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2014年2月26日 (水)

宮崎裕助「判断と崇高」(14)

美と崇高の違いついて述べた『判断力批判』のなかで「自然の美しいものは対象の形式に関わり、この形式は限定を旨とするが、これに反して崇高なものは、無形式な対象においても、見出されることができる」カントにとって、美の形式、感性の対象を美と判断させる形式が、まさに当の形式を見いだすことができないという不可能性を条件としていることであった。したがって美的対象の形式は、美にとって必要であるにもかかわらず、美において積極的な形式として見いだすことができないという不可能性を条件としているということであった。したがって美的対象の形式は、美にとって必要であるにもかかわらず、美において積極的な形式として見いだすことができない。他方、崇高はたんに無形式なものに関わっているだけでなく、逆に形式をもった対象にも関わっている。美についての判断が有形な対象に関わっており、美の有形性はそれ自体として見いだすことができないとすれば、美のこの不可能性は、崇高なものが美の形式にも関わっていることにおいて、崇高についての判断が解決するのだと考えることができる。というのも、美の形式が、当の形式そのものが解きほぐれるような消極的な形式なのだとすれば、崇高についての判断は、まさに無形式=不定形なものに積極的に関与することによって、美についての判断を媒介しその根底で支えうるように思われるからである。

ここで注意しなければならないのは、崇高なものが無形式な対象に関して美や崇高として表出することは、構想力(想像力)の役割であるが、崇高なものの判断では、この表出能力としての構想力が、なにか無形式=不定形に対象それ自体を崇高として表出すると考えられているわけではない。

崇高として表象されると言われているのは「無限定性」である。それは、もはや感性的ないし美的な対象ではない。カントの言葉に従えば、我々の心の内に備わる「理性の諸理念」であり、「いかなる感性的な形式にも含まれていることはできない」という人間の「超感性的使命」であるとされる。崇高と呼ばれるものは、なんらかの無形の感性的対象ではなく、そうした対象の対象のうちへの崇高性を持ち込む「心構えに由来するものなのであり、そうである限り、感性の対象として直接には表出されないがそれでも思考すべき何ものかとして、感性の限界を超越した「理念的なもの」や「無限なもの」を指し示している。

こうした理念的なものの「無限定性」が構想力によって崇高として間接的に表出される際に、「無形式な対象」が「機縁として」役立つとは。当の対象をその総体において構想力が、首尾よく表出できないという不適合、つまり呈示不可能性ないし表象不可能性が、構想力をして自らの感性的な限界に直面させ構想力の働きを挫かせるだけでなく、そのことによってむしろ、自らの感性的限界を超えた、何か「超感性的」で「無限なもの」を構想力に崇高として表出させるという、そのようなプロセスへと通じている。「無形式=不定形なもの」はそのものとしては表象できない。しかし構想力はそのような対象化・形式化を禁じるような何ものかにあえて対峙しその表出に失敗に失敗することによって、この不可能性を梃子にして、有形のものについての感情よりも高次の感情へと自らを委ねることができる。それは、構想力が自らを犠牲にして試練に曝すことで、かえってこの試練を通じて自らを鍛え拡張するというプロセスであり、そこに得られる感情が、結果として「超感性的なものとしての理性の理念」に対して応答し、この「無限なもの」を間接的に表象していたことになるのである。このことが崇高なものの感情として、つまり崇高の表出として描き出されているわけだ。

理念的であれ、無限のものであれ、「無形式な対象」はまさに無形式であるがゆえに客観的には表象されることができないが、しかしその不可能性がむしろ高次の段階で<表出=呈示不可能なもの>としての超感性的な存在を喚起し、それを消極的に表象することを可能にしている。そのかぎりで、この崇高なものの表出の論理にとって「無形式=不定形なもの」は一つの根本的な契機をなしているのである。

かくして「無形式=不定形なもの」は、カント美学の表象体系の内部で説明されることになる。美の形式が、当の形式が解きほぐれてゆくような形式解除の、不定形な形式というアポリアにおいてしか見出され得ないとしても、つまり美が、ひとつの積極的な有形性としては表象されえないのだとしても、崇高の弁証法的な表出論理は、この美の形式の不定形性を媒介することによって、理念的なものや無限という超越的なものへの存在へと美を関係づけ、その不定形性に対してひとつの否定的な形式を媒介することによって、理念的なものや無限という超越的なものの存在へと美を関係づけ、その不定形性に対してひとつの否定的な形式を、美の形式として与えることができる。このとき、崇高なるものは、まさに美の形式が解きほぐれてしまい、カオスと化す手前で、その統一性を裏側から支えていたことになるだろう。美的判断における美と崇高の差異は、形式/無形式という相互に排他的な並列関係によって理解されるのではない。美の本質においては、形式なき形式が戯れており、それを不定形な形式として見いだされるための超越論的な条件をなすのであり、美しいものの成立には、つねにその不定形な形式を縁取るように、崇高なものの論理が働いていたことになるのである。

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