無料ブログはココログ

最近読んだ本

« マルティン・ゼール「自然美学」(6) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(8) »

2014年3月30日 (日)

マルティン・ゼール「自然美学」(7)

b.事物と空間

事物の観察はすべての事物から一つか若干の事物を多少とも恣意的に抽出しており、その事物の瞬間的な現出の特殊性に固執しているのである。しかし、我々がこれまで当然のように事物の観照と見なして来たものは、決していつも事物だけの現在化ではなかった。しばしばその観照は、事物が聞き取られる空間の中で事物が現出することも、妥当していたのである。別の言葉で言えば、純粋に事物と関連付けられた視覚が、観照的態度の最初の度外視の他に、その態度によって認識に対するあらゆる関心そのものを無視することに対して、第二の度外視を企てるのである。第二の度外視は、我々が知覚において眼差しの自由を制限することであり─見られた事物と共に我々が存在している空間を、我々は無視するのである。こうした遮蔽は、他の感覚を遮断するだけで成功するすなわち、そのときにのみ、空間は言わば事物に立ち返るのである。我々が視覚的意識の孤立を断念するや否や、我々の知覚は空間内の事物の経験に変容する。この事物は、空間内のそれらと我々の位置から、直観に対する動性を獲得するのである。純粋に視覚的な事物の観察から見れば、他の器官は空間の感覚を導く物体として機能する。空間的観照において初めて、観照的な美意識が全編にわたって展開されるのである。このとき注意は、もはや─眼によって─掴みとられた、ある客体の受動的存在に優先的に向かうのではなく、自己の身体を包括する空間が生起するように開放されるのである。ここでは事物の意味疎隔的な瞬間が、事物の間で意味連関を欠いた存在の瞬間になるのである。

これに次のことが加わる。それは身体の自己経験であって、知覚する感官が自己の経過記録に向き直ることである。メルロ=ポンティが言うように、もしも身体が、「あらゆる他の対象に対して敏感な対象」であるならば、観照的な空間知覚のために自由であることによって、身体はこうした「感覚する対象」として自己を経験し得る状態に置かれる。私が観照的空間において経験するものは、その中で全てのものが私に提示される瞬間性だけではない。私自身の身体的感受性、すなわち、感官の種々の見地から私にこれらすべてが気づかれるように条件づけている感受性も、経験されるのである。その際、感覚する身体はいわば種々の方向づけと遂行の中で自己を告げているのであって、さもなければ、感覚する身体はその中に織り込まれてしまっているのである。そして種々の方向付けと遂行は、繰り返すならば、観照的知覚の不可避の前提なのである。現出の戯れに対する私の注意が事物中心の直観から空間に開かれた直観へと変容する瞬間に、私はこうした戯れの主体かつ一部として自己を経験するのである。

こうした感官の意識は自己を渇望する意識とは全く異なり、空間を渇望する意識であり、そのようにしていつも事物を渇望する意識である。観照している時は、純粋な感覚や本当の感覚が働くときではない。そうした感覚が働くときにはかろうじて、もはや何かについての印象ではありえないような印象が経験されるだけであろう。だがこれは、観照的に直観される空間は決してあらゆる秩序づけを欠いているのではなく、その空間は、前と後、上と下、近くと遠く、大と小、明と暗、こことそこ、いまとそれから、という秩序を知っているのである。こうした身体を中心とする空間の分節化が、ここではあらゆる持続的な意味の分節化から解放されていたのである。際限のない観照の中で、「生きられた」空間の極端な変容が開示されるのである。従って、観照的空間とは、生きられた空間のマイナス形態である、と言うことができよう。こうした直観の中で我々が自己をどこに見出すにせよ、観照的空間とは、我々が他の場合に自らの行為の余地として認識している、まさにその空間である。

c.美の観照と崇高の観照

観照的な空間経験は、崇高な経験の原型である。この経験は、身体と結ばれた自己の知覚活動が空間的な周囲の経験の消尽点となる。そうした経験が空間を変容させるのである。空間それ自体が生起となり、ひとつの整理されえない出来事となる。知覚の立脚地が任意の位置となり、地盤のない場所となる。そこから、崇高の理論が話題にする知覚的意識の危機が帰結する。情緒なき空間が崇高な情緒を生むのである。どの解釈を見ても眩暈は崇高な意識に属するとそれるが、眩暈の原因は、世界が突然に空無と化すことにある。その空無の中に、こうした経験の両義性は基礎を持つ。

こうした観照的な空間経験という崇高の形式的規定は、この経験の特権的な諸対象について何も想定することはない。崇高の観照は世界の特定の領域のとも自然の特別な記念物とも、特に結び付けられていない。空間的観照は、その子孫である事物の観照のように、事物の平等主義者である。すなわち、開かれた空間、なかば自由な天空があれば、空間的観照はその顧慮を欠いた業を展開できるのである。観照の時間に対して、外的所与によって境界が設定されることはない。

事物の観照はいつまでも局所的直観に制限されており、意味付随的な生活世界の空間内部で、何かを意味疎隔的な現出において知覚するのである。それとは逆に空間的観照は、解釈を欠いた注意を全体化するのである。空間的観照に対しては、生活世界の空間全体が、意味疎隔的に生起として提示されるのである。ここでの美的な一大事は、先々までの自明的に分節化された世界の中の異他的なものではなく、この現出する世界の有意味な分節化の解消であり、消滅である。このように知覚されたものは、事物の観照だけによる知覚の対象のように、狭い意味で美しいのではない。その知覚による孤立した観察は、必ずしも自己の観察能力へと立ち返っていないのである。その代わりにこの知覚は自己の対象の中に「沈み込み」、対象の観察のなかで自己を「喪失する」が、こうしたことは境界を撤廃した空間意識には起こらない。事物を観照する観察においては、我々はいつまでも自分たちの周囲と一体であり、ここではすべてがその安全な場所に配置されている。これが個々の事物に感性的に没頭するための前提である。まさにこのことを、「美しい」という語の優れて狭義の観照的な用法が物語っている。すなわち、その語法は、我々が世界の構成を、たとえ方向づけの欲求をすべて度外視しようとも、我々の方向づけ能力への「適合」状態にあると感じる、と明言しているのである。こうした狭義の美の知覚は、生きられた世界の連関を引き裂きはしない。その知覚は、もっぱらそうした連関のなかで、共約不可能な観察の可能性を概観するのである。だが、自由な自然の空間の総体性を知覚することは、これとは異なる。ここで有意味性という織物が、全体として消え失せてしまうのである。

「美しい」という述語が美にも崇高にも使えるということは、観照的な自然知覚の二様態について、両者の違いが程度差であることを示す証拠である。事物の知覚がゆっくりと空間の知覚に移行し得るように、空間の知覚はゆっくりと事物の知覚に緩和されうる。そうした中間状態のほうが、むしろ正常なあり方だといえよう。大方の場合は、観照は純粋な没頭と忘我的な震撼を両極として、そのあいだのどこかで行われる。この両極は同一の事柄のたんに言語的な裏面にすぎない。すべての観照は美ないし崇高の現出に関わっており、美の観照と崇高の観照を語ることは等しく正当なことである。すべて観照は美ないし崇高の観照であって、それゆえ、所与と現前の観照である。だが、そうした所与と現前は、現象のための感覚からしか生じないのであり、しかもその感覚にとっては意味を持たないのである。

« マルティン・ゼール「自然美学」(6) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(8) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルティン・ゼール「自然美学」(7):

« マルティン・ゼール「自然美学」(6) | トップページ | マルティン・ゼール「自然美学」(8) »