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2014年2月20日 (木)

宮崎裕助「判断と崇高」(10)

カントの崇高論には、理性の卓越性に由来する超感性的な作用を「暴力」という言葉を用いて記述している箇所がある。この暴力性は、理性という超感性的能力が構想力という感性的能力に緊張を強いることで、感性にとっては直接には「不快」と感じられる。しかし、崇高の感情にとって重要なのは、こうした暴力がたんなる破壊的な脅威として反発的に感ぜられるだけではなく、理性理念との関連における誘引作用、つまり「同時に魅力的でもある威嚇的なもの」を伴っており、「不快を介してのみ可能であるような快」としても感ぜられるという点である。暴力は、理性と感性の齟齬において構想力を挫くのみならず、その失敗をバネにして構想力を理性に匹敵するものとして増強し、「ひとつの深淵である無限なもの」としての理性理念の呈示へと駆り立てる。

「力学的崇高」についての章の冒頭では、暴力という語は「勢力」との対比で次のように定義されていた。「勢力とは、大きな障害を凌駕している能力である。この勢力は、それ自身勢力を有しているものの抵抗をも凌駕している場合は、暴力と呼ばれる。自然が美的判断において、われわれにいかなる暴力も行使しない勢力と見られるなら、この自然は力学的に─崇高である」自然に備わる勢力が、それに直面した我々の構想力の抵抗を凌駕し打倒してしまう時、それは暴力へと転化する。崇高なものの呈示の成立にとって、ここでは暴力は、たんに消極的な役割しか果たしていないように見える。自然の勢力から暴力的な契機が引き去られたときに、崇高が認められているからである。しかし、ひとたび心の諸能力にとって純粋に美的な観点に立つならば、崇高な感情が生じる構造にとって、このような自然の勢力は、まず「暴力的な」ものとして現象しなければならないことが分かる。カントが強調しているのは、自然の勢力の現象とは「われわれが安全な状態にありさえすれば、恐るべきものであればあるほど、かえってますます心を惹きつけるようになる」ということである。そうしたものとして「恐るべきもの」が心の平静を侵害する場合、それは「恐るべきもの」であればあるほど、その勢力の現象性において、かえって心はそれに惹き付けられ、魅力を感じるようになるのだ。「そしてわれわれはこれらの対象をすすんで崇高と呼ぶ」。こうした自然の勢力は、「恐るべきもの」として心を動揺させ、その都度われわれの心的な能力の抵抗を凌駕するという点で、暴力として機能している。ここ問題になる暴力は「恐れを抱かせる」暴力ではなく、いわば「恐るべきもの」の美的暴力だということができるだろう。つまりは、自然がたんなる物理的暴力を行使しないかぎりで、なおも美的判断にとって暴力として現象するところの自然の勢力なのである。

かくして暴力は、崇高なものの呈示によって、感性を脅かし構想力の無能さ暴くという否定的な働きであるのみならず、まさにその働きにおいてこそ牽引かつ魅了し、その能力の限界にまで拡張し高めるという積極的な働きを担う。この意味で暴力が、崇高にとって不可欠な構成的価値を持つ。構想力に対するこの二重の暴力は、我々のうちに別種の抵抗能力を発見させ、それがそうした暴力に匹敵できるような勇気を与える。この抵抗能力は(実践)理性を示している。というのも、崇高の感情は道徳感情と似た心の情調=気分に結びつくとカントが述べるように、崇高なものの暴力が、理性の法(道徳法則)としての超感性的な理念の呈示へと構想力を駆り立てるからである。この点で自然の脅威としてその勢力の現象性において見出されていた暴力とは、自然そのものの暴力ではなく、結果的には「自然の表象のうちへと崇高性を見いだす心構え」に由来するということ、つまり「理性が感性にふるう暴力」なのである。そこには、構想力の媒介をつねに必要としている。この暴力は、構想力の限界を暴くとともにそれを拡張するように働く暴力、つまりまずは構想力への暴力として作用するという意味で、理性と感性のあいだでいわば間接的に作用する暴力である。これは、道徳的な感情として理性が感性に直接及ぼす作用からは峻別されなければならない。そもそも崇高なものの判断は、定義上美的かつ反省的な判定である。すなわち、判断する対象の概念にも主観の特定の関心にも依存しない純粋に感性的な判断である。それゆえにこれは、道徳法則に即して合目的的で規定的な判断ではないということ、対象をその概念によってアプリオリに善いものと規定するような道徳判断なのではないのだということを含意している。崇高なものについての判断と善いものについての判断とのこうした根本的な相違が、崇高の感情と道徳感情とを区別するのであり、理性と感性の間の関係や理性が感性に及ぼす作用は、崇高の感情と道徳の感情とでは互いに異なったしくみを持つのである。

構想力における崇高なものの暴力を次の二つの意味で理解しなければならない。(1)構想力に対する暴力。すなわち、理性が構想力に振るう暴力、構想力をその限界で挫折させる(破壊的)と同時にその能力を増強する(構成的)ように働く二重の暴力である。(2)構想力による暴力。すなわち、前者の意味での構想力への暴力は構想力に内的緊張をもたらし、そのことと連動して構想力が「理性の道具」として感性に対してふるう暴力である。その暴力が感性にとって単なる不快ではなく、構想力を介して理性理念の呈示へと感性をつなぎ留めるかぎりで「不快の快」と感じられる。

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