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2014年3月 3日 (月)

宮崎裕助「判断と崇高」(19)

リオタールの主張は、趣味判断を介して間主観的な生活実践を取り戻そうとする「美の政治」に対し、あくまでも崇高なものの否定的な力を対置することによって、一定の批判的な効果をもちうるだろう。しかしながら、ここに「美の政治」に対するオルタナティブとして、もうひとつの政治的判断力の理論を見出そうとするとき、リオタール的な「争異」の政治は、きわめて危うい領域に近接し始めることになる。いうのも、もし、「争異の政治」が、崇高なものの感情にそなわる批判的な力を実体化することを通じて「崇高の政治」をそれ自体として構想するのだとすれば、すなわち、合意形成を目指す間主観的なコミュニケーション実践を理想化する代わりに、崇高なものの感情を介して、共同体の美的=直感的な情動の全体的な統一によって判断を下そうとする政治に道を拓くのだとすれば、こり美的政治は、ファシズムに他ならないだろうからである。

「崇高の政治」のヴィジョンからすれば、間主観的な公共領域において繰り広げられる民主的な討議のモデルは、必要な政治的判断を「永遠の議論」によって宙吊りにしつつ、その場凌ぎの交渉と妥協で糊塗するという無力な政治形態に過ぎない。カール・シュミットはヴァイマール期の議会制民主主義の危機にこの無力を見て取った。結果、政治的判断が延期され機能不全に陥った間主観的な公共領域を突き破ってそこに回帰してくるのは「例外状態について決断を下す者」、結局のところ、当の美的政治を代表し得る、決断の特権的な主体(主権者)であるだろう。そのとき政治的判断は、主権者の全能に託された純粋に権威的な決断、つまり絶対的に主意主義的─ゆえに絶対的に恣意的─な決断でなければならないのである。「崇高の政治」は、この主権=至高の決断の権威を、民衆の美的感情に根差した共同体の全体的な統一として実現したものだと言うことができる。

リオタール=カントの崇高論の観点からすれば、趣味判断を介した間主観的な「美の政治」は、政治の現実を派生解している崇高なものの感情を看過している限り、政治的判断の理論としては不十分なものにとどまっている。そもそもアーレントとハーバーマスの「美の政治」のモデルがまさにファシズムの破局的政治への批判と反省を出発点としていたことを考慮すれば、リオタールが提起した崇高論の観点の欠落は、いっそう深刻であるように思われる。にもかかわらず、他方、判断の理論を新たに打ち立てるべく、崇高の呈示そのものを政治の原理へと転化することは、崇高の呈示の核心にある否定的な感情を「政治的崇高」の表出へと昇華することであり、カントの用語によって言い換えるなら、共同体を統一する高次の情動へとこの否定性を取り違える=詐取することにほかならない。つまりこれは、美的判断の行使としては、もはや他者の説得や討議の場を開くための共通感覚の基盤の形成に向かうのではなく、「民族」の情動を直接に集約し得る主権的決断の美的な実現となるのであり、そのような意味で「崇高の政治」は可能になるのである。

このことから引き出しうるのは、次の点にとどまる。すなわち、趣味判断を介した「美の政治」の限界を批判しつつも、その一方で崇高の美学化と(美学化された)「崇高の政治」に抗することができるのは、まさに崇高なものの否定的な力─反美学的なまでに否定的な力─による徹底した「内在批判」以外にはないということである。このとき判断という契機が残り続けるとするならば、それは、結局のところ、美の政治にも崇高の政治にもどちらの側にも依拠することはできないのであり、崇高の感情がどこまでも「呈示不可能なもの」の存在をほのめかすだけの否定性─これは崇高の美学の弁証法的論理が止揚しえない根本的な不快の感情だ─にとどまるかぎり、当の判断は、いかなる規定的な根拠も構成的な原理ももつことができないのである。

 

 

リオタールが芸術家や作家にとってもポストモダン的な呈示について述べたことは、まさにそうした政治的判断についての疑問への応答として読み直すことができる。リオタールによれば、彼らの作り出す作品やテクストは、所与の諸規則に依存したり支配されたりしてはならないし、その作品やテクストに対して既知のカテゴリーを適用するような規定的判断によって作り出されることも評価されることもない。というのも、こうした規則やカテゴリーこそは、その作品やテクストがまさにみずから法として打ち立てようと探求している当のものだからである。

そもそもアーレントが述べていたように「政治的思考とは本質からして判断力に基礎をおいて」おり、判断基準の消失こそはむしろ判断力が発揮されるべき本来の状況をなすのだとするならば、それゆえさらに踏み込んだ言い方をするなら、政治とはそうしたよるべなき状況で判断がくだされるかぎりでの出来事の生起なのだとするならば、判断はたんに不可能なのではない。そうではなく、判断とは、リオタールの言葉を敷衍して言えば、ひとつの出来事として(判断の主体に)あらかじめ知られていることがなく、前未来の様態で事後的に指し示されるほかないような、いわば、過去から到来するような未来として言い表されるべき何ものかであるだろう。要するに、そのような時間錯誤として示される予期不可能性、計算不可能性、決定不可能性、この不可能性によってこそ、政治的判断というものがはじめて可能になるのである。この意味での根本的なアポリアを経た判断が、出来事であるかぎりでの政治、すなわち、必然ではない出現、所与ではない贈与、つまり規定的でも構成的でもない<到来としての政治>をもたらすことができるのだ。

この「到来としての政治」という表現が言わんとしているのは、当の「政治的なもの」の概念が絶えず新たに規定され直されるべきであるということを、我々に要求しているということである。「政治的なもの」がつねに本質的に未知の何ものかとして到来すべきものであるかぎりで、これは所与のいかなる政治概念にも特定の政治的実践にも同一視されえない。むしろそれは、通常「政治」という言葉で理解されるものの限界をつねに超え出ていくよう要求しているのであり、オリジナルな芸術作品が未知の美的感情を喚起する限りで所与の芸術作品や概念に一致することがないのと同様、到来としての政治は、既存の政治概念から導かれるような、実践的な行動の指針やプログラムとなることがない。このとき、政治的判断力は「政治的なもの」それ自身に対しても反省的判断を働かさなくてはならない。それは、未来に開かれた批判的=臨界的感覚を研ぎ澄ませつつ、その都度政治的なものそれ自身の発明を要求しているのである。

このような意味で、到来としての政治は、ポリスの境界を定めることで特定の共同体を囲い込み、公共空間の共通性を同質化し、民族の同一化の原理をもたらすといった企図に腐心することはないだろう。そこで想定される「ポリス」は、けっして既存の民族、国家、集団、階級等々と同一視することはできないのであり、むしろつねに他なる異質な共同体、いまだ形成されていない公共性や公共空間、いまだ生まれざる人々の共同体、予測不可能な未来の共同体のために、当の共同体の共通性や境界を開いたままにしておくのである。

政治が到来すべきものであるということ、その未規定性によって(反省的)判断がはじめて可能になるところの「政治的なもの」は、特定の共同体や公共空間の諸条件に規定され制限されている限り、それにふさわしい出来事として生起し得ることはないし、真に批判的でありうることもない。それゆえ少なくともはっきりしていることは、共同体や公共性が、それ自体としてはけっして実体化や理想化されるべき目的とはなりえないし、諸々の政治的問いの解決や最後の言葉と考えられるべきでもない、ということである。共同体や公共性といったものがあるとするならば、それらは、そのつど最小限の「共通性」によって引き受けられては当の制限が解除され再構成されるべき、暫定的な収束点としてのみ想定されるべきものだろう。

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