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2014年3月 4日 (火)

宮崎裕助「判断と崇高」(20)

結論

カントのいう崇高の感情は、人々が壮大なものや圧倒的な力を前にした時に感じる「不快の快」という否定的な表出の弁証法を、基本的な説明原理としていた。しかしながら、本書の『判断力批判』読解が「吐き気」の感情を経由して「パラソブライム」の名のもとに探ろうとしてきたのは、まさに崇高の弁証法的な論理のただ中で、それを中断するかのように、そうした表出の論理には回収されないような微妙な感情の働きをカントのテクストが記しづけているのだということである。

序章で触れたように、カントの美テク判断力の概念を20世紀の思想におれる政治的判断力の問題として捉え直そうとすれば、「美的なもの」と「政治的なもの」との関係という一般的な問題が浮上してくる。従来この問題が立てられる場合、「政治の美学化」を批判したベンヤミンにおけるように「美的なもの」は「政治的なもの」の対立項と理解され、シュミットの政治的ロマン主義批判においてもまた、政治的決断を無化するような非政治化の要因と見なされてきた。それに対して、本書がカントの『判断力批判』へと遡及することで究明しようとしたのは、美的判断力における「美的なもの」がそれ自体美学批判の契機を宿しており、この「美的なもの=感性的なもの」こそまさに当の政治化をも促す両義的な批判的機能を備えているということであった。

そもそも政治の美学化に対して「美的なもの」の政治化をもって抵抗せねばならないとすれば、それは「美的なもの」それ自体を忌避したり攻撃したりすることにあるのではない。そうではなくそれは、あくまで「美的なもの」の作用を見据えること、そうして「美的=感性的なもの」それ自身の批判的な力を解放することによってこそ可能になるのである。カントの崇高論のテクストが記しづけているのは、いわば「美的なもの」そりものに宿る「政治的なもの」の契機である。それは、カントの崇高論が他方で打ち立てている「不快を介した快」という美学的な原理を遮断する効果を孕んでおり。そのような意味で我々が「パラサブライム」と呼ぶところの、もはや美でも崇高ですらないものの感性的な経験として、美学主義への抵抗、「感性の政治化」とも言うべき美的判断の出来事の瞬間を跡付けているのである。

 

カントは「すべての社会からの離脱も何か崇高なものとみなされる」と述べ、当の孤独に伴う「人間が自分自身に加える哀しみ」をも、崇高なもののうちに数え入れていた。そうした「社会からの離脱」を説明してカントは、それが「一切の感性的な関心を無視する諸理念に基づく」ものであり、「自足していること、したがって社会を必要としないこと、とはいえ非社交的ではなく、つまり社会から逃避しないこと」であると言い換えている。してみれば、こうした孤独の感情のうちに、「非社交的な社交性」として知られるような、近代的人間の自律にふさわしい「個」の感情の発露を読み取る向きもあるだろう。そのような自律と引き換えに生じた孤独の哀しみのうちに、カントは、崇高の感情を認めたというわけだ。だが、それだけではないだろう。

カントは別の例を引き合いに出し、とあるスイスの登山家のアルプス旅行記のなかで、サヴォア連峰のボノム峠について述べた一文「そこには一種の味気ない哀しみが支配している」注釈している。峠の寂寥とした眺めは、それ自体において「味気ない哀しみ」であり、このほとんど無情動な「味気なさ」において当の哀しみは、カントによれば「共感に基づいた柔和な情動」としての哀しみから区別されるだけでなく、あまりに荒涼とした場所ゆえに「落胆させるような哀しみ」からも区別されることになる。それでもなお、カントが当の哀しみを「関心をそそる哀しみ」として崇高と見なすのは、それが「一切の感性的関心を無視する理念」へのメタ美学的な関心に適っているとカントは考えるからである。

しかしながら、無情動の経験のただ中で見出されたことのような「崇高」は、カントが他方で崇高なものの感情を説明する際に持ち出す否定的表出の論理とは異なる感情の動きを含んでいるのではないだろうか。実際、この寂寥たる荒野の眺めが喚起する「味気ない哀しみ」のうちにはそのような弁証法的な緊張は存在しないだろう。むしろ、ここに認められるのは「味気のないもの=無趣味なもの」という美的なもののゼロ度にあってもなお、かろうじて漂っているミニマルな感情としての「哀しみ」でしかない。

われわれは、このボノム峠の「哀しみ」に見出された奇妙な無情動の崇高を「パラサブライム」と呼ぼうとするだろう。そして、そこに拡がる寂寥たる荒野の眺めを、ド・マンに倣って「物質的なヴィジョン」と呼ぼうとするだろう。そもそもこの「味気ない哀しみ」が、カント自身の言葉ではなく、旅行記からの引用であることに注意しなければならない。実のところ、そこでの眺めが、カントの意図を超えたて「味気なさ」という語の字義性において指し示しているものこそ、カントの崇高論が純粋に美的な視覚のうちに逆説的に打ち立てていた唯物論ではないだろうか。実際、ボノム峠の風景について、カントは旅行記の一節を引き写しているにすぎなかった。要するになにも見てはいないのだ。だが、そもそもカントの崇高論が示し得た物質的な視覚とは、「あたかも詩人がそうするように実際に眼の眺めの示すがままに」まかせておくことで現象としては眺めないという純粋に美的な経験であり、この純粋さによってむしろ、自らの視覚がはじめて可能になるという不可視の条件に直面する経験であった。してみると、物質的な崇高と言うべき、こうした「味気ない」荒野の光景をめぐっては、もとより何も「見る」ことなどできはしない。より正確に言えば、それは、当の視覚の現象性の条件を成している構造的な盲目性のうちにしか「見る」ことができないのである。かくしてカントは、事実上かつ権利上、何も見なかった、ということになるだろう。カントは「何ものか」を見たのではない。むしろ、自らが引用した言葉そのものが示すがままにまかせておくことで、純粋に美的であるかのような物質的な崇高の出来事に遭遇したのだ。そこに生じたのは、いわば、テクスト的ヴィジョンである。かかる視覚、というより視覚の盲目性、これこそは、翻ってみれば、「美的なもの」と「政治的なもの」との間で、我々がこれまでカントを読み続けるために必要として来たもの、そしてそれゆえにカントを読み続けなければならなくなる当のものなのである。

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