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2014年3月 1日 (土)

宮崎裕助「判断と崇高」(17)

アーレントが『判断力批判』を「カントの政治哲学」として評価するポイントは、第40節の趣味判断の格律のひとつで「視野の広い考え方」と呼ばれるものである。アーレントによれば、通常カントの倫理学・政治思想の著作と見なされている『実践理性批判』は「定言命法」という理性の自己立法の能力を打ち出すものであり、みずからの良心に一致すること(自律)を強調する西洋倫理において旧来の「自己一致の原理」にとどまっている。それに対し『判断力批判』が重要となるのは、たんに自分自身と一致している自己充足的な原理ではなく、まさに判断力についての考察を通して「他のあらゆる人の立場で考えること」という思考様式を明らかにしたからだ。『判断力批判』での美についての趣味判断は、一般規則や概念に頼ることなく、ひとりの主観の経験にのみ基づく「単称=個別的判断」でなければならないが、他方、私的な関心や快適さといった制約からは解放されなければならず、この主観的で個別的な判断は常に「普遍妥当性」を要求している。そこからアーレントが強調するのは、判断の成否が、他者との潜在的な合意を要件としているということ、つまり判断力は、自己との一致のみならず、他者とのコンセンサスに達しなければならないという予期されたコミュニケーションを含んでいるということである。

美という現象はその都度個別的で主観的な経験であり、また芸術作品は芸術家の天才に依存する限りで社会とは無関係に産み出される。この意味で、芸術と政治とは本来緊張関係にある。しかしそうであればこそ、美やそれを担う芸術は、観賞者の趣味判断を介して普遍的に受容されるための説得と合意のプロセスを必要としているのであり、むしろそれを通してこそ、すぐれて政治的なトポスとしての公共領域が開かれるのだ。かくして「文化」とは、そのような判断が積み重ねられた公共領域の成果だ、ということになるだろう。以上の議論を通してアーレントは、カントの趣味判断をひとつの政治的能力、つまり政治的判断力へと読み替えていく。

 

これに対して、ハーバーマスが『近代─未完のプロジェクト』において「近代のプロジェクト」を実現するための試金石となるのは、美的経験の領域である。その際に問題なのは、近代社会において芸術の役割をどのように位置づけるのかという点である。ハーバーマスも、アーレントと同じく、カントの『判断力批判』を参照しているが、アーレントのヴィジョンは趣味判断が他者との合意を目指す限りで間主観的な公共領域を開くというものだったが、ハーバーマスは『判断力批判』を、もっぱら美的主観を純粋化し美的経験を分離する原理として参照する。ハーバーマスの理解では、趣味判断それ自体は、実人生とは無関係に一切の関心を排した心的状態において下されるかぎり、美的なものをそれ以外の価値領域及び生活実践から分離するのであり、これは「脱中心化し外界に焦点を合わさないで自己自身を経験する主観性における自己自身を経験する主観性における自己経験の客観化」として「日常の時間・空間構造からの離脱」や「知覚上ないし合目的的な行動が準拠する慣習=規約からの離反」をもたらす。結果、美的なものの自律化は、芸術制作が、美的仮象の領域のうちへと自閉し、芸術家自身の生きる現実的世界・社会生活からの遊離や疎外として行われざるを得ない、という問題を惹き起こすことになる。

20世紀の芸術は、こうした芸術と社会の乖離を、社会に対する芸術の批判的な抵抗力ないし解放作用そのものへと転換するため、当の抵抗力によって芸術という美的領域そのものを破壊し、現実と仮象、社会的実践と美的経験─政治と芸術─との融合を一挙に達成しようと試みた。こうした芸術の自己止揚のもくろみは、ハーバーマスによれば大きな誤りである。

そこで、ハーバーマスの提案する処方箋は、市民社会における芸術は、それを鑑賞する素人に専門的な教養を身につけるよう要求するにせよ、他方でその受け手である素人は、芸術一般の内的発展にかかずらうことなく、個人の生活史の経験に根ざした立場から芸術を自身に取り入れることができる。このように、あくまで生活世界の視角から専門の文化を吸収獲得することを尊重するならば、近代の専門化されて分断された文化的な諸領域を、元来それらが相互に連関し合っていた日常の生活実践の厚みのうちに回復し統合することができるだろう、というわけである。芸術が芸術として客観的に成立するための美的経験の理想的な条件を、万人に妥当すべき、日常の間主観的な生活実践=コミュニケーション実践に求めている点で、アーレントとハーバーマスの議論が目指す到達点は同じだということができる。

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