オリンピック雑感
先日、冬季オリンピックが閉会しました。日本から容易に行くことができない土地柄のゆえにテレビ観戦ということになり、さらに、時差の関係もあって深夜から未明となったテレビ中継を見るために寝不足に見舞われた人も多かったようです。私も、録画による番組がほとんどでしたが、いくつかの競技中継を見ていて、いくつか思ったことがあったので、少しここでお話ししたいと思います。もとより、私は少しひねくれたところがありますので、読んでみて違和感とか不快感を持たれる場合もあると思いますので、その時は勝手なことを言っているとご笑覧ください。
まず、ひとつはテレビ中継における競技の伝え方とか、その姿勢─最初から、かなり大上段に振りかぶった言いようですが─についてです。これは、仕事でIRなどという企業の本質を伝えることに従事していたので、そういう視点で見てしまうことがあるので、仕事をする者として中継している人たちのことを考えたということです。私は全部の中継を見たわけではないので、一部を見て言っているのですべてにあてはまるわけではないでしょうが、テレビ中継放送は実況アナウンサーが画面に映っていることを説明し、もうひとり競技団体の偉い人が解説者として競技の解説をしている、というものです。いくつかの競技の中継を見ていると、解説者の人が日本選手の姿が映し出されると解説そっちのけで応援にまわってしまう事態をよく見かけました。とくに、コーチや役員が解説者となっている場合、選手の姿に「よし!」という声を発したりしていた。このときの解説者というのは、誰に対して何をしているのか、どう考えているのか、すごく曖昧に見えました。もっと端的にいうと、この人達は解説者という仕事をしているのか、ということを感じました。
まず、選手の姿に「よし!」と言うことは、選手に対して言っていることで、それはテレビで言うことではありません。それをいうならば、練習の場、あるいは競技会場で実際にプレイしている選手に声をかけるべきことです。つまり、テレビ中継で視聴者に向けて話をしているということが、まったく考えられていない。まあ、庶民がテレビ中継の映像を見て「いいぞ」とか「いけいけ」とか声を出すことがあります。百歩譲ってそんな感覚であるとも考えられます。だとしたら、そんなものは解説ではないわけで、とくに解説者としてその人がいなくても別にかまわないわけです。スポーツ中継とIRは別物なので、同じもののように話すのはどうか、と言われるかもしれませんが、IRの場で企業のことを企業の外部の投資家の人たちに分ってもらう、あるいは投資してもらうために企業の説明(解説)をしようとするときに、企業の従業員に向けて話すことをそのまま話したとしたら、そのIR担当者は資質を疑われるでしょう。また、企業の説明をするという立場を忘れて話をしはじめたら投資家は呆れてしまうでしょう。
また、とくにフィギアスケートの中継で解説の人が技の名前を逐一追いかけて言うだけということも多くあります。実際の中継を見ていると、私にはそれは単に邪魔でしかなく、競技を理解したり面白く見る参考とは到底なっていないのです。ここで、そもそも論を独断で話しますが、解説者というのは何のためにあるのか、ということを考えてみたいです。オリンピックの競技というのは、多くの場合一般的になじみが薄く普通の大多数のテレビ視聴者は競技のことを良く知らない、ということが前提になっていると思います。そこで、その競技とはどのようなものか。そして、競技を興味深くみてもらうための助けとなるようなことをコメントしていく、というものではないかと思います。しかし、フィギアスケートの解説を聞いていると、この競技の魅力とは何か、ということを視聴者に分ってもらおうという視点で話をしていたのか。私にはそうは思えませんでした。例えば、技の名前をひとつひとつ言われても、それがどのような技なのかも分らないし、同じ技をやっていても競技者によって点数が違ってくるのか分らない。これが分からないと競技の趨勢も見えてこないで、単に各競技者の演技を漠然と見ているだけで終わってしまう。これでは、表面上を上滑りしてしまうようなもので、フィギアスケートという競技そのものの面白みがわかって、その競技のファンとなることもないだろうと思います。現時点ではオリンピックでメダルを獲得できそうな有望選手がいるというだけで、そのメダルを獲得するところを見ればいい、そうすると翌日職場や学校で世間話の話題に事欠かない、と言う程度で終わってしまう。多分、解説者というのは競技団体の偉い人がやっているので、その競技を広く人々に理解してもらうには絶好の機会であるはずなのに、そこでそんな考慮が全く見られないことをやっている。これには異論はあると思います。もし違うということがあれば、それに見合った解説というのが実際に為されているのか、ということです。例えば、女子フィギアで浅田真央がショートプログラムでメインの大技を失敗し、翌日のフリーで奮起したことが感動のストーリーとして作られましたが、本気で勝負に勝とうとしているなら、メインの大技の成功率が高くないということはある程度分っているのだから、リスク管理として失敗した時の戦略は当然たてられていたはずで、そのときに何をするかは想定されていたはずです。競技者本人の浅田が失敗のショックで真っ白というのは仕方がないにしても、周囲のコーチやスタッフはその戦略があったはずで、解説者にしても解説をするくらいの人ですから、その程度のことは分っていたはずです。そういう説明は全くなく、選手にはベストを尽くしてもらう程度のことしか語れない、となると見ている人の競技に対する競技は冷え込んでしまうのではないか、と私は思ってしまう。だから、テレビ局としては浅田真央の立ち直って本人の言う“悔いのない演技”というナニワ節的な感動ストーリーを仕立てるしかなかった(それが人びとにウケたのは事実ですが)。でも、これでフィギアスケートというスポーツそのものの理解とか支持が進んだのか、どちらかというと浅田真央というキャラクターへの支持が高まっただけだったのではないか、と私には思えます。正直なところ、浅田真央のフリーの演技は、私のようなフィギアスケートに詳しくないものの目から見れば、たしかにジャンプを大きく失敗することはありませんでしたが、グランプリシリーズなど他の時の演技との違いを見分けることができず、演技そのものは同じようなものにしか見えませんでした。たとえば、放送画面を操作して、NHK杯の演技映像を取り換えて挿入しても、そうとは気が付かない。オリンピックの演技のどこが違うのかは全く解説されませんでした。ただ大きく違っていたのは、演技終了後に浅田真央が感極まって涙を流していたことくらいです。会場にいれば、その雰囲気で感激するということがあるのでしょうけれど、距離が離れ、空気が違うテレビ画面で冷静に見ていれば、その光景はシラケるだけで、演技の中身でも分らないと、シラケはますます進んでしまうものです。
この辺りは、企業IRの現場では、企業の事業や戦略を理解してもらおうと、ストーリーを考えて業績や資産状況の背景や由来を説得的に説明する試行錯誤をくりかえしていたとは正反対に思えました。べつに自分ことを称揚するつもりはないです。ただ、分ってもらうということにたいして真剣だったかどうか、ということです。IRの場合は分かってもらえないと投資してもらえない。いわば企業の生死を賭けてやっているので、真剣にならざるを得ないのです。多分、スポーツ中継には、そういうものが直接やっている人には見えてこないのでしょう。
これは、解説者という人々に特に目立ったのですが、誰に向けて、何を伝えるのか、という本質的なことが全く不明瞭で、現場は一生懸命やっているのでしょうけれど、姿勢が見えないものだった、というのを感じました。
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