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2014年2月27日 (木)

宮崎裕助「判断と崇高」(15)

カント美学にとって美と崇高の間の区別は依然として根本的なものだ。美の形式の表出には崇高の論理が介在するという意味で、美のうちに崇高なものが見いだせるのだとしても、美に対しては何らかの感性的対象がその形式を与えなければならない一方、崇高はその根拠を主観の側の「心構え」のうちにしかもたないという点で、美と崇高はやはり峻別されなければならない。しかしそれにもかかわらず、カント自身も問題としているように、芸術美の観点、さらには芸術作品の創造者である天才についての観点から美的判断の対象を考察するならば、こうした美と崇高の区別は限りなく曖昧になって来るのであり、むしろその創造の原理は、崇高の表出論理をモデルとしていることが分かる。

美しいものは、何らかの与えられた感性的対象を前提としており、その形式を判定し鑑賞する能力(趣味)しか必要としない。他方、当の感性的対象を、美術や芸術表象として産出すること(美的理念の表出)は、天才の業であり、そこに介在するのはやはり崇高の表出論理なのである。以上のような仕方で、カント美学に明示的に見出される強調点を転倒させること、すなわち、美に対して崇高を、自然美に対して芸術美を、その鑑賞者に対して創造者を強調すること、結局のところ、崇高論を、カント美学の表象体系を組織する超越論的原理として位置付け、その弁証法的論理によってカント美学のアポリアに対して一定の解決を見いだしていくことは、『判断力批判』の論述構成を逸脱する可能性もある。これはヘーゲルへの歩み寄りになってしまう。しかし、それがすべてではないのではないか。カントのテクストがとどめている論述の不完全性は、弁証法の縫合可能ないし縫合すべき綻びとして与えられている以上に、その弁証法の論理そのものに即して、その限界を内側から画すような形象を書き込んではいないか。つまり、その表象体系には取り込まれないもの、ひとつの<表象不可能なもの>としてすら取り込まれない絶対的に表象不可能なもの、この取り込みの作用そのものを拒否する、もはや美でも崇高でもないものを記しづけてはいないだろうか。それが吐き気なのである。

美的判断にとって、定義上、美は快として、醜いものは不快として表出されるが、美術は醜いものを媒介することで、その否定的な感情を芸術美の快(崇高なものの「不快の快」と論理的な同型物である)へと転化し吸収することができる。しかし「吐き気をもよおさせるような醜さ」だけは、そのような転化の運動を徹底して拒否するのだ。「吐き気」に結びついたこの醜さ、この不快のなかの不快の表象は、それでもなお、ひとつの感情の享受として生じている。しかしこの感情があまりにも「異常で、まったく想像に基づく感覚」として、激しく我々の感性に突き刺さってくるものであるがゆえに、あらゆる媒介によって不快を快の体系のうちに取り込もうとする我々の表出能力のどんな暴力をもってしても、それを制圧することはできない。だからこそ、この感情は、純粋な嫌悪を惹き起こす感情として、まさに端的な否定性=消極性そのままで、我々に享受を強要してくると言われるのである。それは、絶対的に否定的な感情、どこまでも反発や唾棄しかもたらさない感情なのである。

デリダによれば、このような「吐き気」の純粋に否定的な感情は、美的な表象体系そのものに反発し、不快を快に転化しうる表出の論理そのものを拒絶するように働く。そのようなものとして当の体系から「吐き出されたもの=反吐」は、体系の絶対的な他者として端的に働く表象不可能なものであるだろう。もはや「表象不可能」とさえ言えないほどまでに全面的に不可能なものだろう。それは、体系の他者として超越論化することや理念化することさえもできないような全き他者である。「この不可能なもの、それは何らかの事物、すなわち感覚可能なもの、理解可能なもの、何らかの感官や概念にもたらされるであろうものである、と言うことはできない。もし言おうとすれば、それはこれこれという意味の下へ、しかじかの概念の下へ落下することになるだろう。ひとはそれをロゴス中心主義的な体系のうちで名指すことはできない。体系としては、それを吐き出すしかなく、そこにおいて自ら吐き出すしかない。それは何かと言うことさえできない。そんなことをすれば、反吐を食べ始めるあるいは絶対的に違うことではないのだが、反吐を吐き出し始めてしまうだろう」。

こうした「吐き気」のようにカント美学の表象作用を構成する崇高の表出論理のただ中にあって、まさにその内側から崇高論の臨界点を指し示している感情を、我々は「パラサブライム」と呼ぶ。

では、「吐き気をもよおさせるような醜さ」とは、実際にどのような醜さなのだろうか。「吐き気」が、ある絶対的に否定的な感情と見なすのだとすれば、相対的な不快、快に転化し得る不快と、吐き気の絶対的な境界線はどこにひかれるべきなのだろうか。しかし、そうした問いの対象自体が、そのような問いを拒否するだろう。「反吐」が絶対的に表象不可能なものも本来命名すら不可能なものとして否定的にしか理解しようがないのだとすれば、それを吐き出す「吐き気」の絶対的な嫌悪の感情は、決して相対的な不快からの連続的な程度の違いとして理解されるべきものではない。それは、まさに出来事として、不快の絶対性において端的に生起するしかないものであり、それ以上の規定は受け付けないはずのものだからだ。

吐き気は、いわば「超越論的な吐き気」としの絶対的な否定的感情の極によって定義されながら、他方ではつねにひとつの享受として、特定の感情として現れざるを得ない。吐き気の究極的な対象は、まさにそのような絶対的な否定性の極そのものなのである。かくして「吐き気」はつねにあらためて、相対的で個別的で特定の否定的な感情として、吐き気とは別のものが入り混じった不純な感情の数々として回帰する─不快である。不安である。気持ちが悪い。気色が悪い。気味が悪い。うっとうしい。おぞましい。厭悪する。忌み嫌う。嫌忌する。忌避する。嫌気がさす。疎んじる。うんざりする。気に入らない。気に食わない。鼻持ちがならない。胸糞が悪い。悪心がする。むかむかする。むかつく。キモい。ウザい。キショい。唾棄する。反吐がてる。虫唾が走る─等々。

 

「吐き気をもよおすもの」─アブジェクション─は、バタイユからクリステヴァへと至る系譜において「不定形なもの」として見いだされた後、ボワとクラウスによって、形式/不定形の問題系そのものから放逐されたのだとすれば、カント美学においては、美と崇高の差異をめぐって、依然として「形式」との関連を保ちつつ、いっそう複雑で否定的な契機として現れる。そこで美は、形式そのものが解きほぐれる形式によって説明される一方、崇高は、美の不定形性を否定的に形式へと媒介する論理によって理解されることになる。崇高は、美の不定形な形式を表出し、美的型式の可能性の条件をなすのである。だが、吐き気は、崇高による美的表出の論理、すなわち、不定形を形式へ、不快を快へと内化する表象の弁証法的作用そのものを拒絶する。パラサブライムというべきこの「吐き気をもよおすもの」は、そのとき、美的表象の体系から吐き出されたもの<反吐>として、形式でも不定形でもない反美学的なもの、つまり、絶対的に形式化不可能な<怪物的なもの>である。しかし吐き気が、主観にとって享受可能な感情である限り、当の「享受を強要する」かのように「強烈な生命感覚」として、さまざまな様相のもとで、主観のうちに回帰してくることになるだろう。吐き気は、みずからを超越論的なシニフィアンとして理念化することの可能性そのものを吐き出すのである。したがって、そうした意味ではたしかに、吐き気は、個々の文脈でそれぞれ限定的な負荷を担った歴史的な形象として主題化すべきものとなる。

カントの崇高論を子細に読み進めて行くと、表出不可能ないし超越的なものを否定的に表出するという、快と不快との、牽引と反発との弁証法的緊張による「感動」において崇高の感情が特徴づけられているだけでなく、まさにこうした弁証法的な運動そのものを宙吊りにするような「無感動」すらも、カントは崇高のうちに数え入れていることに気づく。「諸理念による諸力の緊張」がもたらす「熱狂」の心の動きに対比してカントが言うのは「偏印市内自らの諸原則に決然と付き従う心の無情動すらも崇高であり、しかもはるかに卓越した仕方で崇高である」。その理由をカントは「この無情動が同時に純粋理性の適意を自らの味方に持つから」と素っ気なく述べるのだが、純粋に美的な観点に即して、それが「奇妙に見える」にもかかわらず、なぜそうした無感動すらも崇高に含めなければならないのかについて、カントは必ずしも明らかにしているとは言い難い。だがここには、まさに崇高の表出の論理のただなかで、その弁証法的な論理そのものに介入する、ある種の受動的否認、ミニマルな感性的拒絶というべき、感覚の微細な動きが認められるのではないだろうか。それを「無情動な吐き気」と呼ぶことは不可能だろうか。おそらくは、あらゆる感覚に開かれることでむしろ最も研ぎ澄まされた無感覚として現れてくる冷酷さ、静謐にして晴朗でさえあるような「吐き気」として。カントが続く頁で「すべての社会からの離脱もなにか崇高なものとみなされる」と記すとき、そこに語られているのは、そのような「吐き気」の何事かであるように思われる。

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