、「語のあらゆる意味で脱クラス化する価値下落作用」にこそ、この概念の破壊的な本質があるのだとすれば、クリステヴァのように「不定形」の作用をアブジェクションの主題系へと整理・要約してしまうことは、アブジェクションというカテゴリーを強化しこそすれ、このカテゴリーすらも逸脱し破壊する「不定形」の概念の真価を見定めることにはならないという批判が起こる。そこで、「吐き気をもよおすもの」から切り離してアブジェクションを思考するという主張が出てくる。このプロセスには固定的な述語を当てはめることなく、たんに力の場の中でのエネルギーとして語る、ということだ。しかし、実際のところ、アブジェクションを吐き気のような激しい感覚的な意味や実質にまったく依拠することなしに、それ自体として理解することができるのだろうか。たしかに、このような主張はバタイユの「語の職能」を呈示するという主張の実践を、単に擁護したり繰り返すことにとどまらず、現代芸術のコンテクストに即してみようとした試みであることは分かる。ただ、ここで明確にしておきたいのは、「不定形」という「語の職能」を強調し、その意味論的ないし主題論的な実質─アブジェクションや吐き気の対象─を払拭しようとするだけでは、「不定形」が行使すべき、侵犯的で攪乱的な「変質=他化」の効果は決して実現されないという点である。問題とすべきは、「不定形」の概念をひとつの超越論的なシニフィアンとして理念化することでも、それをたんに批判することでもない。そうではなく、そのような超越論化を施したとたん、ただちに「横滑り作用」によって回帰してくる意味論的なり主題論的なりの諸要素を、そのものとして受諾し、どのように働かせるがままにすることができるか、ということなのである。

« 宮崎裕助「判断と崇高」(11) | トップページ | 宮崎裕助「判断と崇高」(13) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 宮崎裕助「判断と崇高」(12):

« 宮崎裕助「判断と崇高」(11) | トップページ | 宮崎裕助「判断と崇高」(13) »