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2014年2月12日 (水)

宮崎裕助「判断と崇高」(3)

Ⅰ 判断─反省的判断力から美的判断力へ

1 判断力の法

判断するとは、所与の事例、事件に対して法を適用することである。法が事例に対して超越しており、法が事例よりも包括的で一般的であるという関係のもとで、判断は下される。法が既に与えられており、事例をその下に包摂するだけでよい判断(規定的判断)に対して、カントの『判断力批判』がまずもって問題とするのは、反省的判断、すなわち、ただ特殊な事例だけが与えられていて、それを判断するための法(普遍)を見いださねばならないというそのような判断である。

判断の規準として役立つこうした法を見いだすのに、ひとは単純に、何らかの範例的な事例に頼ることができる。しかしそれらは範例とは言え、どこまでも特定の事例であることには変わりがない。それらは結局のところ、その都度の比較のうちに「より適切な」範例によって置き換えられる余地がある。従って、判例となる基準が相対的であるかぎりで、当の判断は、暫定的なもの、不確定なものにとどまり続けざるをえないのである。

そこでひとまず次のように言おう。哲学の課題とは、こうした相対的基準の不確定性を断ち切り、つねに確実な判断を下すために、ひとつの究極の基準、それ以上のいかなる代替的な基準をも受け付けない絶対的な法を確保しようとすることである、と。『判断力批判』の主題をなす判断力が、そもそも哲学的活動の核心にあるのだ。反省的判断力は、みずからの判断基準、判断の法(普遍的なもの)そのものを自分自身で発見しつつ判断を下すのであるが、それがひとつの超越論的原理にとどまる限りで、当の法は相対的であってはならず、当の判断は普遍的でなければならない。したがって、哲学が、あらゆる相対的な基準を乗り越える普遍的な法を確立しようとし、そのような法の法、普遍的な法そのものとして自らを呈示し、判断を下さなければならないのだとしたら、それは、まさに反省的判断力の働きによって達成されるのだと言えないだろうか。

 

反省的判断力に含まれる「反省」とは何を意味しているのか。反省的判断力が、自身の判断の法をみずから見いだすことにその特徴があるとするならば、当の「反省」とは『純粋理性批判』の定義に従えば、自身の法としての「主観的条件を発見するために」備えている意識の働きを指し示すことになるだろう。それゆえ要点は、主観的条件の発見を可能にする当の主観自身の働き、つまり、みずからがみずからに問い返すことでみずからの条件を法として見いだす、そのような自己再帰的=自己反射的な働きである。

『判断力批判』の序論では、判断力は「悟性と理性の中間項」として規定されていた。ここでは哲学一般にとっての諸概念の領野が、それを通して我々の認識が可能になる部分として「地盤」と呼ばれており、「これらの概念がそこで立法的である部分は、これらの概念と、これらの概念に対して権限を持つ認識能力の領域である」とされる。この「領域」は、当の認識能力(悟性と理性)の二つの領域、「自然概念」と「自由概念」との二領域に分れる。悟性は、自然概念による立法能力、すなわち自然(感性的なもの)に対してアプリオリな理論的法則を与える能力であり、他方、自由概念による立法能力、すなわち自由(超感性的なもの)に対してアプリオリな実践的法則を与える能力である。このとき問題は、悟性と理性が対称的であるがために、両者の二つの領域は、互いに排他的な関係をなすという点である。哲学という「地盤」のうえで、悟性の側と理性の側のあいだには見渡しがたい亀裂が走っており、哲学の地盤を二つに引き裂いている。判断力が「悟性と理性の中間項」と呼ばれ、『判断力批判』がそれを探究しようとするのは、まさに判断力がこの亀裂を埋め両者を繋ぐことによって、カントの批判哲学の体系を最終的に完成させるものとして期待されているからに他ならない。しかし、この位置づけが判断力に独特の性格を付与することになる。

判断力について批判の超越論的探究が企てられている以上、判断力にはさしあたって悟性や理性と並んで「アプリオリに立法的な能力」としての地位が認められている。しかし判断力は結局のところ、悟性や理性ほどに積極的な立法能力たることはできない、悟性と理性にはそれぞれ固有な立法の領域(自然概念と自由概念)を有しているのに対して、判断力はそうではない。

つまり、判断力の位置づけは、哲学という地盤の上で悟性と理性の二領域を分かつ「亀裂」そのものの領域、つまりは分割線や境界線それ自体という危うい領域を占めるに過ぎない。この領域ならぬ領域の上で、判断力は、(まさに「反省」として)自分自身に対して「たんに主観的にのみ」消極的な立法をなすという意味で、脆弱な能力にとどまっている。しかしながら、判断力は、この脆弱さゆえに最大の力を発揮するのだ。すにわち、この弱い自己の能力は、どこにも拠り所がなく固有の領域を持たないからこそ、かえって架橋ないし媒介の原理として、哲学のあらゆる場所に偏在することができ、融通無碍に介入することができる。カントは、この反省的判断力の自己立法を、悟性や理性の自律的立法と区別して、「自己自律」と特徴づけているが、それが示唆しているのは、悟性や理性のような確固たる立法能力ではなく、つねに移行状態で揺らいでいる判断力の立法、すなわち、主観的な反省にしかみずからの根拠をもたない脆弱さのうちでこそ、みずからが存続するために絶えず判断を再開するのであり、そこに見出されるのは、こう言ってよければ、その弛まざる反復によって立法の可能性そのものを切り開いてゆくような、そうした試行的な立法の姿であるだろう。

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