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2014年2月21日 (金)

宮崎裕助「判断と崇高」(11)

「数学的崇高」の章では、構想力が感性に及ぼす影響について説明されている。事物の大きさの美的評価に当たって。構想力の二つの働きを区別している。一方は、対象を部分表象においてそのつど直観に受け入れる働きであり、これは「把捉」と呼ばれる。この働きはひとつの前進の過程として、空間的大きさを時間継起において少しずつ捉える働きだと言える。他方は、把捉された対象の諸部分を全体表象において一挙に直観に受け入れる働きであり、これは総括と呼ばれる。把捉は無限に進行するが、総括には限界があり、そのとき構想力がそれ以上に進むことのできないある最大の大きさに突き当たる。カントはピラミッドの例を挙げている。ピラミッドの雄大さに感動するにはある程度近づかなければならないにもかかわらず、近づき過ぎた場合には美的=直観的に最大の基本尺度内に収まらなくなってしまう。

把捉と総括のこうした区別は、実のところ、そう簡単なものではない。まず両者は別々になされるわけではなく、構想力の美的呈示にとって複合的な操作である。把捉はそれだけでは対象の部分を直観的に受容する働きでしかなく、当の対象の大きさの評価に結び付くことがない。把捉された諸部分は、総括の働きによってひとつの全体へ集約されて統合される必要があり、時間系列に沿って把捉を前進的に続けていく場合でも、対象に対してそのつど把捉に応じた大きさが想定される限りで総括が行われるのである。そうでなければ把捉が無限に進行すると述べること自体が不可能になるだろう。

ただし、カントは「総括」を二種類を想定している。「論理的総括」は把捉に随伴しつつ時間系列に沿って無限に進行する。つまり、個々に把捉された対象の直観を、数の概念に即してひとつの時間系列へと統一するものである。他方、美的総括は、概念なしに把捉された諸部分を統一しようとする。把捉された諸部分を概念に即して時間継起へと系列化することはない。それは把捉の系列を中断し、直観の受容能力が許す限りにまで、一瞬間へと圧縮して呈示しようとするのである。この一瞬、構想力は直観の形式である時間条件から逸脱し引き退くことになるのである。構想力のこの背進は、把捉の時間継起をたんに逆行することではなく、この時間継起を時間の内部から断ち切って把捉の系列を一瞬へと還元しようする。それは、美的退隠とでもいうべき準-超越論的な瞬間を指し示す。

構想力が時間継起から一瞬引き退くこのような美的背進は、感性のアプリオリな形式として時間流れを中断するように働くがゆえに「構想力は暴力をふるう」と言われている。だが、総括すべき対象の大きさが「美的=直観的に最大の尺度」の範囲内であれば、論理的総括の場合と同様、美的総括も把捉の連続的な時間継起と両立し続けることができるのであり、当の「暴力」は潜在的なものにとどまる。この「暴力」が顕在化するのは、総括される直観の大きさが構想力の呈示能力の限界に接近してくるときである。この暴力は、構想力がひとつの直観のうちへと総括する量が大きくなればなるほど、ますます顕著になるのであり、ひとたびリミットを超えてしまえば、構想力が把捉された後続する部分を受け入れてしまう前につねに先行する部分が一部消滅してしまう。このことから帰結するのは、構想力が、把捉としては無限に前進し続けながら、総括としては美的呈示の限界で背進を引き起こすことによって、把捉と総括とのあいだで二つに引き裂かれてしまうという事態にほかならない。

この議論の要点は、美的総括としての構想力の暴力が、構想力が自らの能力のリミットにさしかかる局面において最大化しそれ自体として突出してくるということである。だがそこから強調されなければならないのは、次の点だ。すなわち、このような暴力の最大化を美的総括の顕在化として取り出しうるとしても、それは、構想力が自ら総括し得る直観の最大量にまで酷使されることで、自身の限界を超えてしまい、その結果当の総括に失敗するかぎりにおいてであるという点、つまり構想力の総括的暴力は、そうしたリミットの侵犯と超出において構想力自身の抵抗に出会うという点である。結局のところ、構想力が呈示しようとして呈示できなかった絶対的な全体の理念であり、総括の暴力に対する反作用とみなされるべき理性の力である。このようにして構想力が感性にふるう総括的暴力は、総括のリミットにおいて構想力を自分自身のうちに逆戻りさせるような対抗暴力に出会う。それが構想力の無能を暴くと共にその能力を増幅させるような心の拡張や努力を促す。これが崇高と判断される美的感情に他ならない。

 

構想─暴力が指し示すことになるのは、次のような事態である。まず、崇高なものの呈示において、理性と感性のあいだを媒介する構想力の働きがある。構想力は、媒介者のかぎりでは感性(下級能力)と理性(上級能力)に対して自律的な地位をもたず、感性(直観の受容性)の補足的で代理的な従属物にすぎない。だが、カントの崇高論は、感性が理性に対して取り結ぶ関係を、さらには、理性理念をその呈示不可能性によって呈示するという感性の能力を、構想力の自己犠牲の過程として描き出す。これは、構想力の或る種の自発性なくしては説明されえないような、暴力の自己反照的な構造として説明できる。すなわち、構想─暴力は、構想力の呈示能力のリミットとの関係で、次の三段階に整理できる。(1)みずからのリミットを超えつつある瞬間に最大限に働く、構想力が感性的条件を廃棄するという総括の暴力。(2)構想力がみずからのリミットを超えて呈示に失敗するという構想力の自滅的な暴力。と同時に(3)その犠牲を梃子にして当のリミットそのものを高めるという構想力の自己構成的な暴力。構想─暴力は、構想力が、自己犠牲の論理を介して、理性への適合ないし理性理念の呈示に向けてスパイラル状に自らを増強していく三重の構造によって理解されるのである。このような構造のひとつの帰結は、それが『判断力批判』において「趣味の形成と開化」と呼ばれるものの一種の超越論的な原理を説明するということである。というのも、「趣味判断」には、構想力が最大の自由において自らを増強していく諸段階がすぐれて描き出されているからだ。かくして文化的経験の進行の核心には、つねに美的暴力としての構想─暴力が、構想力を破滅と再生の試練に曝す犠牲の過程があることになるだろう。

そして、最後に付け加えるべき洞察はこうだ。たしかに構想─暴力の構造は、構想力が理性への適合にむけて構想力を高めるという自己形成の論理(文化の超越論的原理)を説明している。しかしそうであるべきとするならば、これは、構想力自身がそのような原理から逸脱しこの原理をいっそう致命的に破壊しかねないような威力、構想力の根本的に統御不可能な威力をも、この構想─暴力が高めているのだというかぎりにおいてなのである。このような意味においてこそ、構想─暴力は、構想力に対して構成的であるとともにどこまでも破壊的であるような二重の自己暴力だと理解しなければならない。

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