無料ブログはココログ

« 一票の格差を考える、違った視点で | トップページ | 宮崎裕助「判断と崇高」(8) »

2014年2月17日 (月)

宮崎裕助「判断と崇高」(7)

2 判断の崇高

この課題から人はカントの『判断力批判』の主要な問題群に踏み込むことになる。カントがこの企てを実際に軌道に乗せることができたのは「美的判断」をめぐる探求の意義を見いだしたことによってであり、「美的判断」こそ、反省的判断力が特権的な仕方で試される場面なのである。

 

あらためて反省的判断力から始めよう。『判断力批判』において、判断のアポリアはまず、反省的判断力の困難として見いだすことができる。そこで判断力一般は、「特殊なものを普遍的なもののうちに含まれているものとして思考する能力」であり、これは、すでに述べたように、規定的判断力と反省的判断力とに区分される。すなわち、一方で「普遍的なもの(規則や原理や法則)が与えられていて、特殊なものをその下に包摂する判断」が「規定的」、他方で「ただ特殊なもののみが与えられていて、判断力がこのもののために普遍的なものを見いださなければならない」判断が「反省的」と定義される。『判断力批判』が扱うのは後者である。反省的な判断にとっては各々に個別的なケースしか存在せず、それを包括し規定すべき一般的な法則がない。つまりそこではいわば「事例が先行している」。反省的判断力は、事例の特殊性にのみ基づき、不在の法を普遍として見いだすという発見の原理を担わなければならない。反省的判断力の困難は、たんに不在の法を発見せねばならぬことにあるのではない。真の困難は、そうした発見の要請が規定的判断力にも及ぶということ、それが一般に判断力固有の性格を表わしているということである。すなわち、反省的判断力は、規定的判断力と並んで同じ種に属する対の一方を成しているのではない。規定的判断力は、反省的でもなければならない。規定的判断に反省的な契機が必要とされるのである。これが判断のアポリアに属することである。

判断に関わる事例は、決して単なる普遍的な法則や観念の特赦化に尽きるわけではない。事例は、それぞれに個別的で具体的な状況のもとで、その特殊性に還元できない単独性、特異性を備えている。事例とは常に一回きりの、この事例のことだ。その限りでそれは、特殊な事例、いわゆる特例であり続ける。この意味で事例は、絶えず例外的なままにとどまっている。一つの事例が例外的であるのは、まさにそれが普遍のもとへと包摂され範例化されるべき当のものであるから、という理由による。もし個々の事例がどこまでも例外的で特異な残余を含んでいなければ、それはそれ自身すでに例外ではなく別の概念や法則であったことになるだろう。事例が事例であるかぎりで、全面的に範例的であることはないのだ。事例にはこうした逆説がある。したがって、判断がある事例に下されるものである限り、それは厳密には、つねに特例や例外についての反省的判断を含んでいることになる。反省的判断力の困難は、まさにこのような根底に直面脛ことにある。

判断力をそれ自体として探究する必要が一度想定されるならば、この探求の課題は、次のようなものとなる。判断力の原理はあらかじめ与えられた規則としての諸概念に依拠することはできない。概念一般は悟性の側に属しており、判断力はただそれらの概念を使用し適用することしかできない。「それゆえ、判断力はそれ自身で或る(特異な)概念を提示しなければならないのであって、この概念は、それによって本来いかなる事物も認識されるのではなく、たたせ判断力自身のために規則として役立つ概念」でしかない。「この規則は主観的であり、判断力は自己自身を規範とする。そして、判断力はそうせざるを得ないのである。さもないと、もうひとつ別の審判能力を、無限に召喚せねばならなくなるだろう」。だが、この主観的な規則は、それにもかかわらず、判断力が固有のアプリオリな原理として分離される限りで、普遍的な客観性をそなえた判断に打倒すべく要求されているのである。したがって、判断力は主観的かつ客観的な規則を自身の原理として分離される限りで、普遍的な客観性を備えた判断に妥当すべく要求されているのである。したがって、判断力は主観的かつ客観的な規則を自身の原理としなければならない。

このような矛盾した表現に窺われる探求の明白な困難にもかかわらず、それでもなお判断力がひとつの独立した原理として「批判の特殊な部門」のもとに考察されなければならないのは、いったいなぜか。それは『判断力批判』が、反省的判断の下である特権的な場面を、判断力の原理の批判的探求におけるもっとも重要な部分として見いだしたからである。それが「美的と呼ばれる判定、つまり自然や芸術における美と崇高とに関わる判定」である。美的判断は、主観的規則に従うかぎりで「諸物の認識に全く寄与しない」が、それでも判断の固有な能力であるかぎり「何らかのアプリオリな原理に従う」のであり、それが直接関与するものこそ「快不快の感情」である。美的な判断が「美的」であるのは、この判断が対象の認識にではなく、主観の感情に関わるからである。この感情が「快」とされる(快の主観性)。しかしそれは独立した一能力としての判断において見出される限り、この快はあくまでその純粋性において現れるのであり(「関心なき快」「反省の快」)、感覚器官の私的で個別的な享受や性向を満たすものであるわけではない。主観/客観の両極に分裂せざるを得ない判断力の困難が、そのままこの「快」の身分に反映される。

« 一票の格差を考える、違った視点で | トップページ | 宮崎裕助「判断と崇高」(8) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 宮崎裕助「判断と崇高」(7):

« 一票の格差を考える、違った視点で | トップページ | 宮崎裕助「判断と崇高」(8) »