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2014年2月10日 (月)

宮崎裕助「判断と崇高」(1)

まえがき

カントは『純粋理性批判』の「原則の分析論」において、どれほど知識を備えた学者であっても、いざ実行する段になって、判断力という能力が欠けていれば、愚鈍に転落してしまう、と述べている。判断力とは、知っているにおいてでなく、それを用いることにおいて発揮される能力であり、それ自体は教育不可能な何ものか、ともかくも「熟練している」しかないものなのである。実際、与えられた知識や情報、出来合いの解説やマニュアルの類に頼ることができないというまさにそのときにこそ、すぐれて判断力が必要になるのだとするならば、そのととき、人はどうすれば正しく判断することができるのだろうか。そうした判断への問いは『判断力批判』が出発点に据えた中心問題となる。

カントは『判断力批判』において、この問題を、政治的な判断や決断の問いとして立てるようなことも可能であったにもかかわらず、「美的=感性的なものを」めぐる問いとして提起している。カントのこのような問いかけは、20世紀の戦後フランス思想の文脈で生じたカント解釈の系譜と合流する。その解釈によれば、カントの思想は、通例見なされてきたような理性主義や啓蒙主義の哲学には到底収まりきらないのであり、むしろそれが理性の限界への問いかけとして立てられたということを重視する。こうした解釈の試みは、カントのうちに、たんなる理性主義どころか、そのような理性主義が孕む、理性の法そのものの狂気や苛酷さを浮かび上がらせようとするだろう。本書が判断への問いを通して追及することは、さしあたり、カント美学に固有の問題にとどまっている。しかし最終的に目論まれているのは、「カント美学のポリティックス」というべき問い、すらわち、カント美学の問題圏に胚胎していた「判断力の政治」への問いの所在を発見することであり、その問いの射程を明確にすることにほかならない。

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