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2014年3月28日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(5)

第1章 観照の空間としての自然

1.現出の戯れ

観照的知覚は、その対象が指し示す現出の下にとどまり、その対象から獲得する諸々の区別の中を逍遥するのであって、そのことを超えて解釈を目指したりしない。観照的知覚が現象と出会うとき、現象の意味は度外視されるのである。観照的知覚が問題とするのは、ある対象の、意味疎隔的な現象的個体である。こうした個体は、認識ないし行為に対する事物の重要性と価値性をすべて度外視するならば、すぐにでも目に見えるようになる。というのも、事物には生活上の意味が何も認められず、期待されないので、事物は意味疎隔的なものとして現出するからである。だが、まさにこの点で、観照とは対象にまつわるすべてを重視する試みであり、対象との理論的ないし実用的な関連からすれば重要でないと見なされるであろうものも、やはり重視する試みである。観照とは重要性を問わない観察、その意味では、顧慮を欠いた観察である。だが、もっぱらそれゆえに、観照のさいには、現出するすべてのものが顧慮されうるのである。さらに言えば、観照が顧慮を欠いたものでありうるのは、観照がある偶然的な位置を離れて、自己を観照に託すものに没頭するときだけである。もし観照が自らの立場を必然的ないし卓越した立場として経験するとしたならば、知覚はすでに顧慮を欠いたものではなくなってしまうだろう。観照にとって理想的な知覚の条件はめったにありえないが、それと同様に、観照にとっては観察の理想的な立脚地はめったにありえないのである。こうした観察は、そのように注目している瞬間にだけ自分の対象に関心を寄せているという点でも、やはり無関心なものである。それゆえ、この観察は自分が対象者に注目することだけに関心がある、と言ってよいほどであって、それに加えて、こうして注目している束の間だけにまさに唯一無二の対象として現出する対象など、必要ないかのようである。いかなる小石も、形、色、模様という点で、ほかの小石と同じではない。そうした「同じではない」ということに、観照的意識は最大の価値を置くのである。同一の小石の場合にも、観照的意識にとって問題となるのは「同じではない」ということ、つまり唯一無二のものであり、持続するものではないということである。観照的意識がこだわるのは、諸々の瞬間的な状態なのである。たとえこうした注目の動きがどこに向けられようが、向けられた先に或るものは観照的意識にとって美として現出するのである。観照的把握にとって対象の美しさが生まれるのは、ある特定の時間において、そしてある特定の時間に限って、それが変化しながら現出するからである。こうした意味で美しい自然の対象は、意味に対するあらゆる指示を拒絶する。その自然の対象は現出する通りに存在し、その点で美しいのである。その自然の対象は、そうした現出の知覚のため以外に、何かのためにそこに存在しているのではないから、美しいのである。美のこうした経験にとって重要なのは、ここに了解すべきものは何もない、ということである。

通常の観照は、言語的にわずかにしか分節化されていない。通常の観照がみずからの諸対象の現象的生起と接触を保ち続けようとする時、このことは決して許されない。たしかにこうした生起は最高度に分節化されているが、それは決して分節化の生起ではない。たとえ観照的観察がその対象からどれほど多くの状態と分化を感じ取るにせよ、観照的観察はそうした印象のあらゆる持続的な秩序を度外視し、それを飛び越えて、言語や形象や響きに固定化するすべてを拒絶するのである。観照的観察にとって問題となるのは分節化する戯れであり、諸現象の変移的な自己呈示であって、分節化の言葉遊びではない。

観照はいつも自分の対象を、ある特定の時間におけるあくまでも特定の現出において、個体的な客体として受け取る。観照的な自然観察は何ものも概念的に把握せず、すべてをまさにそのあるがままに受け取るのである。こうした「まさにそのあるがまま」へと観照的な自然観察は深まったのであり、そうしたものだけを受け入れるのである。観照的な自然観察はある種の仕方で特殊なものに固定されているのであるが、これは文学、詩、一般に芸術ではありえないことである。

 

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