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2014年2月11日 (火)

宮崎裕助「判断と崇高」(2)

判断とは何か。そう問うやいなや、人は、すでに判断していることになるだろう。判断の本質に問いかける、まさにその仕方について一定の判断に加担していることになるだろう。あらかじめ判断していることなしには、予断や偏見のうちにいるのでなければ、そもそも「判断とは何か」と問い始めることさえできない。判断についての問いは、そうした問いの不可能性を引き受けることから始まるのである。

判断とは何か。アリストテレス以来の伝統的な論理学は、判断を「S is P」という形式で表わされる命題として理解してきた。即ち、判断の働きとは「主語Sで表わされるもの」と「述語Pで表わされるもの」との結合であり、判断の基本形式は、判断対象たる主語表象(主辞)、それに結び付けられる述語表彰(賓辞)、そして両者を媒介する繋辞という三極構造によって把握されるのである。しかし、ここで問いかけられているのは、この「S is P」という命題形式の価値そのものである。だからこそ、「判断とは何か」という問いかけそれ自体が問題になる。「…とは何か」という問いが判断一般の命題形式の価値を承認することによって初めて立てられるのだとすれば、「判断とは何か」を問うことは、単純に言って、自身が問いかけようとしている当の主題の内容を当の問いの形式において先取りしてしまうことになる。要するに「判断とは何か」と問うことは「S is P」式の答えを期待しているかぎりで、問いの形式そのもののうちで「判断とは何か」という答えを予め了解していることになるのであり、一種の論点先取りを犯すことになるのである。

まさに「判断とは何か」という問いを通じて、というより直接にそう問うことの不可能性を通じてこそ、当の問いの形式そのものの自明性に異議を申し立てることのできた「前判断的なもの」をめぐる思考なのである。

本書の主題は、それにもかかわらず「判断」である。この主題が選ばれたのは、判断概念の手前である「前判断的なもの」の思考を引き継ぐことによってこそ「判断」を主題とする。つまり、本書は、「判断」の古典的概念が覆い隠してきた「前判断的なもの」の次元を、当の「判断」の概念のうちで内在的に追及することによって、この次元を「判断」そのものの構成要素として捉え直すことを目指すのである。

「判断」という語の意味そのものは、命題における思考作用としての論理学の伝統よりも、法律的な含意が優位であることにただちに気づく。すなわち、法廷で当事者に対して判決を下すことと言う意味での判断である。もちろん、この語は法廷の判断に限られるものでなく、神が人に下す審判、神的な裁きをも指す。判断という語に含まれているのは、一般には、論理学・認識論的な意味であるよりも、法や倫理にまつわる社会的ないし実践的な意味であることにまずもって留意する必要がある。

判決を下すということは正義を為すということであり、それは「特定の辞令に適切な定型文を与えること」である。したがって、裁判官の役割は、伝えるべき「法の定型表現」を保持し適用することに他ならない。それが、裁き=判断を下すもの担う正義の務めである。

判断とは何か。判断とは、「法を言うこと」として法を媒介する一種の言語行為である。この「法を言う」という行為は、所与の「法」を前提としているのだが、「言う」という行為は、法の言表を通して法の効力を構成するような言語行為として、当の「法」を超えたものとの関係、方から区別されるべき正義への関係を開くのである。というのはこうだ。判断は、「法を言い渡す」宛先として個々の事例に直面するが、その際に言い渡すべき法(の体系)が知られているとしても、当の判断は、その法を事例に適用するに当たって、各々に特異な事例へとどのように関わるのか、どのように判断するのかという点については、ケース・バイ・ケースで対処せざるを得ない。原理的に言って、その都度の判断において「法を言う」仕方、法を提示する当の方法、法を媒介する法そのものは、予め知られているわけではないのである。つまり、判断とは、法を通して法を可能にする言語行為として、当の法を前提としつつ、まさにこの法を実現するための法を欠いており、そのような意味での法の不在を、みずからに固有の契機として含んでいるのである。このとき、判断にとって法の不在は必要であり、それこそが判断を可能にしているのではないだろうか。

判断は法に従うことなくしてはあり得ない。にもかかわらず、権利上、法の不在が判断に内属している。判断はこの不在に直面して、自らが従うべき法(への関係)をいわば同時に創出することによって、下されねばならないのである。このことが判断の構造そのものを構成しているのならば、一般的な規則の不在、法の無法状態は、判断することを免除しはしない。むしろ、法の不在こそが判断の法なのだ。それが法の法である。

以上のように素描される判断の構造こそ、本書の探求にとって中心的な問題提起である。こうした判断の構造は、判断が法を前提としながら法の不在こそが当の判断を可能にするという逆説において、あらゆる判断に本質的なアポリアを構成している。判断の構造の核心には、法の不在という法のもとでどのように判断するのかという問題が存在しているのである。本書では、これを端的に「決定の問題」と呼ぶ。それによって本書が問いかけようとしているのは、まさにアポリアにおいてもなお判断を可能にする条件、そうしたものとして判断の構造に孕まれた決定の経験なのである。

帆の不在をめぐるこのようなアポリアのただ中で「判断力固有の原理を発見する」こと。これは伝統的には、カントの『判断力批判』が企てた主要な課題に属している。それによれば、判断力一般は「特殊なものを普遍的なもののうちに含まれている者として思考する能力」と定義され、これは「規定的判断力」と「反省的判断力」とに分けられる。すなわち、前者は「普遍的なもの(規則や原理や法則)が与えられていて、特殊なものをその下に包摂する判断」、後者は「ただ特殊なもののみが与えられていて、判断力がこのもののために普遍的なものを見出さなければならない」判断だとされる。そして後者、「反省的判断力」こそ『判断力批判』が判断力固有の原理として探究しようとした当のものにほかならない。反省的な判断力が置かれた状況とは、判断を要する場面において、個別事例だけが与えられており、当の判断が参照すべき一般法則(アプリオリな概念)が欠けている、という状況である。つまり反省的判断力は、それでも当の判断が法に即したものであるため、事例の特殊性にのみ基づいて、各々にふさわしい法を見いだすという一種の発見ないし創出の原理として追及されることになるのである。かくしてカントは、判断のアポリアを、反省的判断力の問題として提起したと言うことができる。

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