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2014年3月31日 (月)

マルティン・ゼール「自然美学」(8)

3.観照的意識

a.それは自然でなくてもよい

これまでに言われたすべてのことから、観照的注意は決して自由な自然のなかの自然な客体の知覚と結び付けられてはいない、ということは明らかである。そもそも観照的注意は自然な客体や状況と結び付けられていない。あらゆる対象は、自然な対象であれ人工の対象であれ、観照的知覚の客体となるのに適している。ただしそのためには、知覚する当人がこれらに対象に対して、そしてこうした周囲の状況の中で、適切な距離をとることができ、そのために奮起しなくてはならない。知覚する当人の感覚は、極端な刺激値によって脅かされ、打ち負かされてはならない。知覚する当人の関心は、認識と行為の意図によって支配されてはならないし、会話や願望が生む幻想によって消耗させられてはならない。

「意味疎隔的な現象的個体性」のなかで与えられることは、自然の特権ではない。それは単純なことで、我々は非人格的な感性的直観を人工的な事物や空間にも認めることができるからである。観照的に知覚されるものは、純粋な自然でなくても、何であれ純粋なものでなくてもよい。我々が純粋に向き直るときにそれが直観されるならば、それでもうよいのである。

それゆえ、卓越した観照詩人たちは、決して自然に固執しなかった。文学と絵画は、自然物と人工物がそこで一つの状況を形成するような、無数の見方を知っている。

b.観照の主体であり枠組でもある自然

それでは、観照的に知覚された自然に特有なことはあるのだろうか。そこで、観照的に知覚された自然に固有なことは、原則的には次の点にある。すなわち、そうした自然の中では、ある全面的に規定された機能を果たすために世に現れた諸対象、すなわち製造ないし調整された諸対象の場合よりも、観照的観察が遥かに身近である、ということである。自由な自然の中の自然対象によって、それを固有の仕方で知覚している人々は、ほかの人工的な客体によるよりもはるかに無媒介的に、対象の純粋な現象性に対面させられる。というのも、人工的な客体の場合には、それらの一度限りで個体的な現出を甘受できるようになるために、我々はまずそれらに現に与えられた、あるいは与えられうる諸機能を度外視する必要があるからである。あらゆる人工的な器具と空間は、自然対象とは違って、使用目的で考案され製造されているので、そうした使用に反した観照的見地から知覚される必要がある。純然たる農産物であれ、工業化された農産物であれ、天産物はいつでも成長と創造の所産であり、そこに人間の活動が随伴していようとも、それらは意図せずに生成を遂げている。我々がそこで何も生産物を見ることのない原生の自然は、なおさらのこと、機能的に理解できない形で生きている。自由な自然における自然対象は、特定の何かのために存在してはいないが、次のような場合に、他のあらゆる対象よりも私たちに迫ってくる。それはすなわち、私たちがそうした自然対象を、その一時的な現存在において現出する以外に、何かのために現に存在するのではないかのように知覚する場合である。

人工的な空間は、常に活動を念頭において立案されており、そこで遂行される活動によって刻印されている。そうした人工的な空間を厳密に観照的に経験し得るには、観察者たちは、自分がずっと使用者や居住者として組み込まれてきた共著絵関係から、まずは身を引き離さなければならない。それに対して自然の空間は、本質的に非協調的な空間であって、観察と所有に向けて組織されていない空間である。このような空間には、まったく何も登録されていない。たとえそこで何が見出されうるにしても、我々はそれらの中に、我々の身体の偶然的な重心を拠り所として、自らを見出すのである。自由な自然は「その諸対象を我々の身体へと方向づけることで、釣り合いを喪失してしまう」空間となる。近世的な自然意識の端緒において、こうした釣り合いの喪失が経験されている。それは意味付随的な秩序を欠いた宇宙における、現存在の経験である。

自然とは一方において、観照を実践するための最初の媒体であり、観照を学ぶための比類なき学校である。他方で、このように理解するならば、こうした状態においては、自然は観照を適切に扱うあらゆる理論にとって、掛け替えのない枠組みである。美的観照の根本特徴は、自然に向けられた眼差しのなかで、十全に展開されている。というのも、美的観照の全般的特徴は、次のとおりだからである。すなわち、美的観照は、自らの対象や周囲の状況にまつわる文化的意図をすべて度外視する。むしろ美的観照は、自らが感覚し、見るものすべての中に、自然を見る─すなわち生動性、一時的なもの、儚さ、変移性、意味から自由に生成するもの及び生成それたものを見るのである。

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