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2014年2月23日 (日)

宮崎裕助「判断と崇高」(13)

以下では、バタイユ=クリステヴァの系譜で生じた問題系から離れ、「形」ないし「不定形」への問いから「吐き気」の形象が反復されてきた歴史-理論的文脈をカント美学の問題系のうちに見定める。

カントの『判断力批判』では、「形」ないし「不定形」の問題は、主観の美的判断として表出される二つの基本様態、美と崇高の差異に直接関わっている。すなわち「自然の美しいものは対象の形式に関わり、この形式は限定を旨とするが、これに反して崇高なものは、無形式な対象においても、見いだすことができる」。一方で、美は感性的対象の形式的限定によって、他方で崇高は、感性的対象の無形式(不定形)たいし無限定性によって見出されということが定義されているように見える。しかし、そもそもカントにとって、ある対象を美とみなす美的判断が基づいている「形式」とは、「対象の形式」といっても、この対象の認識に結びついた客観的な目的や概念の形式ではなく、「表象の主観的合目的性のたんなる形式」と呼ばれるもので、決して美的対象の<かたち>として通常理解されるものを意味していない。

このことを「自由な美」と「付随的な美」という有名な区別から見てみよう。「前者の美はあれこれの事物の(それだけで存立する)美と呼ばれ、他方の美は、ある概念に付随するものとして、ある特殊な目的の概念のもとにある諸客体に付与される」。そこで、自由な美の具体例としては、自然美として見いだされる野生の花や鳥、芸術美(芸術作品ではなく)としてギリシャ風の線描などの極めて素朴な例である。その例が素朴なのは「それだけでは何も意味せず」、所与の概念に規定されることなく、その表象が端的に主観に与えられるからにほかならない。他方、「付随的な美」としては、人間の美や建物の美といったものがあげられ、そうした美が付随的であるのは、まさにその美が従属している人間や建物の形、それらの概念形式に依存することで成立している美だからである。だが、この具体例には拘泥しないほうがいい。なぜなら、「自由な美」と「付随的な美」の区別は曖昧だからだ。「自由な美」である花や鳥は、まさにそのような花や鳥という概念を前提とすることでその美的対象は見出されているのであり、その限りで付随的な美である。逆に付随的な美であっても、規則性の束縛から解放されて「表象諸力の自由な戯れだけが楽しませるような場合」ならば、「自由な美」に数え入れることができる。したがって、カントにおいて、美についての判断が基づく対象の形式とは、その対象の輪郭を縁取る形、より一般的に、その対象を規定している意味形式や概念形式なのではない。

カントが美的判断の形式として強調する要点は、判断の対象から、所与の概念形式や認識の枠組みをすべて取り払い、いかなる予断や関心も前提とせずにそれを受け止めるという主観の側の態度変更に存している。この態度変更を通じて下される美的判断の「形式」は、対象の客観的な目的概念としての<何であるべく定められているか>をアプリオリに規定した概念規定の形式ではなく、徹頭徹尾そうした概念形式を欠いた形式性、客観的な目的概念を欠いた端的に主観的な形式性であり、カントによれば「純粋に主観的な合目的性」としての「たんなる形式」と言うべきものである。

美的判断がみずからの根拠としているこのような「形式なき形式性」はそれでもやはりなんらかの「形式」性、否定的な形式であるかぎりでの「形式」をもつ。この否定的な形式は、そのものとして積極的に定義づけられることをあらかじめ拒否するのだが、にもかかわらず、そこに「形式」が語られようとしている以上、言うなれば、形式がそれとして見いだされたとたんに、そのせいでみずからを消去してしまうような自己退隠的な形式なのだと考えることができる。つまり、美の形式とはまさに当の形式が解除され引き退きゆく運動そのものとして理解されるのである。美は、たんなる形式の不在ではなく、それでもなお形式の不在の「形式」として指し示されるからには、まったく予期されていないというわけではない。だがその「形式」は、概念や目的の規定的な形式をもつものではない。それは、出現するやいなやもはやそれ自体としては見いだすことができないという不可能な「形式」なのだが、にもかかわらず、そのような形式が出現してくる可能性だけはつねに予期することができるという、いわば「約束」としての形式、約束である限りでの美なのである。

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