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2014年3月25日 (火)

マルティン・ゼール「自然美学」(2)

2.美的関係

自然美は伝統的に様々に了解されていたし、現在でもなお様々に了解されている。伝統的美学は自然直感を、自然本来の状態を想起しながら自然に関与することとして了解してきた。つまり宇宙論的秩序の発見、自然という神的書物の読解、理念の観取、及び主体がその超越論的本質に遭遇することとして了解してきた。真なる自然がもはや失われた自然であり、仮象のような自然、まだ見出されていない自然であるとしても、伝統的美学は美しい自然を真なる自然の代理人として了解して木田。近代の自然美学ですら、それが存続する間は、こうした表象からは実際に解放されることはない。実際には、今日に至るまで近代の自然美学は存在していない。テオドール・フィッシャーが言うには、自然美は芸術的制作の残照にほかならないから、これを芸術美より優先するのは誤りである。

自然美は芸術美の原像でありうるか、それとも模像でなければならないという旋律は、我々にお馴染みである。この命題が根本的に誤りであっても、この命題には重要な洞察が含まれている。自然美の理論は芸術を視野に入れなければ成り立たない。だからといって<古典的─近代的>な思想が伝統的思想をたんに裏返して下した結論、つまり自然美が芸術美の原像でなければ、その模像にすぎないということが正当化されるわけではない。そうした結論を下したところで、厳密に考察すれば、一方が他方の代理人となっているという因習的なパターンが反復されるに過ぎない。

近代以降の美的自然と美的芸術は、先に与えられた存在による束縛からの解放のプロセスを辿っているますます両者は、自らの秩序の「代理」、感覚に導かれた発見を誘発する偶発的な構造物ないしは構成された構造物の代理となる。そうした展開は近代において自然に対する関係が複数化したことの直接的帰結である。自然の包括的概念が瓦解する瞬間に、自然という美的原像が揺らぎ出す。自然を芸術の模倣とする考えはそもそも美学思想史の当初(アリストテレスがプラトンの異論を改釈して以降)より存在し、芸術が自らの美的立場を強化するために考案したものだったのである。これらの足場が失われれば、ただちに両者の位置価値の大きさは新しい自由な関係に移行する可能性がある。芸術の秩序は美的自然の現前とのコントラストの中で形成され、その美的自然も芸術作品の構成との絶えざるコントラストの中で経験されうる。

近代の自然美学はこの両方の運命の差異と連関を概念的に把握しなければならない。近代的な自然直観を了解しなければ、新旧いずれの芸術も了解されない。近代的な自然直感というものは存在するが、理論は美学の著作の中には存在しない。しかし多くの近現代の芸術作品には含まれている。そうした作品は、芸術の原像に固定されない自然直感の第一の弁護人なのである。

時代を通覧すれば、自然に対する人間の好感には多くの説明が見出される。そうした説明が常に新しい仕方で対応する基本モデルが三つ存在する。第一モデルは活動的行為から喜んで距離をとる場所として美しい自然を了解する。第二モデルは人間的実践が直観的にうまく成就する場として美しい自然を理解する。第三モデルによれば美しい自然は人間世界をイメージに富む仕方で映し出す鏡として現出する。自然美の知覚は、第一モデルにおいては生の営みから観照的態度をとって背を向ける行い、第二モデルにおいては自らの生の状況を照応的に現前させる行い、そして第三モデルにおいては世界内の存在を想像的に解釈する行いである。第一モデルの由来は古代、とりわけプラトンの宇宙論にある。つまり、調和的な自然全体の観取としての「テオリア」理解までさかのぼる。第二モデルの由来は、人間の要求に何もかも応えてくれる楽園的な自然のイメージにある。ここではすでに、人間的に身近な自然の両義性が共鳴している。第三モデルの由来はポイエーシス的自然という古代の自然像にまで遡る。自然はそれ自身の創造した芸術、あるいは神が創造した芸術で埋め尽くされている。人間の芸術がこうした関係のうちに立ち入ると、たちまち自然の原像性という後光が消え始めるのである。

自然への好感に関する三つの説明の由来は、美学に特有のものではない。重要なのは、哲学的─神学的な世界解釈であり、そこから次第に美的に世界に向き合うことについて様々な特殊な解釈が生じてきたのである。それが明確に美的な意味を徐々に手に入れるにつれて、競合し合う美学の諸解釈として徐々に分岐して行った。それにもかかわらず、われわれの考察の経緯において見て取れるのは─「観照」、「照応」および「想像」といった─美学の三つの主要概念のいずれを根本概念として選ぶかに応じて、多くの美学がきわめて明確に区別されるということである。

とはいえ、美的自然の魅惑はこれら三つの可能性のうちに同時に存在する。美的自然に対するわれわれの好感の三つの原型的説明が総じて正しいというのが、私のテーゼである。逆に言えば、一つの説明がそれぞれ他の二つの説明に対する優越を要求すれば、これらの説明は総じて正しくないことになる。

 

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