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2014年3月24日 (月)

マルティン・ゼール「自然美学」(1)

序言

我々が外的自然対して抱く近代的好感の根拠とは何であるのだろうか。もはや内的な意味が信じられていない知覚にとって、自然の感性的な魅力はどこにあるのか。偶然的な形態の領域がいかにして人間の十全な可能性になるのだろうか。美的自然は芸術の原像なのか、それともその模像なのか。なぜ自然美は、人間的実存がその生をうまく成就できるような範例的な場所であるのか。自然をいたわることがつまるところ人間世界の保護に行き着くのはなぜなのか。これらの問いに対して主に18世紀において定式化された古典的な回答を単純に繰り返すことは出来ないだろう。新たな回答を試みる時期が来ている。

本書の回答は、自然を美的に知覚する可能性を体系的かつ規範的に記述する試みである。私の関心事は、自然美を世俗的に弁明するということである。但し、そうした試みはそれが約束する以上のものを扱わなければならない。自然美学が自然のみを扱い芸術その他の美的領域を扱わないとしたら、自然美学はその対象を捉えそこなっていることになろう。自然美学はその対象の特殊性を突出させることはできないだろう。自然美学がその主題を展開できるのは、一般美学の見取り図の中でのことに限られるからである。

 

緒論 自然に対する人間の関係

1.原像か模像か

まず最初に自然は芸術の原像と位置付けられ、その後で芸術の模像に変わった。自然に対する人間の関係の歴史を一つの命題で書こうとすれば、そのように言えるだろう。この命題は美的直観にまつわる長い歴史を要約するにとどまらず、自然に対する人間の関わり一般が生み出す根本的な緊張感をも表明している。この命題で話題になっている「芸術」は芸術家の制作する芸術だけではなく、人間の実践によるあらゆる種類の技術的熟練の成果と制度化された規定をも包含する。芸術と自然とは、そのどちらが認識と行為によっての標準的審級の役割を担うかどうかをめぐって競合する。一方で自然が我々の認識・制作・生き方の手本と見なされ、他方で人間の制作したものが自然に対峙した行為でさえ従うべき手本と見なされる。自然と芸術のいずれかが原像であるかを巡る論争は、人間の生の方向づけを決定するものの本性が何であるかの問題である。

原像についての根本的な両極性は、古代以降自然についての思索が繰り広げられてきたさらに多くの選択肢へと分岐する。自然は一切の人間の理性活動が模範としなければならない行為主体なのか、それとも理性の模範が見出されるのは、自然を一切の活動において意のままにできる客体とする能力においてか。自然からその法則の秘密を聞き取らなければならないのか、それとも我々の法則を押し付けて自然にその構造を自白させるのか。芸術家の発案したものは自然の産物に従うのか。個人自由と幸福が充たされるのは個人の内的自然を解放することによってなのか、それとも内的自然を制御し昇華することによってなのか。環境保護は自然の権利の名の下で命じられるのか、それとも好都合な環境に対する我々の関心の名の下で推奨されるのか。生活の規範的形式は自然を通じて人間に付与されるか、それとも人間によって自然対しても定立されるのか、そのどちらかであるように思われており、自然は芸術の原像であるか、それとも模像であるか、そのどちらであるかのように思われているのである。

哲学は原像をめぐる自然と芸術の争いから生じた分裂を克服しようと試みてきた。その一例となるのが、人間と自然とのかかわりを共同的な一つの関係として考えるアリストテレス的なポイエーシス的自然の観念である。このモデルによれば、人間は自然の形成を完全にして完成させることで、自然の形成作用に従っていることになる。しかし、古典的-近代的という文化の自己了解にとって自然の在り方は重要でなくなり、そうした文かは規範としての自然に対する緊張関係のうちに独自の成果を見出さなくなる。自然は造形芸術の形なき材料となる。そのとき芸術は、もはやその模像としてさえも現出しないほどはっきりと人間の実践の原像となっているのである。自然の存在と人工的存在の結合を、自然に対する人間の様々な分野にわたって唯一のモデルで上手く考え抜くことができれば、この媒介は包括的なものになるだろう。アリストテレス的伝統およびプラトン主義─キリスト教的伝統におけるポイエーシス思想はこのモデルに相当した。けれどもこれらのモデルへの回帰は拒まれている。近代科学の勃興以降、自然における存在と自然を部分的にともなった存在との完結した理論の拠り所となりうるような統一的自然観はもはや存在しない。数学的物理学の対象、生物学および遺伝学の対象、医学ないし心理学を用いた療法の対象、果樹園の自然及び美的風景の現象、これらを包括し、かつ端的に必然的で好都合この上ない自然関係への問いに普遍的に応答し得るような自然概念を見通すことは不可能である。この問いの立て方は自然の各々の領域ごとに異なる。他方、こうした自然の「領域」も、我々の「自然」に対する関わり方、「自然」との出会い方、及び「自然」との違いのあり方によって以外には与えられない。自然の一般概念とは、こうした諸関係から獲得された抽象物であり、そうした抽象物それ自体には自然とのいかなる独自の関係も対応していない。自然「の」哲学とは、これらの様々な関係における「自然」についての説明に他ならない。自然はそれらの関係においては、人間が「自然」の現象と出会うさいに依拠しているそのつどの自己了解を補足するものとして登場する。ある特定の自然像─たとえば科学的、技術的、生活世界的、及び美的といった─が別の自然像を基礎づけるもしくは支配できるかどうか、あるいは支配ないし修正するようになっているのかどうかという理論的かつ実践的な省察は、自然を構成するいくつものモデルの下で方向づけられなければならず、いずれ一つのモデルに基づいて論じることはできない。

このような状況により、自然に対する人間のあらゆる態度が文化的標準によって規定されているということに対する眼差しが研ぎ澄まされる。自然が一切の芸術の原像だとする見方すら、ある特定の文化の規範に過ぎない。我々の自然認識の基準がたとえ自然主義化されたものであっても、その基準は自然の基準ではない。我々にとって尺度となりうるのは、われわれの尺度のみである。こうしたカント的な意識の後方へは現在では誰も後退することはできない。だからといって、自然が基準となる力をもつとする立場に対する代案のいかなる定式化にも同意しなければならないわけではない。いかなる反自然主義的立場を想い起してみても、そのいずれも保持することは容易ではない。自然の意味付随的な原像性をもはや信じないものは、自然が人間精神の模像、影あるいは構成物でしかないことをもはや信じる必要もない。自然が人間の実践にとってもはや原像ではあり得ない局面でも、人間による実践の成果はもはや自然的なものの原像である必要はない。自然は原像でも模像でもないと考えることが可能になる。

自然に対する我々の出会いの諸形式は自然の形式ではない。我々が自然の幾重にも及ぶプロセスと形骸化に出会うのは我々が自然に接近する方式の内部でのことであり、それらのプロセスと形態化の幾つかが我々の存在全体の条件として認識される。自然に対する人間の接近は自然に基づく方向づけの可能性を開示するが、その方向づけは、方向づけの遂行を妨げる何かと遭遇するがゆえにこそ遂行されうる。それゆえ自然は文化的実践の基準には従わず、文化的実践がその都度突き当たる抵抗と合一することでこの基準に従うのである。

自然との適切な関係に対する問いは、自然に対する我々の諸関係の間の正しい関係に対する問いとなるのである。

 

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