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2014年3月 2日 (日)

宮崎裕助「判断と崇高」(18)

しかし、リオタールは、このような美的なものにおける経験の統合を通じて間主観的な共通基盤を取り戻そうというヴィジョンに対して、はっきりと「否」を突きつけていた。経験のこうした統合の企てが意味しているのは、芸術の実験を中止して秩序のうちに復帰させようという欲望にすぎない。つまり、それは、いまや共同体が病んでいるからには、芸術家や作家たちを共同体のふところに呼び戻し、彼らに共同体を癒すという責任を課さなければならない、と望むのである。こうした欲望に対してリオタールは、あくまで芸術の必要性を唱え、一貫してアバンギャルドを擁護しようと試みている。このリオタールの主張の要点はカント美学の議論のうちにあると主張する。アーレントからハーバーマスに至る線とリオタールの立場を分かつものは、まさに『判断力批判』解釈の決定的な違いによるものだからである。アーレント=ハーバーマスにおいて間主観的な生活世界の共通基盤を照らし出す美的経験が趣味の能力としての、美しいものの判断に関わっていたのに対し、リオタールが照準を合わせるのは『判断力批判』に見出される崇高の美学、崇高なものの判断についての議論なのだ。

美は、いかなる利益関心とも概念規定とも無縁な快の感情がもっぱらひとりの主観にとって純粋に与えられることで成立するが、それは常に原則的に万人の合意へ通じる普遍的な妥当性を要求している。言い換えると、この快は「普遍的な伝達可能性」を趣味判断の根底に持つ。この伝達可能性が、趣味判断を下す個々の主観にとって与えられるのは、カントによれば。悟性と言う概念の能力と、概念をそれに対応した対象の表象のもとに呈示する能力(構想力)とが「自由な戯れ」の関係を保ちながら。相互の「均衡のとれた情調」をもたらしている場合である。したがって、悟性と構想力の間で生じる「調和」が、快の感情として、趣味判断における万人の合意や和解の可能性を保証していたことになる。

だが、カントが他方で解明していた崇高なものの感情は、美のこうした調和が打ち砕かれる場合になおも湧き起る感情である。というのも崇高は、構想力が、概念をそれに対応すべき対象の表象のもとで呈示し損なったときにこそ生じる感情、つまり不快から快に生じた快の感情だからである。その種の概念とは、理性概念、すなわち「理念」である。構想力はしかし、その理念を感覚可能な対象の表象のもとに呈示することができない。ひとは絶対的に強力なものや偉大なものを理念として思考することはできるが、それを実際に「見せる」ためのあらゆる感性的な呈示は、不快なまでに不十分に感じられるのである。「そうした「理念に対して可能な呈示は存在せず、」それゆえ、「理念」は現実(経験)について何も認識させてくれはしない。そればかりか、それは、美の感情を産み出す諸能力の自由な合致を禁止し、趣味の形成と安定化を妨げるのである。そうした「理念」のことを、ひとは「呈示不可能なもの」と呼ぶことができる」。リオタールが崇高論にこだわるのは、まさにこの「呈示不可能なもの」のうちに近代における芸術の使命を読み取っていたからである。リオタールにとって、モダニズムの芸術とは「呈示し得ないものが存在する」という事実を呈示する芸術のことである。そこで問われているのは、カントが崇高の例として挙げているような「不定形なもの」「無限のもの」「絶対的なもの」といった理念的存在をそれでもなお構想力が呈示しようとして失敗する経験において示される空虚な抽象の呈示、つまり「否定的な呈示」である。以上はしかし、モダニズムの片面に過ぎない。モダニズムの芸術は、一方で実験を試み新たな呈示の仕方を生み出そうと挑戦するが、他方でそれが自己の限界に直面し「呈示不可能なもの」を仄めかすにとどまるというかぎりで、この呈示は、呈示し損なって喪った「不可能なもの」へのノスタルジーやメランコリーに捉われている。そのためにモダニズムの運動は、ひとつの<否定的な呈示の美学>を形づくることになるのである。この否定性が、崇高なものの美学的型式を説明するだろう。そこからリオタールが引き出す論点は、そのような崇高の美学が、一定の否定的な形式のもとに再び慰めや癒しの素材をもたらしてしまうということ、そのかぎりで、こうした崇高は、いまだ「真の崇高な感情」とは言えないということである。

リオタールによれば、崇高の感情は本来、あらゆる呈示を超えたものに対峙することによる、快と不快との純粋に内在的な結合でなければならない。『判断力批判』を読む限り、崇高なものの感情を説明するひとつの主要な論点は、感性的には「呈示不可能なもの」を、構想力がその呈示に失敗するという不可能性によってこそ否定的に呈示し暗示しようとする、一種の弁証法的な論理に存している。これは、リオタール自身しばしば「呈示不可能なものの呈示」として言及する表出の様態であり、まさにカントが「不快を介してのみ可能であるような快」と呼ぶところの感情である。

こうした崇高の美学は、リオタールがカントから引き出そうとしている崇高概念の核心ではない。リオタールがモダニズムの美学概念から区別しようとしている本来の崇高において問題になっているのは、崇高の美学的形式を構成している表象の論理そのもののリミットなのだ。つまり、美的表象において不快を快に転化する弁証法的原理のただ中にあって、それでもなお、まさに当の原理が存続するかぎりで取りこぼさざるをえないような残余、すなわち、崇高なもののうちに残り続ける過剰な否定的感情の契機なのである。それは、美的判断を通常の意味で成立させる(美の)快、及び不快を転化する(崇高の)否定的な快という感情の二極へと単純に還元されることがなく、美的快の純粋な達成そのものを阻害してしまうような心の動きである。したがって、このように理解された崇高は、美学的把握そのものを攪乱するように働くのであり、反美学としての崇高というべきものをなすのである。そして、そうしたものの力を指し示しているのが、リオタールのいう「ポストモダン」にほかならない。つまり、リオタールの言う「ポストモダン」は、「モダン」に内在し、絶えず未知の呈示、いまだない呈示、「呈示不可能なもの」を通じてモダニズムの運動を駆動させる当のものなのである。「ポストモダン」はモダニズムの運動を構成するとともに解除(そして再構成)する、ひとつの(脱)構造化の契機だということである。

以上のような芸術論=ポストモダン論の政治的帰結は、どのようなものとなるのだろうか。アーレント=ハーバーマスにおいて、カントの論じる美的判断力は、美しいものの経験を介してこそ、趣味=政治的判断力として、間主観的な生活実践の共通基盤への通路を見出し、民主的討議や合意形成のコミュニケーション実践や公共領域の場を開くと考えられていた。しかし『判断力批判』がリオタールの言う意味で崇高論を含んでいるかぎり、これは、美の経験を通じた「生活世界」や「公共領域」への遡行とその回復といった宥和的なヴィジョンを達成不可能にしてしまう。カントの問うた美的判断が美しいものにととまらず、崇高なものの感情をもうひとつの内的な契機としている以上、当の判断力は、間主観的に共有された「生活世界」や「公共領域」への復帰を約束する一方で、それをただちに禁止してしまうのである。

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